1597年7月26日(慶長2年6月12日)に中国地方の覇者の毛利家を支えた小早川隆景が亡くなりました。

兄の吉川元春が山陰地方を治めたのに対して、小早川隆景は山陽地方を治め、水軍も率いました。

思慮深い人物でした。

熟慮して決断を遅くすれば間違いも少ないと考えていたようです。

幼き頃、雪合戦をしていた時に、吉川元春は勇敢に前に出て行ったのに対して、小早川隆景は影に隠れて機会をうかがう遊び方をしたそうです。

また、黒田如水に「貴方は頭が良いからすぐ決断するが、後悔も多いだろう。私は決断するのが遅いから後悔も少ない。」と述べました。

黒田如水は豊臣秀吉に天下を取らせましたが、同時に秀吉に警戒されるようにもなりました。

黒田如水は、動くときは天下を狙う時以外になく、そのほかに大国をもらうことなどには興味を示さなくなります。

小早川隆景は、豊臣秀吉の朝鮮出兵では総大将の宇喜多秀家の参謀になりました。

宇喜多秀家は豊臣秀吉が期待をかける若者で養女の豪姫の婿であり、秀吉は気を配り、戦上手で知略のある小早川隆景をつけました。

豊臣秀吉は養子の秀秋を当時、まだ跡継ぎがなかった毛利家の養子にしようとしましたが、小早川隆景が先回りして毛利家を守るため小早川家の養子にしました。

それが関ヶ原の戦いで徳川家康に寝返った小早川秀秋でした。

関ヶ原の戦いの命運の鍵を握っていたのは、毛利家の毛利輝元、吉川広家、そして小早川秀秋です。

小早川隆景が亡くなると黒田如水公は「賢い人を亡くした。」と述べたそうです。

亡くなったのは関ヶ原の戦いの3年前でした。