プロ野球広島カープなどで左の中継ぎ投手として活躍された清川栄治さんが亡くなりました。

 

清川さんとは氏が現役を引退してからのほうがより深かった気がします。

 

カープでファーム投手コーチを務め、何人かの投手を氏と同じサイドスローに転向させるなどしました。

 

全てくすぶっていた投手を何とかしたい。との思いからだったと思います。

 

もちろん、すべて成功したわけではなく、元のフォームに戻した選手もいましたが、選択肢を示して、決断は選手を尊重するコーチだったと思います。

 

氏は中継ぎ一筋に生きた野球人生でした。

 

そんな思い出話になった中、1991年、カープの優勝のことの話題が触れました。

 

その年は、実はカープのファームも優勝という。いわゆる「親子優勝」でした。

 

その話の最中、「あの年のファームの優勝は開幕投手が良かったんですよ」と突然発言。私はピンときて「清川さんでしたっけ」と聞きましts。

 

清川さんは静かに、少し恥ずかしそうに、それでいて少し誇らしげに頷かれました。

 

その表情は忘れないと思います。

 

また、あの狭い旧広島市民球場が本拠地であるにもかかわらずカープは投手王国を築きましts。

 

その中で左キラーとして活躍された氏に「なぜ、あの旧市民球場で投手王国ができたのか」と聞くと、

「達川さんですよ」と清川さん。

 

「達川さんの構えですよ。左の強打者に自分が相対すると、その左バッターで、達川さんが見えないようなところに構えるんですよ。そのくらいインサイドに投げ切らなきゃいけない」と。

 

そのコントロールを磨いたんでしょう。

 

氏は一軍登板438試合すべてがリリーフ登板。のちに西武、ダイエーなどで活躍された橋本武広さんに連続救援登板(橋本さんは入団1・2年目に先発13試合あり)は更新されますが、橋本さんが記録更新すると、清川さんはお祝いの花束を贈ったそうです。

 

そんな気遣いも一流の清川さんにもう一度お話を聞きたかった. 

 

残念でなりません。

 

清川さん、いろんなお話をありがとう。ゆっくり休んでください。