オタクフラクタル次元 -2ページ目

社会とエロ表現との関係(2)

(前回からの続き)

今こそ社会とエロの関わり方を一から考え直す。と地球温暖化に比べれば小さいことだよねーと、現実逃避に定評のある夢先生(君が主で執事が俺でのヒロイン)に言われそうなことですが、意外とこれほど重要なことはないかと思います。特に私のようなエロゲーマーにとっては。


知識に貴賎や無駄などあるわけがなく、価値は等しいと説く私ですが、しかし人間の寿命だとか考慮して、優先順位はあると断言しましょう。

現実問題として、年収の低いフリーター達が芸能・スポーツよりも労働問題に関する知識の方が急務ではないでしょうか。

誰と誰が結婚した・離婚したよりも、まず自らの立場を優位に立たせる知識から覚えるべきではないでしょうか。

もちろん芸能やスポーツを否定するわけではありません。

ただ、何事にもそれより「高次な存在」というものはあり、人は常にそういった取捨選択をしている・しなければならないと言っているだけです。



―さて、エロとの関わりを考え直すというからには、エロとはなんぞや? に答えなくてはいけません。

しかし正直に申しまして私にはエロがわかりません。


例えば全裸より「全裸+ニーソ」の方が局部におけるロストグラウンド的隆起現象が激しいだとか、

絶対領域が良かったり、チラチズム原理主義だとかあるわけでして、胸が見える・性器が見えるからといってエロと言われても困ります。

「一は全、全は一」 をエロ問答に直してみても、答えは人の数だけ分かれるわけであって、

私みたいに「エロは正面座位、正面座位はエロ」と和姦における最高に興奮する状態をエロと定義するトンでもない人間もいます。

(余談ですが、寡聞なのかエロゲに正面座位はあまり見受けられません。AVで加藤鷹の声がうっとうしいのと同じく男キャラは邪魔なだけなのかなぁ……)


人によってエロスの感性が違うということは、己と対極するエロスがあるわけですね。

私は丸戸史明的なエロゲー、つまり和姦、ハッピーエンド、人と人の純正交配と申しましょうか、とにかくそういうものが好きです。

強姦、調教、四肢切断、触手、グロテスク表現は据え膳でも喰いません。

ですが、陵辱系など私はこれを否定することは絶対にありません。


私はマルキ・ド・サドのサドをエロスと見ることを代表として、あらゆるエロス―死体愛好、幼女愛好、近親相姦、マゾヒズム、スカトロ―を認めます。

そのような思想があってこそ三大欲求のエロとは深奥だとも思います。実に人間的。


社会とエロの関わり方を一から考え直すということはまず知ることから始まるわけで、己と対極の意見を封殺してよいはずがありません。

面白い話、強姦には強姦なりの美学があり、アナルセックスにはアナルセックスの美学があるわけで、それを

「おいおい、とんでもない変態野郎だな」 と変態という簡単な言葉で済ますことは許されないことです。

知る努力を放棄して他人にレッテルを貼る行為こそ人間として変態的だといわざるを得ない。


特にこれが他人の自由を規制するとなると重要になってきます。

ある民主党議員のエロゲー規制請願もその一つで、社会倫理を持ち合わせていない企業利潤追求のみのために、幼い少女を危険に晒している商品を規制するため と言う前にもうちょっと己と対極する思想にも耳を傾けましょうねという話に結局は帰結します。

(創作表現を規制するという根本が駄目だとは思うけど)


ですので、エロスについては己が通暁しないといけないわけで、いささか骨が折れる作業ではありますが、

こういうのは表現の自由と密接に関係するのでやらないといけない。

あくまでも聞いた話ですが、家族計画のコンシューマー版では倫理基準に引っかかるのか、準がタバコを吸っていないとかなんとか。でもCGはそのままで間抜けな一枚絵だとか。

ゲームに・アニメ・漫画・小説あらゆる架空の媒体のあるエロシーンも、ある犯罪場面も、その物語を語る上で欠かせない演出なのに18禁を離れると途端に色褪せてつまらなくなるのは、何も知らない「正常な倫理」しか認めない愚者の仕業なわけです。

一体正常なエロスってなんでしょうね。


紀元前の哲学者ディオゲネスは嘘か真か弟子達と一緒にアテネの広場で、白昼堂々おおっぴらにオナニーにふけり、見物人に向かって

「腹が減った時も、これと同じ方法で、腹を摩擦して、胃袋の欲望を鎮めることができたら、どんなに結構なことだろう」とうそぶいたそうです。


これは流石に正常とは言わないけど、こうやってエロスについておおっぴらに発言することは良きことかな。

こうやって一人一人の意識が広く深く変わっていくものだと思います。

……にしてもディオゲネスはどこの鬼畜エロゲー主人公の名言かとw


(続く)

社会とエロ表現との関係(1)

ネットの片隅で適当なことを書くブログ  さんが仰るように、

今こそ社会とエロの関わり方を一から考え直した方が良いと思います。



・美少女アダルトアニメ雑誌及び美少女アダルトアニメシミュレーションゲームの製造・販売を規制する法律の制定に関する請願

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/seigan/current/2525.htm



どのような思惑や思想で請願されたかわからないが、PCにおける18禁ゲームも30年の歴史があるのでここらで決着をつけてもいいと思います。


しかしいざ決着をつけるも何も、その前に大部分が大切なものを見落としている気がします。

それは今回請願があってから、これがニュースになり大勢が知るところになるまで情報が曲解されていることです。




■アメーバニュースでは

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嘆願書の内容は、美少女アダルトアニメやゲームに夢中になると、知らず知らずのうちに人間性を失い、それらゲームやアニメの多くが対象とする幼女への罪を犯しやすい。よって、美少女系のゲームや雑誌・アニメに規制を行うことが必要だ、というもの。この嘆願には同党の下田敦子参院議員も賛同している。

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■痛いニュース(元記事はデジタルマガジン)では

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物凄く分かり易く要約すると、「エロゲーをする奴は心が壊れていて人間じゃないから幼女を強姦する。だからエロゲーを規制しろ」ということになります。ええと、円議員あなたの血は何色ですか?

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■Yahooニュースでは

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アダルトゲームで青少年は心を破壊され、人間性を失う」-。民主党の円より子参議院議員らが提出したアダルトゲームの規制を求める請願に対し、同議員のインターネットサイトの掲示板に、数百件の批判的な意見が寄せられている。
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すみません。私が請願書を読んだ限り、こんな悪意のある記事にはならないんですが?

請願書の全文を記します。




>>街中に氾濫(はんらん)している美少女アダルトアニメ雑誌やゲームは、小学生の少女をイメージしているものが多く、このようなゲームに誘われた青少年の多くは知らず知らずのうちに心を破壊され、人間性を失っており、既に幼い少女が連れ去られ殺害される事件が起きている。これらにより、幼い少女たちを危険に晒(さら)す社会をつくり出していることは明らかで、表現の自由以前の問題である。社会倫理を持ち合わせていない企業利潤追求のみのために、幼い少女を危険に晒している商品を規制するため、罰則を伴った法律の制定を急ぐ必要がある。
 ついては、美少女アダルトアニメ雑誌及び、美少女アダルトアニメシミュレーションゲーム製造及び販売規制の罰則を伴った法律を制定されたい。




どこをどう要約したらエロゲーをする奴は心が壊れているとなるのか……

ちゃんと青少年と書いているからこう読み取れる。




(人生経験・性知識に乏しい)青少年が、(本来法で罰せられる)13歳未満との性行為を描いたゲームに何らかの形で接触してしまうと、心を破壊され、人間性を失ってしまい、そのまま成長してしまいゲームのように犯罪に走ってしまう。そして事実起きている。」



ということでしょう。

要約すると、「青少年は無知だから、空想であれ過度の犯罪描写で真っ当な人間性を失って(そのまま成長して)しまう」 と言ってもいいかもしれませんね。


青少年が誘われるという前提で話を進めているのだから、誰も成年がエロゲーしておまえ犯罪予備軍だね。とか言っていない。ただ後半で私情とも思える文言を載せているから誤解を招くとは思いますが……。


今回ばかりは歯に絹を着せない言い方をさせてもらうが、各ニュースサイトはその姿勢を改めたほうが良い。












管理者の人格を疑う。最低の改竄だ!



至急謝罪のコメントを掲載するようメールを送りたいと思います。

この悪意あるニュースのせいで議員先生の掲示板が勘違いのコメントで溢れているのに責任がないわけがない。




―話を戻して、請願は青少年の接触が要点ですので論点は以下の通りになると思います。



1.青少年(18歳未満)にエロゲー&エロアニメを入手させない手段を考える

2.政府がゲームやアニメの「製造」にまで関与できるのか

3.今こそ社会とエロの関わり方を一から考え直す



特に3の今こそ社会とエロの関わり方を一から考え直すは必須だと思います。

松文館裁判が納得いかないことから始まったこのブログですが、未だに疑問が多い。

ネットの片隅で適当なことを書くブログ  さんは、モザイクの意味について軽く書かれていますが、そういった小さいことからエロに関しては貪欲に突っ込んでいくべきです。

今回の曲解ことを教訓にして政府だとか社会通念とは、あくまで冷静、時には島本和彦先生の熱さで己のエロ道を語り、なぜ? どうして? をお互い納得出来る形でなくすべきではないでしょうか?




次回に続く。





ゴミ拾いの哲学

ここ数日前から、地元公安局の許可の下で職場周辺のゴミ拾いをしています。

現在地球全体でエコだなんだ言われてますが、一切関係なく、全く関係なく自発的にある目的のためにやっています。


それは

1.奉仕の精神というものを経験してみたい

2.壊れた窓理論を実験してみたい

3.ただ綺麗になったら自分が嬉しいから


以上の三点です。宇宙船地球号を改修しようとする善意など欠片もありません。

ただ己にとって利益であろうことを淡々と進めているだけでございます。


ですが、どうやらこの行為が他人にとっては「諸手を挙げて賛美すること」みたいで不思議でなりません。

私は誰にも、「最近職場周辺が汚いから掃除するよー」と言うことなく、黙って手を動かしていました。

ただ偶然にも、掃除が終わった帰り道に上司に遭遇し、何をしていたか聞かれたので正直に「ゴミ拾いをしていた」と答えただけであって、そもそも褒めてもらいたい等の感情はなかった。

なのに次の日、他の上司にも話が伝わっていて「偉いな」と褒められる。


何故無条件で私を褒めるのでしょうか?

確かにゴミ拾いをしていると答えましたが、




「理由」は一言も申してません!


もし私が、私の職場周辺にゴミがあることが不愉快なだけであって、収集したゴミを目に見えない場所においているだけならどうしますか。

ゴミ屋敷を作るために持って帰っているだけかもしれません。

近所の嫌いな住民に嫌がらせをするためかもしれませんよ。


ですので、理由を聞かずに褒めるのはやめていただきたい。

同じく、地球環境に優しいことをしていると思われる行動を無条件で褒めるのはやめていただきたい。

規模を下げて、被災地に善意のボランティアをすることだって無条件で褒めてはいけない。


「実は迷惑なこと」もあれば、「やりすぎると迷惑」なこともあります。


大切なのは、その行為をしている当人の


「どの程度の知識を有していて、どんな理由で、守られるべき規則を守って行動しているか」


を見ることです。

社会通念だとか、常識だとか、今まで良いとされてきた・思い込んでいたことを疑ってください。

「ゴミ拾いをしている」=「人間的に優れている」 と直感で絶対に思わないでください。


そういった外見しか見ない理屈には戦慄がはしります。

疑ってかかるというのは性善説から見れば実に寂しいものですが、現実として疑わなければばいけないことを肝に銘じるべきです。


評価するという断言的な行為は、良いと悪いを比較考量して初めて成されるものです。

従って、疑わなければ評価など出来ません。


皆さんはどうでしょう。

貴方が今行っている「地球環境対策」は本当に効果や意味はありますか?

あるいは他人がしている「それ」を、無条件に褒めていませんか?