1582年4月3日(天正10年3月11日)に甲斐国の戦国大名の武田勝頼が亡くなりました。
信濃への領国拡大を行った武田信玄の四男として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主になりました。
その頃はまだ本人も周りも武田家の家督を継ぐとは考えていませんでした。
しかし、武田信玄の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、1573年には武田信玄の死により子の武田信勝が元服するまでの後見人として実質的に家督を相続します。
強硬な領国拡大をし、一時は武田信玄の時よりも広い領土を治めます。
しかし、1575年の長篠の戦いにおいて織田信長・徳川家康連合軍に大敗したことによって領国の動揺を招きます。
その後の上杉景勝との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田信長との和睦も模索します。
また、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持を図ったり鉄砲を買い集めたります。
しかし、野心がある織田信長の本格的な侵攻により、1582年に嫡男の武田信勝とともに天目山で自害しました。
そして平安時代から続く名門の甲斐武田氏は滅亡しました。
甲陽軍鑑では敗れる大将の類型の一つに「強すぎる大将」というのがあります。
武田勝頼はその強すぎる大将であったようです。
強すぎたために敏感に状況を察知して時には兵を退却することができませんでした。
一度出兵してしまった軍を引くことが次善の策であることもあります。
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