プロレス広告シリーズ ~ 力道山はレフェリーとして登場「プロレス日本選手権」(昭和31年10月) | 高木圭介のマニア道

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~浮世のひまつぶし~

昭和31(1956)年10月23~24日、東京・両国国際スタジアム(旧國技館)にて開催された プロレス日本選手権 の新聞広告。主催は「日本プロレスリング連盟」と、その後はあまり目にしない組織名となっている。



プロレス界の人気者・力道山は、すでに日本選手権者となっていたため参加せず、九州山ともどもレフェリーとして参加。そんな力道山率いる 日本プロレス協会 をはじめ、旧全日本プロレス勢を中心とした 山口道場、木村政彦と清美川が設立した アジアプロレス協会、大阪の在日コリアン勢を中心とした 東亜プロレス協会 の所属選手が参加し、初代のジュニアヘビー級王者、ライトヘビー級王者と、力道山が保持するヘビー級王座への挑戦者が決定した。


  昭和31年10月24日(水曜)のテレビ欄

10月24日の夜8時からは 日本テレビで中継 も行われている。今でこそ紆余曲折を経て、「日本人vs外国人」よりも、日本人対決のほうが盛り上がってしまう 日本プロレス界だが、当時はどうだったのだろう? その後の展開を見るに、憎々しくもあり、華々しくもある外国人レスラーが登場しないプロレス中継は、注目度が薄かったのかもしれない。

トーナメント戦の結果、初代のジュニアヘビー級王者は 駿河海(日本プロレス)、ライトヘビー級王者は 芳の里(日本プロレス)に決定。ヘビー級トーナメントは東富士(日本プロレス)と山口利夫(山口道場)が決着つかず、後日、再戦の結果、東富士 が勝利したものの、その後、力道山に挑戦することはなく終わった。

結果を見ると、3階級の王座を独占した日本プロレスの圧勝となるが、その後、山口道場所属の長沢日一(ヘビー級)、吉村道明(ジュニアヘビー級)、ジョー樋口(ライトヘビー級)、ミスター珍(ライトヘビー級)、アジアプロレスから 大坪清隆(ライトヘビー級)が日本プロレスに移籍しているあたり、力道山にとって、この大会は勝利するだけでなく、その後の組織作りや選手層充実を踏まえた 品評会 的な意味合いがあったのかもしれない。

ジュニアビー級で出場し、準決勝で吉村道明に敗れている 大同山又道(東亜プロレス)は、その後、北朝鮮へと帰国して柔道指導者 に。その娘が金正日と結婚し、生まれた息子が現在の金正恩との説が流れていたが、その後、別人説も流れており、現在もその真相はよくわからない。日本テレビにこの大会ののフィルムでも残されていれば、いろんな意味で大注目となることだろう。