「恥」と向き合う | 12枚の羽根の歌

12枚の羽根の歌

生きることは踊ること!

自己主張の国・アメリカで7年間育って、8歳で日本に来た時、いちばん強烈に教えられたのは、「恥」の感覚だった。

ただ「出る杭は打たれる」じゃないんですね。「そんな風に出るなんて、オマエは人間としておかしいんじゃないのか」っていうメッセージ付き。

最初は何のことかわからなかたけど、少しずつ自分を恥じるようになって、受け容れてもらえそうな、あたりさわりのないことしか言えなくなりました。

その感覚は未だに残っていて、
反射的に出てくる言葉が、その場の空気にマッチしているかどうか判断しきれずに呑みこんでしまうことは、しばしばある。
むしろ、周りにいる生粋の日本人たちの、「自分の意見を堂々とあるがままに述べる能力」に、感嘆したりして(笑)

それは、かつての私自身の姿だったのかもしれないんだけどね。


そうそう、アメリカ人式の「率直」と日本人式の「率直」は、また少し違うように感じるのです。

アメリカ人式は、「個人主義に基づいた、とりあえず何でも言う率直(英語の文法がそうなっている)」
日本人式は、「肚が据わって初めてできる、勇気のいる率直(日本語そのものが断言的ではないから、きちんと話すことは意図がないとできない)」

もちろん、私の個人的な印象ですが。



話は戻るけれど、
日本の小学校時代の思い出の中で、強烈なのが、小学校5年生の時に、先生が途中で転入してきた一人の男子をスケープゴートにしていたこと。
その先生はいつも棒を持っていて、何か生徒が「悪い」ことをすると、棒で叩いた。
棒を使うほどじゃなくても、忘れ物をすると、順番に前に出て、ビンタ一発(私もときどきやられた)。

なんじゃそりゃ~、って今は思うけど、
その時はその空気を生き抜くのに必死だった。

で、スケープゴートにされてたA君は、
何をやってもダメだったんですね。
たまたまちょっと間が悪いことをしてしまう子ではあった。
だけど、それはただ、みんなが笑わないところで笑ってしまったり、お調子者だからちょっとにやけてしまっていたり、
少しみんなより目が茶色くて肌も白かったり、
っていう、たったそれだけのことだったんだ。

だけど、先生はA君を絶対に見逃してあげなかった。
ちょっとでもA君が「人と違う」「空気にそぐわない」ことをすると、サッと態度を変えて、棒を持ち出して、教室中の空気を緊迫させて、彼を心理的に追い詰めるのだった。

彼以外の私たちは、(うわっ、始まった)とビクビクしつつ、A君を気の毒に感じる部分もありつつ、(自分がA君じゃなくてよかった……)って、ほっとしていた。少なくとも私はそうだった。
みんなシーンとして、先生の嵐が過ぎ去るのを待つ。

A君のお父さんは、授業参観に来た時、とても真面目そうな人で、A君はどこかお坊ちゃま育ちなのかな、と感じた。

先生がいつまでもA君をスケープゴートにし続けていて、彼はやがて、再び転校していなくなってしまった。


今頃どうしているのかなぁ。
そんな小学校時代の数ヶ月のことを、過去のことにして、元気に幸せに生きてくれてるかなぁ。


当時のことを思い出すと、涙が止まらなくなるのです。自分も強烈に感じたことのある、疎外感。恥の感覚。それを、クラスの中であんなに大っぴらにスケープゴートにされて、さらに徹底的に感じさせられていたA君。

味方になってあげられなくてごめん。ほんとうにごめんね。

……っていうどうしようもない気持ちは、
A君に向けてのものであると同時に、やっぱり恥と村八分の経験で、どこか小さく萎縮してしまったままでいる自分に対する気持ちでもあるんだ。

なんかそんなことを久々に感じて、号泣。


そして、実は最大のテーマは、
「かわいそうだった私たち」とちゃんと向き合って感じることだけじゃないんだ。

あんなに、ひとりの子どもを追い詰めて、スケープゴートにした、あの時の先生。


あの時の先生にも、ちゃんと向き合って、許せる(受け容れられる)かどうか、ということ。


だって。
「加害者」は、自分の外にいるわけではないんだもの。
「あいつがひどかった」って思っている限り、私は、自分の中の大切な部分を、許せないまま、受け容れられないままになってしまう。

だってね。
もし自分がそれをやってしまったとしたらどうする? その記憶を持って、「おまえは加害者だったんだから、一生それを恥じて生きなければならない!」って言われたらどうする?
その方が、重荷としてはずっと重い。


 「恥じなければならない」


それは、自分に対してであれ、人に対してであれ、
百害あって一利なし。



「加害者」だった先生。
「被害者」だったA君。
「傍観者」だった私。


それは、みんな、私の中にいる。


あの時の痛みを再び体験して、強烈に感じて、いっぱい泣いて、
A君のことも自分のことも先生のことも、クラスの他の子たちのこともちゃんと感じて向き合って、


ひとしきりそれをやったら、なんだかすごく落ち着いた。
そして、満たされた。
統合された感覚。


そんで、いまは「恥」そのものも、いとおしく感じています。


ああ、朝からなんだかすごく深い旅だった。