12枚の羽根の歌 -2ページ目

12枚の羽根の歌

生きることは踊ること!

先日、母の誕生日祝いに、家族で行ってきました。

私は、実家にいても特に居心地が良くなくて(笑)、
それは、「いてもすることないし」って感覚だった。

両親共に良い人たちなんだけれど、
私自身があんまりエンドレスにお喋りするタイプではないし、
趣味もいろいろマニアックなもんだから、共通の話題がなくて(笑)

だから、実家に帰るのは、子どもたちのためのようなもんだった。


それが、この前は、母とすごく実り多い話ができたのです。
というのは、お年寄りの話。

母はずっと地域の民生委員をやっているし、もともと熱心なクリスチャンでもあるので、お年寄り世帯や介護施設に訪問することが多い人。

私は同じ「家族」関連でも、ずっと青年の引きこもり専門だったので、お年寄りの世界にはあまり接点がなかった。

でも、最近身の回りで、夫の両親はじめ、少しずつ身体が不自由になっていくにつれて、社会的な関わりから隔絶されていってしまう人たちと出会うようになった。
そのたびに、「ビオダンサで体験する生き生きしたつながりの感覚を、少しでも分かち合いたい」と感じるようになった。

ビオダンサのファシリテーターになるっていう14年ごしの夢が、だいぶ実現に近づいてきたけれど、
どんな人たちに伝えたいって、そりゃーすべての人たちに伝えていきたいんだけれど、
今はとりわけ、お年寄りの人たちに伝えていけたらな、って気持ちが強くなってる。

だってね、
身体が思うように動かなくなったり、耳が遠くなったり、言葉が出にくくなったり、
いろんな理由で、人とつながったり、自分を生き生きと表現したりする機会がぐんと減ってしまっている人たちのことを思ったら、本当に切ない。

ただ人と共に過ごすことが、
ただ手と手をふれあうことが、
ただほほえみあったり、一緒に笑ったりすることが、
生きるためにどんなに大切なことだろう。

……って、私自身がそうだから、そんな可能性の爆弾を持って、突っ込んでいきたくなっちゃうんだよね。

母と、そんな話をした。
そしたら、母がすでに訪問してるお年寄りの施設に、「すぐにでも紹介するわよ!」って反応だった。

いやいや、私がファシリテートできるようになるのは、来年の話なんだってば、って引き止めた(笑)

はじめて、同志的な話ができた気がした。すごく、すごく、画期的だった。
母子関係、以上の可能性があったのね……!

ちなみに、母はビオダンサに参加したことがありません。
父も。
私がクラスやるようになったら、まず、どんなものか知ってもらうために、両親に来てもらうわよん♡
「愛着」について。

9月にあったジュディス・ウィ-バー博士の「周産期心理学WS」で、とっても印象的なことをジュディスが言った。

「愛着(アタッチメント)理論」は心理学的に大事なキーワードにもなっていて、「愛着」という言葉はたとえば、

「愛着によって結ばれた親と子は、声の調子や身ぶり、表情といった言葉以外のサインを通して、気持ちを分かち合うことができる。」

とか、

「不安定な愛着しか受けていない子ども、すなわち養育者が何らかの理由でしっかりとかかわっていない子どもは、ストレスにさらされている。」

とかいう文脈で使われます。

生まれてから3歳までの間に、健全な愛着が形成されるかどうかが、その後の人生を大きく左右する、とか。
サルの赤ちゃんに代理母を与えて、どっちを好むか試した実験が有名ですね。ミルクの出る針金でできた代理母と、ミルクは出ないけれど布でできたやわらかい代理母と一緒に置いたら、ミルクが出ないのに、ふわふわな方に赤ちゃんザルはずっとくっついていた、という話(かわいそう……そんな目にあわせちゃってごめんね、ってこの話を思い出す時、いつも思う)。


そんな文脈が多いので、愛着というものは、まるで、赤ちゃんが一生懸命身につけるべきもののような印象がある。


でも、ジュディスが言っていたことは、ちょっと違ったのです。
「愛着を持つのは子どもの側の仕事ではない。そうではなくて、親の方が先に、子どもに愛着を持つんです。親が子どもに恋をするんです。それが健全なあり方」

この一言に、なんだかがつーーーーんと、ショックを受けました。
もちろん、良い意味で。

世界がひっくり返るような言葉じゃありませんか。


振り返ってみると、あたりまえではあるんです。だって、赤ちゃんって、無条件でかわいい。何をしてくれなくても、うんこやしっこを垂れ流しても、抱っこした肩や背中に白いもの吐き出してきても、存在そのものがかわいくてたまらない。

「発達心理学」と言うと、「子どもの発達」の方につい重点を感じてしまいがちになるけれど、
それは確かにとても役に立つ視点ではあるけれど、
子ども本人は、評価されるためにいるんじゃない。


ジュディスの姿勢は一貫して、
私たちはみな、受胎の時(ひょっとしたらそのずっと以前)から完璧な存在で、全面的に愛と敬意に値する、というものでした。

そこから出発しているから、赤ちゃんや子ども、そしてもちろん大人に対しても、心からの敬意で接してくれていることが伝わってくる。
それが彼女のワークを素晴らしくしている最大の要因なんだな、と感じました。


……なんでそんなことを思い出したのかって言ったら、
おとといは、子どもたちの学校の運動会だったのです。
ビオダンサのスクールの大切な単位と重なっていたけれど、子どもたちの命の輝く舞台を見逃すことは私にとってはありえなかったので、朝からお弁当作って、行ってきました。

親子競技もあって、
長男の時には夫が出たけど、次男の時には私が出た。パパの方が嬉しいんじゃないかなーってちょっと思ったけど、夫が肉離れ気味だったので、夫婦で話し合って、私が出ることに。

競技自体はとっても楽しかったし(サツマイモとみかんを取りに行って、それを持って子どもを抱っこして帰ってくる)、次男も抱っこされてる間じゅううひゃうひゃ笑ってたし、順位だって、お父さんたちもいる中、9組中たぶん3着くらいで悪くはなかったし、
まあがんばったよね、楽しかったね、という感じだった。


でも、一夜明けた昨日の朝、次男がつぶやいた。「おれほんとは、パパの方がよかったな……」って。
あ、やっぱり来たか、って思った。

「……だってパパの方が速いんだもん」

まあ、そりゃそーだよね。男の子としては当然の心理だよね。

私「ママもそうじゃないかなーと思ったんだけど、パパは肉離れ起こしてたし、出ても全速力は出せなさそうだったんだよ。それに、ママと一緒だって、べつに遅くはなかったでしょ? ママじゃ嫌だったの?」
って聞いたら、
「そういうわけじゃないんだけど……」
って歯切れの悪い感じ。

長男も交えてそんな話してて、長男は「おれはどっちでもいいよ」って言うので、来年は長男の時は私、次男の時は夫が出ることに、もう決まった(笑)


で、昨日は振り替え休日で一日かけて洗濯やら片付けやら事後処理をやって、
子どもたちも寝て、

夜夫が帰ってきてから、ふとしたことがきっかけで、私、号泣。
最初は夫がテレビばっかり見てまともに会話しないのが嫌だったんだけど、最終的に泣きながら言ってたことは、
「海星に『パパの方がよかった』って言われて傷ついた~~」「一生懸命やったのに~」「いつも一生懸命ご飯作ったり洗濯したりしてるのに、何かっていうと『パパの方がいい』って~~~」

……さすがに、夫によしよしされた。。


もちろん、アタマではわかるのです。正常に発達してる男子だからなんだ、って。いつまでもママママ言ってたら、もちろんそっちの方が気持ち悪い。
男子がパパに憧れてパパ大好きでいてくれるのは、とっても嬉しいこと。

それはそれ。


でも、これはこれなんだよーーーーーーーーーー(ToT)


……子どもが成長していくっていうのは、親離れしていくこと。
順調に成長してるんだなぁ。


いつかふられるってわかってても、愛さずにはいられない。胸が痛むほど、いとおしくてしょうがない。
なんてことをひしひしと感じてたから、
ジュディスの「子どもに愛着を持つのは親の方です」って言葉を思い出して、
「そっか、ちゃんと親やってるってことなんだー」って、胸が痛む中でも思ったのでした。

いとおしくてしょうがないから、大好きだけど、離れていくのを応援するよ。
母はふられるためにいる。(大げさw)


まー、夫も言ってくれたけど、
子どもたちも、愛されてる自信があるから、私に執着しないでいられるんだろね。


よくやってるよね、私。
わーん。心身ともにもまれた週末だった。。
9/24・25の2日間、ジュディス・ウィーバー博士による「周産期心理学」ワークショップの通訳をつとめさせていただきました。
深く、宝物のような体験でした。

「周産期」とは、出生とその前後を含む期間をさす言葉。
今回のワークショップは、講義も交えつつ、受精卵となってから母の胎内で育ち、誕生し、この世で赤ちゃんとして生きていく時期に体験したことが、いかにその後の人生に影響していくかということについて、感じていくものでした。

印象的だったことはたくさんあるけれど、
中でもとても心に残っているのが、「コミュニケーション、つながりが大事」ということ。

かつて、胎児も新生児も「何も感じない」存在だと思われていたのだそうです。
だから、極端な話、新生児の手術は麻酔なしで行うのが常識ですらあったとか叫び

とんでもない!!!

「感覚」は「意識的に考える」ことよりもずっと早く生じていて、しかも、しっかり記憶されていることが、現在の最先端の研究で証明されているそうです。
赤ちゃんは胎内にいる時から、とても知的な存在。
胎児にとってお母さんは全世界なので、お母さんが感じていることを、赤ちゃんも感じている。
でも、じゃあたとえば、お母さんがひどいショックを受けたり、ストレス下にあったり、感情的・身体的に状態がよくなかったりしたら、それがそのまま胎児に影響を与えてしまうのか?

私自身、2人子どもを産んでいるので、とても切実なテーマでした。
だって、始終完璧でなんていられるわけがない。
だとしたら、何かネガティブなことがあるたびに、減点法で、子どもの幸せが損なわれていってしまうわけじゃないですか。

そう思ったら恐ろしくなってしまう。

でも、実際はそうではありません。

たとえショックな体験があったとしても、それによってネガティブな影響が残らないようにする方法があって、
それが、コミュニケーションなのだそうです。


たとえば、妊娠中の女性が、外を歩いていて、突然飛び出してきた自転車と危うくぶつかりそうになったとする。
びっくりして、心臓がドキドキします。
その時、胎児は母のドキドキを受けて、心拍数が母の2倍、跳ね上がるそうです。

胎児には外で何が起こっているのかわからないので、ただただ「何か危険が迫ってきた!」ということを感じています。

そこで、話しかけてあげると良いのだそうです。
「いま、急に自転車とぶつかりそうになって、びっくりしちゃったのよ。でも、ぶつからずに済んだし、もう大丈夫。怖いことはもうないのよ。安心して」

そうすると、そのメッセージがちゃんと伝わって、胎児は「もう危険がない」ことがわかり、安心する。
トラウマが残らない。


また、たとえば、両親がケンカしたとする。父親が怒鳴る声、母親が怒鳴り返す声が聞こえ、母親の胎内にいる赤ちゃんは、母親の体内で分泌されるホルモンを胎盤を通して同じく受け取るので、同じく興奮状態やフラストレーションを感じる。
それでも、その後に母親が「お父さんとこういうことでケンカしたけど、あなたのせいじゃないし、あなたのことは愛してるから心配しないでね」と話しかけてあげると、「この世の終わりではない」ということが伝わって、赤ちゃんは安心する。


そして、つわり。お母さんがつわりで苦しんでいると、赤ちゃんにはそれがわかる。そして、「自分のせいでごめんなさい」と感じることもあるそうです。
その時に、「つわりで苦しいのはほんとうだけど、あなたのことは大好きだし、あなたが悪いから苦しんでるんじゃない。あなたはあなたで、そのまま健やかに成長していってね」と話しかけてあげると、赤ちゃんは自分を責めずに、安心して成長していけるのだそうです。

細胞には二種類の機能があって、ひとつは「成長すること」、もうひとつは「身を守ること」。
両方同時にはできないので、
健やかに成長するためには、「安心感」が欠かせない。

「何が起こっていたのか」を説明することで、少なくとも、「わけのわからない不安感」がなくなります。
個人的に、不安の多くは、「何が起こっているのかわからない」ことから来ているんじゃないかと私は感じています。
事実は事実。それをどうこうすることはできないけれど、その「事実」をちゃんと伝えることで、「わからない」不安感がなくなるし、
もうひとつ大切なのは、「伝えることで不安感をなくしてあげたい」という、肯定的な意図が伝わるのだと思います。


私自身、子ども時代から大人になるまで、たくさんの不安や苦しみを経験しました。
その中には、「何が起こっているのかさっぱりわからない」「説明してもらえない」ことの不安がたくさん含まれていました。

たとえば、8歳でアメリカから日本に引っ越した時。
その前に体験した「引越し」がアパートの2階から1階に移るものだったので、「遠くに行く」ということがどういうことなのか、全くわかりませんでした。
それが、慣れ親しんだ土地から遠く離れた、文化も言葉も自然も違う土地で突然暮らすことになり、もう戻れないと知った。それがだんだんわかってきた時のショックは、言葉に尽くせないほどのものでした。

せめて、説明してくれていたら。
ショックな気持ちを、聞いてもらえていたら。

つまり、「感じる、知的な存在」として、尊重してもらえていたら。

同じ異国に引っ越すのでも、だいぶ違っただろうなと思うのです。その後15年以上も残り続けるようなトラウマには、ならなかっただろうと思うのです。


だから、私は自分の子どもたちには、何かにつけて、話しかけたり、わけを伝えたり、してきました。自分がストレス下でキレて子どもに当たってしまったりしたら、抱きしめて、「ごめんね、あんたは悪くなかった。ママが疲れてただけなの。びっくりさせてほんとにごめんね。あんたのせいじゃないんだよ」と謝りました。


ジュディスの講座でそういうコミュニケーションがいかに大切か聞けて、ああよかった、と心から感じました。
そして、帰宅して、息子たちに聞いてみました。「ママがそんな風に謝ってる時って、何を感じてるの?」

すると、10歳の長男はこう答えました。

「ママがそう言ってくれると、ほっとして、泣けるんだよ。ママが何も言わないでどっか行っちゃうと、泣けないんだよ」

なんだか、胸が熱くなりました。
私はずっと、「泣かせてごめん」とどこかで感じていました。
でも、息子は「ほっとして泣ける」と言うのです。そして、大丈夫になるのだそうです。

そりゃ、キレないのが理想です。でも、いつも完璧でいられる人なんていない。
そうなってしまった時に、傷を残さない方法が、ちゃんとあるんですね。ああ、ほっとした。

……というエピソードをジュディスに報告したら、
「素敵な話! よかったですね。息子さん、そこで泣けていなかったら、10年して、あなたのことを殴るようになっていたかもしれませんよ」

本当ですねー。。


コミュニケーションの大切さ。安心感を与えることの大切さ。感情を抑圧しないことの大切さ。
そしてこういうことは、親子の関係だけでは、もちろんありません。
大人同士の仲でも大切なこと。

なぜなら、ジュディスの言葉を借りれば、この世には2種類の赤ちゃんがいて、
それは「小さな赤ちゃん」と「大きな赤ちゃん」だからです。

赤ちゃんの部分を持っていない大人はいない。

だからこそ、周産期心理学の領域にアクセスしていくことで、大人の人生も変わっていくのですね。

長くなりましたが、あまりにも深い体験だったので、シェアせずにはいられませんでした。
お読みくださりありがとうございました。