昨日(8月8日)日向灘で最大震度6弱の地震が発生しました。

翌日となったきょう。

宮崎県日南市内の商店街の映像をニュースで見ました。

 

日南は広島の放送局に勤めていたころ、毎年、春と秋のキャンプで訪れていたところ。

もちろん、商店街の風景に見覚えはありました。

 

若いころに夕食の後の席でつぶれるまで飲まされたこと。

店に行ったメンバーの中で一番酒に弱いといわれていた先輩の方を借りながら宿まで帰ったこと。

 

良い思い出です。

 

日南といえば今、天福球場に照明設備はありませんが、かつてはありました。

通常照明をつけることはないのですが、達川監督が誕生の際、秋のキャンプで夕方に選手が宿についたら、当時の大下ヘッドコーチが、「照明はつけるためにあるんだからユニフォームに着替えてグランド集合」と声をかけて急遽練習が始まったなんてこともありました。

 

当時は夕方のローカル番組「カープっ娘TV」と夜のフジテレビ「プロ野球ニュース」にリポートを上げるんですが、通常どちらも同じ内容なのに、慌てて別内容にしました。

とはいえ、宮崎市内のテレビ宮崎までは1時間ちょっとかかるので取材したテープはディレクターが「カープっ娘TV」ように、私が「プロ野球ニュース」ように2段構えでもっていったのも良い思い出です。

(今のようにIPを使って素材伝送をする技術はありませんでした)

 

日南の知り合いに連絡を取りましたが、無事とのこと。

何よりでした。

でもニュース映像で見る日南商店街の風景の崩れ方にはショックを受けました。

 

ここ数年は新型コロナのことがあったり、なぜか広島関連の仕事が回ってこなくなり、日南に行けていませんが、前をしっかり向いて頑張ってほしいと思います。

 

改めて、お見舞い申し上げます。

今年も8月6日がやって来ました。

 

毎年の書き込みと変わりませんが、被爆地広島で社会人のスタートを切り、14年を過ごしたものとして、この日は平和を殊更に考えます。

 

本来ならば、毎日考えなければならないのですが…。

 

今年は式典のありようが変わっているようです。

私が就職1年目に抱いた思いが変わっていないとも感じています。

 

平和に対する思いは人それぞれです。

その表現もそう。

 

ある人は「8月6日くらいは静かに一日を暮らしたい」と思われて過ごしている人もいるのは間違いないところです。

 

でも、なぜかいろいろと声高に開けぶ人がいるのも確かです。

 

それは政府の姿勢も一因ではないでしょうか。

核兵器禁止条約への不参加であったり、被爆者の思いをないがしろにしていないでしょうか。

日本お得意の被爆者の皆さんがお亡くなりになって、いわゆる「時間切れ」を願っているのではと勘繰りたくなります。

国際情勢は確かに不安定で、核で脅す国が存在するのも確かです。

最大の武器は「外交」のはずです。

 

 

私は今、スポーツ実況をベースに生業をたてています。

 

スポーツや音楽、舞台など娯楽は平和だからこそ享受できるもの。

 

ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見るにつけ、イスラエルとパレスチナの様子を見るにつけ、「平和」や「平時」の大切さが身にしみています。

 

そんな娯楽がもたらす笑顔は人類全てのもの。

 

「自分の大切な人が明日も笑顔でいられる努力」を全ての人が行う。

 

このことが、「甘い」と言われるかもしれませんが、平和への道筋と信じたいと思います。

今、FNS27時間テレビをフジテレビでやってますね。

 

今日(というか昨日)は、CSプロ野球ニュースの仕事でしたので、「気が付けば」という程度でしたが…。

 

実はわたくし、1991年の27時間テレビに出演したことがあります。

 

当時、FNSは27局でしたので27時間テレビだったんです。

 

その年(1991年)は確か、総合司会が桂三枝さん(現文枝)だったと記憶しています。

私はといえば、フジテレビで行われていたアナウンサー研修を受講して自分の局に帰ったばかりのこの特番ということ、中継現場は94年に控える広島アジア大会の会場のメイン競技場・(まだ建設中の)広島ビッグアーチ(当時)でした。アジア大会まであと3年あるという中で、マスコットの存在を知りませんでした。

 

「ポッポ」と「クック」というマスコットのことをよくわかっていなかったので,三枝(現文枝さん)からの「ポッポとクックは何者なの」という問いかけにあたふたしてしまって、答えがあやふやになり、三枝(現文枝)さんに公共の電波を通じて「大バカ者!」と怒られました。

数々の失敗を生放送の中でやってきた私ですが、その第一号といってもよいと思います。

 

そんな思い出がよみがえる中、気楽な思いで27時間テレビを見られるなんて不思議ですね。

 

 

本日56歳になりました。

 

この1年は激動の一年になったのかなぁ。

昨年末の入院をきっかけに仕事が激減しました。

 

いろいろと考えなければいけないのかもしれません。

 

そんな私の誕生日の前日に私のことなど知らない後輩が頑張ってくれました。

わが母校が高校野球愛知大会で、昨秋のベスト4の学校に勝ちました。

 

先輩として「頑張らなきゃいけないな」と感じています。

 

私の母校は、私の在学中は毎年のように1回戦で負けていました。

わたしが高校2年生の時に2回戦に勝ち上がりました。

 

「それ、2回戦にコマを進めたぞ」と、

応援団員だった私は太鼓を担いで球場に行ったのを覚えています。

 

そんな高校が、昨秋のベスト4チームに勝ったんです。

元読売巨人軍の山本一輝投手の母校でもあるわが母校。

その後輩が頑張ってくれています。

 

私ももう少し頑張ってみようと思います。

 

いつも支えていただいている皆さんに56歳を迎えたご報告するとともに誓います。

中日ドラゴンズOB戦が7月25日に開催される。

それに参加する選手の追加発表が6月18日にありました。

 

その中にあった水谷啓昭さんの名前。懐かしく拝見しました。

 

小学生のころ、プロ野球の選手名鑑には選手の住所が載っていました。

私は数年間、一部の選手に年賀状を書きました。

返事はありません。(あたりまえでしょう)

 

でも、ある選手だけは律義にも返事をいただきました。

その方が水谷啓昭さんでした。

 

もう、私が送った年賀状の内容は覚えていません。

おそらく、「頑張ってください」とでも書いていたでしょう。

お返事の内容も忘れてしまいましたが、丁寧に子供がとる全のように送った年賀状に返事を下さったことだけは覚えています。

 

受け取って、心躍ったことも覚えています。

 

OB戦での雄姿を拝見できるのを楽しみにしています。

参加選手の名簿を見ながら懐かしさを覚えました。

 

2024年6月7日に広島カープの大瀬良投手がノーヒットノーランを達成しました。

 

大瀬良投手の名前に触れると私はある元選手のこと思い出します。

 

その人の名前は田村恵さんです。

 

広島カープの元選手で、現在はスカウトを務める方です。

 

大瀬良投手がドラフトされたときに、担当スカウトとして初めて抽選に臨み、当たりくじを引いた方といえば思い出される方もいらっしゃるかと思います。

 

田村さんは鹿児島の樟南高校からプロに進みました。私の中では、「おしりのしっかりした選手はよい選手」と思っていて、田村さんはまさにそんな選手でしたが、残念ながら身長が物足りませんでした。

私が広島で局アナウンサーだったころ山口県由宇町のファームの球場でいろんなことを話した仲です。

 

大瀬良投手はその田村さんがずっと見守り続けてドラフトにかけた選手です。

 

大瀬良投手は大学時代から全国でも有名でしたが、4年生の時は全日本大学野球選手権の出場を逃しました。

 

その当時の田村スカウトはかばっていました。

そして見事ドラフトで引き当てたのも田村スカウトでした。

 

その後を含めた活躍はみなさんご存じのとおりです。

 

ここ数年は大学選手権の実況に読呼んでもらえなくなっていしまったので田村スカウトと話す機会がないのですが、今回の大記録達成を喜んでいることでしょう。

 

大瀬良投手の大記録を祝福するとともに田村スカウトにもお祝いを言いたいです。

 

「恵、おめでとう」

 

 

政治資金規正法に関する素朴な疑問です。

 

政治資金の公開基準などに関して、自民党は「秘書給与に金がかかる」と言い続けています。

 

その理由の一つとして秘書を多量に雇用する理由に「国民の声を聴くため」とのことなんですが、今現在その秘書を通じて(国民を通じて)「おかしい」とかの声は届いていないのでしょうか。

 

であるなら国民が政治資金規正上の改正に納得をして(私はしていませんが)いるということになるのではないでしょうか。

 

素朴な疑問です。

 

 

プロ野球広島カープなどで左の中継ぎ投手として活躍された清川栄治さんが亡くなりました。

 

清川さんとは氏が現役を引退してからのほうがより深かった気がします。

 

カープでファーム投手コーチを務め、何人かの投手を氏と同じサイドスローに転向させるなどしました。

 

全てくすぶっていた投手を何とかしたい。との思いからだったと思います。

 

もちろん、すべて成功したわけではなく、元のフォームに戻した選手もいましたが、選択肢を示して、決断は選手を尊重するコーチだったと思います。

 

氏は中継ぎ一筋に生きた野球人生でした。

 

そんな思い出話になった中、1991年、カープの優勝のことの話題が触れました。

 

その年は、実はカープのファームも優勝という。いわゆる「親子優勝」でした。

 

その話の最中、「あの年のファームの優勝は開幕投手が良かったんですよ」と突然発言。私はピンときて「清川さんでしたっけ」と聞きましts。

 

清川さんは静かに、少し恥ずかしそうに、それでいて少し誇らしげに頷かれました。

 

その表情は忘れないと思います。

 

また、あの狭い旧広島市民球場が本拠地であるにもかかわらずカープは投手王国を築きましts。

 

その中で左キラーとして活躍された氏に「なぜ、あの旧市民球場で投手王国ができたのか」と聞くと、

「達川さんですよ」と清川さん。

 

「達川さんの構えですよ。左の強打者に自分が相対すると、その左バッターで、達川さんが見えないようなところに構えるんですよ。そのくらいインサイドに投げ切らなきゃいけない」と。

 

そのコントロールを磨いたんでしょう。

 

氏は一軍登板438試合すべてがリリーフ登板。のちに西武、ダイエーなどで活躍された橋本武広さんに連続救援登板(橋本さんは入団1・2年目に先発13試合あり)は更新されますが、橋本さんが記録更新すると、清川さんはお祝いの花束を贈ったそうです。

 

そんな気遣いも一流の清川さんにもう一度お話を聞きたかった. 

 

残念でなりません。

 

清川さん、いろんなお話をありがとう。ゆっくり休んでください。

きょうはCSプロ野球ニュースの担当。

今日の担当アナウンサー親父3人衆です。
私のとなりが坂さん、もう一人となりが須藤さんです。



春真っ盛りです。

 空は花曇りですが…。 

桜はきれいです。

今日のお台場の風景です。