1834年3月18日(天保5年2月9日)に明治政府の司法卿を務めた江藤新平が生まれました。

維新の十傑や佐賀の七賢人の一人とされています。

明治政府に司法省が設置されると1872年には司法卿、参議と数々の役職を歴任しました。

その間に学制の基礎固め、四民平等、警察制度整備など近代化政策を推進しました。

特に司法職務制定、裁判所建設、民法編纂、国法編纂などの司法制度の整備に功績を残します。

明治政府内における急進的な民権論者であり「牛馬に物を返弁を求むるの理なし」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などがあります。

また官吏の汚職に厳しく明治政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件を激しく追及し、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込みました。

その一方で、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤新平に対して、行政権は司法権であると考える伝統的な政治的価値観を持ち、プロイセン王国(現在のドイツ)を範とする政府内の保守派からは激しく非難されました。

また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招きました。

しかし西郷隆盛とともに征韓論を主張し、受け入れられず、佐賀に下野した後に佐賀の乱を起こし鎮圧された後に処刑されます。

江藤新平が処刑された後、佐賀では江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去ると城下の人々にいわれ参拝客が多かったそうです。

そのため、県庁が反乱の萌芽を恐れ柵を設けて参拝を禁止しました。

しかし夜間に隠れて参拝する人もいました。

明治政府では薩摩と長州の人がコネを使い出世していきましたが、江藤新平は佐賀県で人望があった人物です。

役人でありながらも民衆が役所を訴える行政訴訟を認めて正義感の強い人物でした。


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