新聞広告シリーズ ~ かなり大規模だった「日本一 丸子多摩川大花火大会」(昭和28年7月) | 高木圭介のマニア道

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~浮世のひまつぶし~

22回目を迎える 日本一 丸子多摩川大花火大会(7月25日、午後3時~夜9時30分)を主催する毎日新聞社の社告。



花火大会のメインとなる場所は、つい最近まで多摩川の土手にスタンド席の遺構が遺されていた国内…いやアジア初の常設サーキット 丸子多摩川スピード・ウェイ だ。

二尺もの大玉 打ち上げをはじめ、かなり大がかりな花火大会だったらしい。広告内に説明されている花火のお品書きというか、演目を見ても、かなりバラエティに富んでいることに驚かされる。

この付近は私が生まれ育った場所でもあるので、勝手知ったる場所ではあるが、私が育った時代には、すでに花火大会は5kmほど上流の 二子玉川方面 で行われていたものだ。

多摩川スビート・ウェイのコース跡は、昭和末期になってもなお、ハッキリと分かるほど残っており、コースの円内に 日本ハムファイターズ(ここに引っ越してきた頃はまだ東映フライヤーズだった)の練習用グラウンドがあり、よく練習を見学したり、選手がいない時には、金網を登っては中へと入り、勝手に遊び場としていたものだ。

当時は「野球=巨人」という絶対的人気格差の時代。ちょうど多摩川の対岸にある 読売ジャイアンツの練習用グラウンド と、川崎側の日ハムグラウンドのギャラリー数では圧倒的な違いがあった。

しかし、ふと思うのである。もし日ハムが北海道へは行かず、あのまま多摩川グラウンドを使用し続けていたとしたら、平成期の大スターである ダルビッシュ有 も 大谷翔平 もここで練習をしていたんだな……と。

この花火大会より17年前の昭和11(1936)年には、のちに 本田技研工業 を創設する 本田宗一郎 が、この地で開催されたレース(第1回全国自動車競走大会)に出場し、マシンの横転事故で生死にかかわるほどの重傷 を負ったらしい。ドカーン!