実験場としての観劇ブログ
先日、観劇で起きた出来事を、笑いを交えて、包み隠さずブログに書き、SNSに投稿してみました。 【鑑賞記録#11】東宝『レイディ・ベス』でアクセシビリティも浮き沈み(台本タブレット)https://t.co/BsVzxSUpKe 「台本貸出がある」だけでOK? 舞台挨拶で劇場全体が祝福に包まれる中、一人だけ「誰の誕生日なの…?」と取り残される? 劇場で直面したリアルな課題を綴りました!— 🆈🆄🅺🅸⭐️きこえない演劇ファン (@benefitsoap) March 31, 2026今までなら、絶対に書かなかったことを、笑いを交えて盛り込んだせいか、アクセス数がえらいことになった。一日で、約8000アクセス。世のインフルエンサーたちから見れば、なんてことのない数字だけど、私のように細々とブログを書いている人間からすると、一日に8000アクセスはちょっとしたお祭りです。ありがたいことに、記事を読んだ舞台関係者の方から、「S席のチケット代が15,000円の舞台で、字幕対応ができないわけがない。 ただ金を払いたくないだけだよ」という、頼もしいメッセージまでいただいた。そう、それが聞きたかったよ!そして同時に、こう思いました。じゃあ、今まで字幕がない作品で、15,000円払って、きこえない人はどんな観劇体験をしてきたの?笑いを交えながらも、包み隠さず書いたのは、正直言ってかなり困っているリアルな状況も、知ってもらいたかったから。ただ、実はこういう話は、よほど困っている時以外は、あまり書いてこなかった。観劇ブログに求められているのは、「感動」とか「推しの話」とか、「きこえない人が壁を乗り越えて観劇できた」とか、それなりにキラキラしたものであることが多く、そこに「誰の誕生日かも分からず、取り残される客の話」をぶち込むのは、ちょっとした場違い感がある。場違いなマイノリティの言葉を、この社会はどこまでなら許容するのか。SNSもブログも、私にとってはひとつの実験場だ。障害がある方が、バリアに対してものを申したことで、批判の矢面に立たされる場面を、これまで何度も見てきた。最近では、映画館で困った経験をした車いすインフルエンサーの方が声を上げていた件が記憶に新しい。映画館での“介助”をめぐり炎上した「車椅子インフルエンサー」が明かす、“騒動への思い”と驚きの“後日談” | AERA DIGITAL(アエラデジタル)スタッフの介助を受けて映画鑑賞を楽しんだが、終了後に「次は対応できない」と言われるのは、どれほどショックが大きいことだろう。私自身も、数年前に台本を借りて観た舞台で「次からは台本は貸し出せません」と言われたことがある。しかも観劇前に。でも、この時はぐっと堪え、感謝の言葉しか書かなかった。当時は「叩かれる可能性のほうが高い」と感じたからだ。実際に、このブログで事前に台本を借りて、セリフを丸ごと頭に叩き込んでから観劇している話を書いたところ、「神聖な台本を観客に貸し出すなんて、あり得ない。観に来るな」という趣旨のコメントを頂いたことがある。はやい時間から劇場に足を運び、台本を記憶しておいて観るのは一種の苦行であり、字幕があったほうが断然いい。自分が好きなものを、他の人も楽しめたらいいな、と思うことって、そんなに難しいことなのだろうか。だから私はいつも実験をしながら、ギリギリのラインを探っている。文体を少し変え、笑いを交えて書いてみたのも、実験の一環。起きたことを、できるだけそのままに。少しだけユーモアというフィルターを通して。最近、ふと思う。もし字幕ユーザーが「この作品は、面白くなかった」と、堂々と言えたなら、それは少なくとも「評価できる位置」に立てているということだ。字幕もなく、土俵にすら上がれなかった頃より、ずっといい。…私はそう思っているが、それをポジティブに受け取れる人がどれだけいるかは、正直わからない。世の中には、観劇ブログが山ほどある。愛のある毒も、遠慮のない批評も、書ける人がいる。では字幕ユーザーである私は、どこまで自由になれるのだろう。障害のある人が、忖度のない言葉で舞台芸術を語ること。そして、その言葉がちゃんと受け止められること。2026年の今は、それ自体がちょっとした挑戦かもしれないが、その境界線を、私はじわじわと押し上げていきたい。