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森羅万象=大阪=小樽=映画=本=歴史人達のエピソード

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知里 幸恵(ちりゆきえ)


1903年(明治36年)1月15日北海道登別にアイヌ人の長女

として生を受ける


この濁りのない涼やかな名前を記憶している者は今では

極わずかであろう・・


この赤子が19年の後、一冊の本を紡ぐ・・


『アイヌ神瑶集』は本文22頁の素朴な童のような

愛らしいひとくくりである


祖先から語り継がれた13篇の神々の物語が静かに

寄り添っている・・


限りなく心に響き揺さぶるのは『序の語り』である


過去、あまたの書籍に親しんできたが、かつてこのような

崇高な文字の流れにふれたことはなかった・・


心無い省略をも許さぬ凛とした佇まい・・

無垢なる少女の言霊を汚すようでどの部分も削ることが

できなかった


遡ること一世紀、果ての国の大自然とアイヌ民族の

原風景が色濃く漂う時代の静かな叫びである





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『序・・原文』



『其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由の

 天地でありました。

 天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されて

 のんびりと楽しく生活してゐた彼等は、真に時代の寵児、

 何と言ふ幸福な人たちであったでせう。


 冬の陸には林野をおほふ深雪を蹴って、天地を凍らす

 寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、

 夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に

 木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、

 

 花咲く春は軟かな陽の光を浴びて、永久に囀づる

 小鳥と共に歌ひ暮らして蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は

 野分に穂揃ふすすきをわけて、宵まで鮭とる篝火も消え

 谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。


 嗚呼何といふ生活でせう。

 平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は

 急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に

 開けてゆく。


 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野辺に

 山辺に嬉々として暮らしてゐた多くの民の行方も又何処。


 僅かに残る私たちの同族は進みゆく世のさまにただ驚きの

 眼をみはるばかり。

 

 而も其の眼からは一挙一動宗教的観念に支配されてゐた

 昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち、

 不平に燃、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲に

 すがらねばならぬ、あさましい姿、


 おゝ亡びゆくもの・・・それは今の私たちの名、何といふ

 悲しい名前を私たちは持ってゐるのでせう。


 其の昔、幸福な私たちの先祖は、自分の此の郷土がすえに

 かうした惨めなありさまに変わらうなどとは露ほども

 想像し得なかったのでありませう。


 

 時は絶えず流れる、世は限りなく進展ゆく。


 激しい競争場裡に敗残の醜をさらしてゐる今の私たちの

 中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら

 進みゆく世と歩をならべる日もやがては来ませう。


 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈ってみる

 事で御座います。

 けれど・・・愛する私たちの先祖が起状す日頃互に意を通ず

 る為に用ひた多くの言語、言い古し、残し伝へた多くの

 美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく

 弱きものと共に消失せてしまふのでせうか。


 おおそれはあまりにもいたましい名残惜しい事で

 御座います。

 アイヌに生まれアイヌ語の中に生ひたつ私は雨の宵雪の夜

 暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じた

 いろいろな物語の中極小さな話の一つ二つを拙い筆に

 書き連ねました。

 


 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が

 出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんたうに

 無限の喜び、無上の幸福に存じます。


 大正十一年三月一日           知里幸恵   』





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(導かれし者たち・・)

人と人との出逢い・・分けても後に大輪の花を咲かせる

覇業を成し得た者たちのそれは決して偶然でない

必然・・大らかな天の意思によって導かれたものなのだ・・


この物語を織り成すもう一人の人物

金田一京助(きんだいちきょうすけ)


1882年(明治15年)岩手県盛岡の地で旅館を営む家の

長男として生を受け、後に東京帝国大学の言語学科に学ぶ


日本の言語学の草分けで、民俗学、アイヌ研究の第一人者

でもある

彼の成し得た研究は『金田一学』と総称される


盛岡中学の同級生で『銭形平次捕物控』で知られる

野村胡堂(のむらこどう)は終生の友で、彼が亡くなった

折には葬儀委員長を務めた


石川啄木は二年後輩にあたり、彼の東京での生活は

京助の援助で保たれていた

胡堂はは短歌や俳句の手ほどきをしたと伝えられる






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(信仰と家族・・)




幸恵を語りふれるとき、敬虔なキリスト教徒だった

いうことが重きをなしている


母のナミと、後に養女となる伯母のマツの姉妹は

若い頃、函館の伝道師育成の場である

『愛隣学校』に学んだ


互いの手紙のやり取りや、子供たちに送られた手紙は

アイヌ語をローマ字でしたためられていた

この語学の素養はこの時代に身につけられた

ものである・・


このような環境のなか幸恵も自然と信仰の道を

歩んでいた・・


父の高吉は『登別温泉』を拓いた実業家の滝本金蔵の

もとで働いていた

そこで日本語の読み書きや算盤を仕込まれた


大勢の和人のなかにあって、その才能は傑出して、金蔵は

おおいに可愛がり重要な書類の作成を高吉に任せた


京助は『発展的で進歩的な人物であった・・』と評している


馬牧場や農業を営み、当時としては比較的裕福であった


4歳下の弟の高央(たかなか)は、現・小樽商業大学を

卒業して教育者となり「アイヌ語イラスト辞典」などの

著書を残している


6歳下の末弟の真志保(ましほ)は幸恵の想いを引き継ぎ

後に「アイヌ学」と呼ばれる分野の学問を築き上げた

室蘭中学を優秀な成績で卒業したが、すでに家業は衰え

貧困のため進学を断念して地元の役所に勤めていた


真志保の才を惜しんだ京助は東京へ呼び寄せた・・

東京帝国大学を8番目の成績で合格した

(文学部言語学科)


指導教授は京助であった・・

後にアイヌ人初の北海道大学教授となる



(海を離れて・・)


1909年(明治42年)

幸恵は旭川の近文(ちかぶみ)で伝導所を営む伯母

金成(かんなり)マツの養女となり故郷を離れたのは

6歳の秋であった


旭川駅が近く、石狩川が悠々とたゆたう土地である


マツは幼い頃に高所から落下して腰を痛めたのが原因で

日常的に松葉杖が必要であった

洗礼名のマリアから「松葉杖のマリア」と呼ばれて親しまれた


この不自由のため生涯独身であった

手芸に秀で、文学を愛する静かな女性であった


そしてもう一人・・京助が

『私が出逢った「ユーカラ」の語り部で最初で最大の

 吟遊詩人でした・・』と賞賛した祖母のモナシノウクと

質素だが満ち足りた生活を共にした


残りの季節の13年をこの土地で慣れ親しんだ・・


ある日の両親への手紙である


『日本晴れの好天気で、涼しい春風がサッサッと袂を払う

 心地よさは何ともいへないほどです・・

 朝晩一里半近くずつあるいて居ますので身体が至極

 達者で・・』


幸恵は小さな身体で職業学校の3年間を片道6キロの

道を休むことなく来る日も来る日も通ったのだ

吹雪の冬の辛さは・・


『夏休みが楽しみです・・もう六十七日ありますね

 その間私はほんとうに奮励努力しなければなりません

 学期末にはどんな成績が発表されますやら・・


 お土産のお伽話種々様々なおはなし、それから歌って

 聞かせて上げる唱歌などをどっさりとためてゐます・・

 どうしてどうして二年ぶりですもの・・


 今年もグスべり(グーズベリー)が沢山食べられるように

 祈ってゐます・・

 私は海が懐かしくてなりません・・四方が山ですから

 何処を見ても木ばかり草ばかり家ばかり

 見渡す限り果てしない上川平原はそれはそれは良い景色

 ですけど・・海がないのが何だか物足りないような

 気がいたします・・』


幸恵は故郷の海へ想いを飛ばした・・




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(その一夜・・)


1918年(大正7年)

この年、蝦夷が北海道と改められてから50年目の節目に

あたっていた・・札幌・小樽で大々的に「北海道博覧会」が

開催されていた


「近文伝道所」はわずか14坪ほどの小さな木造の平屋

であった

その古びた玄関に京助が佇んでいる数匹の蝉の名残の

声が静かに染み入る夕暮れどきであった・・


背中から「ただいま~」と真っ直ぐな声が聞こえた

振り向くと、リスのような眼をキョロキョロさせて

幸恵が立っていた


この時、京助36歳・・幸恵15歳・・

雪あかりのような仄かな出逢いが果てには恵や救いの

太陽となって光り輝くのだ・・


京助は祖母のモナシノウクのユーカラを聴くために夕立の

ように突然訪れたのである

「金田一京助!」ですといきなり名乗られてもどのような

素性の人物なのか知る由も無かった・・


取り敢えずは招き入れて火の気のない夏の囲炉裏を

囲んだ・・手土産の菓子でとりとめのないよもやま話を

するうちに、初対面とは思えぬほどに打ち解けていた


気が付くと旭川行きの最終便がでた後であった

駅までは4キロで歩いて行ける距離であったが

引き止めたのは家の主であった


マツは幸恵が恥ずかしがるのをよそに、成績表や

習字、作文などを京介に披露した

それを見て思わず唸った!この少女は白眉の才媛

であった・・


特に作文の完成度は並々ならぬものがあった

流麗な文章で美文であり、誤字や文法の乱れが

ひとつも無かった


話を聞くとアイヌ語の古辞や古文に通じ、マツや祖母から

聴かされたユーカラ(叙事詩)をすべて暗記していたの

である

アイヌ民族は文字を持たない・・

朝な夕なに聴かされるユーカラが伝承方法であり

幼き頃は子守唄として心地よく耳に遊ぶのだ・・


幸恵は職業学校を110人中4番目の成績で入学

していた

京助は胸の裡で叫んでいた・・

(この子はアイヌ民族の誇りと神様が育ててくれた

 尊い萌なのだ・・どこまで伸びるものか・・!)


心地良い興奮で眠れぬ夜が明けた

京助は幸恵に、思いの言羽を渡した


『学校を卒業したら東京へ来て僕の研究を手伝って

 ください!アイヌ民族は決して劣った民族では

 ありません!素晴らしい文化と伝承を持った

民族なのです・・』


この瞬間ふたつの夢が重なった・・




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               (幸恵とマツ)


(その日まで・・)


「近文の一夜」から幸恵が東京にふれる日まで

後4年あまりの季節を見送らねばならなかった・・


卒業の頃に心臓病が悪化したのが最たる原因だが

限りない愛着を宿した故郷を離れることに、思いは

止まらぬメトロノームように揺れていた・・


幸恵の19年の生涯は差別との闘いと葛藤の日々であった


最初の学校はアイヌの子供だけの粗末な施設で

通称「土人学校」と呼ばれていた


職業学校に入学する前年に「北海道庁立旭川女学校」を

受験するが結果は思いもよらず不合格であった

その直後にある噂が流れた


(彼女は最高点を取ったが、アイヌ人でキリスト教徒

 だったから落とされた・・)


幸恵の学力で落ちることは有り得なかった


職業学校の初日


『ここはあなたの来るところでは無いのよ・・』


氷のような同級生の言羽に泣きながら家路を辿った・・


どこで芽生えても・・どこで生きても・・花は花・・人は人

それ以外のなにものでもない!


何故それは紛れもない「個性」だと思いやる心を持つ

ことができぬのか・・


同じように、天の恵のしずくで喉を潤し・・透明な宇宙の

大気から生まれた風を食む「地球人」なのだ・・


京助は遥かな東の地から幸恵を頼った


ユーカラを文字で表すには、アイヌ語をローマ字で綴り、

それを訳すという方法が最良であった


(私はローマ字は読むことは読めますが、書く事が

 出来ません・・学校では教えてくれませんでした・・

 いま一生懸命勉強していますが、なかなか難しいです・・)


おそらくローマ字に堪能なマツからも手ほどきを受けたと

思うが・・東京からも京助も書欄で指導した


ここでも幸恵の非凡な才能が花開いた!


何とわずか数ヶ月でローマ字を会得したのである

そして京介を驚愕させたのが幸恵が自ら考案した

合理的な文法や表記法の開発であった


(何という才の人なのだ・・!)


1922年(大正11年)5月

歴史は幸恵を東へと運んだ

心臓病を抱えたままの旅たちであったが、何が

幸恵を動かしたのだろうか・・


巣立ちは故郷の室蘭港から青森行の貨客船「京城丸」

であった


この時の心境を両親に送った手紙が・・


(京城丸の後甲板に立って次第々々にはなれてゆく

 小舟のお母様と白いきれをふって別れたその時の

 心持ちは何と云っていいでせうか・・


 カラカラといかりをまきあげて船が黒い煙をのこして

 出帆した時、堪らないほど心細くなったんでした・・

 打ち見やる岸辺の何処かでお母様が見送ってゐて

 下さるかしらと思って、いくら目を見はっても

 なんにも見えないし・・


 だんだん遠くなって室蘭の船の直後にたったり

 右手に見えたり左手になったり・・)


二度と生きては帰ることが出来なかった故郷の海に

泪波を残して東へと船は泳いで行く・・




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(終着駅・・)


早朝・上野駅・・


登別の実家を出てから、延々40時間あまりの

長旅であった・・

恐る恐る汽車を降りると弾けるような笑顔の京助が

そこにいた・・およそ4年ぶりの再会であった




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      (当時の上野駅)




(優しくお疲れでせうと云われた時に涙が出るほど

 嬉しう御座いました・・手荷物札を渡すと取扱所に行って

 受け取って下さいました・・そして人力車の切符二枚買って

 私は大威張りで先生と俥に乗る。


 人通りが少なく大概の家では戸を閉めてゐるのです・・

 東京は夜が遅いから朝も遅い・・)


都会の目覚めの遅さに驚いた・・

手紙の後半では金田一家の様子にもふれている


現在の文京区本郷四丁目付近で、家の前を名所の

「鐙坂(あぶみざか)」がなだらかな傾きを見せている


(家は平屋の広くない家です。お座敷が一つ、先生の

 書斎が六畳間、お勝手が一間半と一間半くらいで

 庭は二間半くらいで、こんな広い庭はめったに

 ないのだと云うお話です。

 

 夜は私はきくやと云う盛岡から来た、人のいい女中さん

 と茶の間で寝るのです・・

 お母様の角巻と夜被着てゐます。


 今度、先生の書斎に大きな机があって誰も使はないから

 これをあなたの机と決めませうと先生に云はれて、

 此の手紙も其の上で書いてゐるのです・・)


幸恵の日常は、すでに出版が決まっていた「アイヌ神謡集」

の編集や校正に費やされた


(私が十年わからずにいた難問題を幸恵さんに聞くと

 袋の中の物を取り出すように立派に説明してくれる・・

 その頭脳のよさ・語学の天才だったんです

 天が私に遣わしてくれた天使のような女性でした・・)


ある時は


(アイヌ語の動詞に複数形があります。ですから私は

 十人のアイヌがこうやったと、その複数系を使うと

 誤りはないはずなのに、いつでも必ずなおされる。


 幸恵さんは笑って云うのです

『先生、十人とか二十人とか、はっきり一人じゃないと

 わかっているのに複数形を使うと、馬から落馬したとか

 被害を被った、という言い方と同じです!

 ですから私は馬から落ちたとなおし、被害があったと

 いうふうになおすのです・・』

といって、その例をいくらでもあげてくれました・・

そして、ヒマヤラ山中の二、三の種族などもそうだが

アイヌ語もそうだったのかと、すっかり感服

したものです・・)



このようなやり取りの時間は二人にとって至極の

空間であったろう・・


夏の歩と共に幸恵の身体に悪しき兆しが漂いはじめた・・


(先生と坊ちゃまのお供をして博覧会に出かけた・・

 目がまはりそうなところ・・くたびれてくたびれて

 物言う事さへ億劫になってしまった・・)


8月に入る頃、京介に告げた


『私は帰村します・・』


問いただすと


『何だか・・自分の病気が抗進して、ごめいわくをかけは

 せぬかと云う気遣いからです・・ただ・・その為です・・』


京助は優しく諭した


『それなら尚のこと、こちらにも医者は沢山あることだから

 留まって治療をすべきでしょう!』


幸恵はその思いやりにすがった・・


日を置かず大学病院で診察をした結果


<二三日は絶対安静を要す・あとは自然癒るべし・・>


診たての通り、ほどなく小康を得た


幸恵は感謝の思いを素直に伝へた


『私は今日まで、自分の親のの許でなければ死ねないと

 思いましたが、今こそ、何処の里でも安心して死ねます・・

 この間本当に出立つしなくてようございました・・

 出かけていたら、青森あたりで死んでいた

 かもしれません・・』


9月14日には絶筆となる便りを両親に送っている

自分の病気の事で心を痛めるのを心配して

面白可笑しく表現している


(かわいさうに、胃吉さんが暑さに弱っているところへ、

 毎日々々つめこまれるし・・腸吉さんも倉に物が一ぱい

 たまって毒瓦斯が発生するし・・しんぞうさんは両方から

 おされるので、夜も昼も苦しがってもがゐていたが・・


 やりきれなくて死に物狂ひにあばれ出して・・

 それでもこんなによくなって感謝の至りです・・)


後文は幸恵なりの小さな予感があったのだろうか・・

純粋な、家族への甘えと望郷の想いが・・


(私も折角の機會ですからこれを逸せず、もう暫くとどまって

 一年か二年、何か習得して帰りたいことは山程で

 今頃病気だなどとおめおめ帰るは、涙するほどかなしう

 ございます・・


 然し御両親様、神様は何を為させやうとして、此の病気を

 与へ給ふたのでせう・・

 私はつくづく思います・・私の罪深き故かすべての

 哀楽喜怒愛慾を超脱し得る死!

 それさへ思出るんですが・・


 今一度幼い子にかへって御両親様のお膝元に

 帰りたうございます・・

 そして、しんみりと何を為すべきかを思ひ、御両親様の

 御教示を仰ぎたく存じます・・半年か一年ほど・・

 旭川のおっかさんは許してくれる筈です・・)



大正11年9月18日


京助の追憶を借りる


(今思へば顔色のすぐれない幾日が続きました18日です

 「少し風邪気味のようです・・」と云って居られたましたが、

 でもちっとも常と変わったことはもなく、三度の食卓も

 一緒にやって、間々「アイヌ神謡集」の原稿をし了えて

 から急変してしまったのでした・・


 近所のお医者が注射を勧めたら

「それは最後の手段だそうですね、私はまだそれを

 したくありません!」とハッキリことわって・・間もなく

 

あまり悪いの、で私が大学のH博士を請じている間に

とうとう心臓麻痺を起こされて、私がびっくりして

幸恵さん!幸恵さん!と連呼した時に、二度返事を

して・・それっきり・・)


19年間・・小さいながらも灯し続けた線香花火の糸螢は

静かに消えた・・


翌日の根津権現の秋祭りに遊ぶのを、子供のように

楽しみにしていたと伝へられる・・






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 続きは同タイトル(後)で・・


 コメントもそちらからお願い致しますm( __ __ )m 

















 

           

















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幸恵の悲報は海を越えて北の大地に届けられた・・

電報を握り締めたマツは、モナシノウクに震えながら
愛する孫がこの世を突然に離れた事実を告げた・・

それを聴いた刹那に魂が抜けたようになり、ユーカラを
謡うように繰り返しつぶやいた

『幸恵が死んだ・・幸恵が死んだ・・』

ここから祖母は83才まで生き抜き天寿を全うした・・
マツは幸恵の分まで季節をを重ね故郷の登別で86歳の
信仰と共に歩んだ人生を閉じた・・

もし幸恵が生き長らえてマツを見送る事が出来たなら
58歳になっていた・・

京助に至っては89歳の大往生であった
それに比して知里家の兄弟は短命であった
高央は58歳・・真志保52歳という若さであった


愛弟子の真志保を失った京助は深い哀しみのなか
詠んだ歌が残されている

「おほし立て 我が後継と たのめりし

 若人はかなく 我に先立つ」

諸々の事情で葬儀は東京の金田一家が取り仕切った
丁重に荼毘に付され、雑司ケ谷霊園に葬られた

この年ようやく「國學院大學」の教授になったばかりで
経済的余裕の無かった京助は、誰に見られても恥ずかしく
ない立派な墓碑を幸恵のために建てた・・


晩年のある日、幸恵の墓の所在を訪ねる者があった
幸恵と真志保の研究・評伝の第一人者の藤本英夫である
京助は「私もしばらく行ってないので・・」と案内役となり
同行することになった


この墓碑が建てられた当時は閑散としていたが、
今はあまたの石の群れが乱立して景色は変化していた


この時「老学者」は80歳半ばを過ぎていた
杖をつきながら必死に記憶を探りその在り処を求めた


四季何時でも緑があるようにと植えられたツゲの木のもとに
幸恵は眠っていた・・


京助はよろけながら苔むした墓碑に倒れ込み抱きかかえると

『ああ・・幸恵さん・・幸恵さん・・』
 と泣きじゃくった・・


年を重ねることの無い19歳のままの幸恵がそこにいた・・



その人たちが今もどこかで寄り添い
あの「近文の一夜」のように囲炉裏を囲んで・・
深く静かな夜を飽きることなく楽しげに話を咲かせている
ような気がしてならない・・



1975年(昭和50年)に幸恵の墓は改装されて
故郷の登別の街へ帰ってきた・・

隣りには寄り添うようにマツが見守っている・・





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(余話・・)



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金田一京助の名前の響きで連想するように、日本でいちばん
愛されている国民的探偵の「金田一耕助」の名前の
モデルである

彼のデビューは今から66年前の「本陣殺人事件」である
伝統的な日本家屋を舞台に巧妙なトリックと人物たちで
巧妙に紡がれた日本初の長編密室型殺人事件の金字塔を
打ち立てた名作である

作者である横溝正史は人物像を劇作家の
菊田一夫と重ねていた
新しい探偵の名前も「菊田一00・・」が良いのではと
考えていたのだ

しかし「菊田一」と苗字は存在せず、当時「君の名は」
「鐘の鳴る丘」「放浪記」などの名作を世に送り出していた
大作家の菊田に対して失礼になるのではと断念した・・

同じ頃、暮らしていた吉祥寺の隣組に京助の弟の
金田一安三が住んでいた

菊田一・・金田一・・興味をそそられ話を聞くと、あの著名な
京助が兄だという
名前も拝借して横溝の好きな「耕」の字をあてた

珍しい苗字なのでまともに読んで貰えなかったのが、
金田一耕助の活躍と共にようやく認知されたのだ

京助は「千金積んでも良いと思うくらい感謝している」と
大いに喜んだ

横溝は新しい著書が出るたびに金田一家に届けた


京助の性格は裏表のない真っ直ぐな気性であった
昭和天皇にアイヌ語の御進行をすることになったが
15分と定められた講義時間を興奮と熱中で何と
2時間近くも時間を割いてしまった

大変な失態をしてしまったと深く落ち込んでいた

その後、天皇家の主催の茶会があり京助も招かれた
思いもよらず昭和天皇自ら声をかけてきた

『この間のお話は大変面白かった・・』

それを聞いた京助は『恐れ入ります・・』と言ったきり
感激して泣き出してしまった・・


京助の長男の春彦、孫の真澄と秀穂も著名な言語学者
である
春彦が語ったエピソードに面白い話がある

『辞典に「金田一京助監修」ってよくありますが、父は
 一度もそのようなものは手掛けたことはありません・・
 人が良いから、頼まれたら断れなくて名前だけを
 貸していたんです・・(笑) 』


音楽の速度記号に「アレグロモデラート」がある
意味は(穏やかに早く)・・
音楽の素養を持たない僕にも限りなく高度な技術が
必要なことはおぼろげに理解できる

穏やかに早く・・幸恵の人生そのものに思えてならない・・
薄幸に哀を上塗りするようで、あらわにすることを
ためらったが、幸恵には婚約者がいたのだ・・

幸恵より三才年上で旭川大七師団に入隊していた青年で
アイヌの人であった・・

当時幸恵は協会ので日曜学校でローマ字を教えていた
その時の生徒のひとりであった

東京へ旅立つ前に仮祝言を挙げている
戻ってきたら幸せな新婚生活が待っていたのだ・・

チリユキエ・・はじめてその名にふれたとき何気なく
「散り雪へ・・」という言羽遊びをしてしまった


『銀のしずく降る降るまわりに・・

 金のしずく降る降るまわりに・・』

神謡集の最初の一歩を飾り・・幸恵がもっとも愛した物語
『ふくろうの神が自ら歌った謡』の冒頭の言羽である

そのしずくは雨なのだろうか・・

僕は『雪』を感じた
元を辿れば雪も雨の化粧なのだ・・

金のしずくはハラハラと散り落ちる黄金の銀杏が
心に浮かぶ・・

2010年秋・・故郷の登別市に幸恵を思い慕う人々の
寄付や浄財で『銀のしずく記念館』がオープンしました
機会があればぜひ訪ねてください

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幸恵が生まれたその年に本州の果て山口県の
仙崎の漁港に童謡詩人『金子みすゞ』が誕生している
みすゞの季節も26年と短い一生だった・・
ふたりがもし生き続ける事が出来たなら
何処かで巡り逢うことが・・

そんな、無いものねだりの想像をしてしまう・・


時を待たずしてこの国の其処かしこが純白の雪で
覆いつくされる・・

雪と共に幸恵も天から降りてくる

そして小さな足跡を付けながら

『さてさて・・どんな世の中になったのでしょう・・』と
 雪の光のなか、手をかざしながら辺りを見回す・・

果たしてそこには幸恵が想い望んだ景色は
あるのだろうか・・


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『飢えた子供を抱いた事があるかい・・
 彼らを生み出しているのは、富と権力と私たちなのだ・・』


『人から奪い取るよりも与える方がもっと豊かな
 社会になるよ・・』


『医者としての役はすべて失ったが、同時にすべてを得た・・
 病院の患者やスタッフと時を同じくして共に笑い
 共に泣いた・・これから先の人生もそうやって
 生きて行きたい・・』



身の丈193Cm!身体も心も規格外の大男
パッチアダムスの言羽だ






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本名 ハンター・キャンベル・アダムス

1945年5月28日 軍人の父と教師の母の次男として
ワシントンDCに生を受ける

笑いが心をほぐし患者の免疫力をあげるという精神的な
治療法を提唱し実践した「クラウンドクター」である


クラウンとはもちろん王冠のことではない
(田舎者・おどけ者)と云う道化師の意味である

ピエロは何も喋らずパントマイムだけで心を伝える・・
クラウンの中のひとつの役回りに過ぎない


ハンターがまだ誰も足跡を付けていないこの道を選んだのは
彼自身が病み人だったのだ・・


軍人であった父の仕事の影響で幼い頃は世界各国で暮らし
た・・ドイツで7年・日本(横浜)で三年
後に彼自身が語るように物怖じしない明るい性格は異国での
様々な体験で身に付いたものなのだ


だが目に見えぬ深いところでは病みの塊が次第に
膨れ上がっていた・・

16歳・・ようやく心が通じ合った父が心臓麻痺で
あっけなく自分から離れた・・

大学に進学したと同時に恋人にに別れを告げられた・・

さらには父親代わりの敬愛していた伯父の自殺・・

なんの希望もなくなり大学にも行かなくなった
自殺願望の声だけがどこからともなく
聞こえてくる・・

ある日、大学の近くにある「恋人の断崖」と呼ばれる崖に
よじ登り腰を下ろして恋人だったドナに捧げる詩を
書き始めた・・

何もかもが空虚(うつろ)であった・・

何かが彼を求めていたのだろうか
背中を押す力よりも押し戻す力のほうが少しだけ強かった

崖を降りるとバスに乗り雪の中を10キロも歩いて我が家に
辿りついた・・

母がドアを開けると静かに伝えた

『ずっと自殺しようと考えてるんだ・・母さん・・

 僕を精神病院に入れたほうがいいよ・・』


(その二人・・)


同室のルーディは三回の結婚をして十五の職業を経験
している・・
そして今は孤独と絶望の海でもがいていた
見舞い客は一人も訪れなかった・・

彼は泣きながら成し得なかった夢や孤独をハンターに語った

その姿に触れて(彼は精神を病んでいるのではない・・
ただ孤独でほんの少し弱いだけなのだ・・)と感じていた

ルーディには「凶暴なリス」の幻覚が頻繁に見える・・
それが現れるとパニック状態になりガタガタ震えて
何も出来無くなってしまう

ある日トイレに行こうとした瞬間にそれが訪れた!

強風のなかの木の葉のように震えだした!

その瞬間ハンターは無意識のうちに叫んでいた!

「大丈夫だルーディ!僕が追い払ってやる!」

迫真の演技で幻を消した

「もう大丈夫だルーディ・・早くトイレに行けよ・・」

安心してトイレに向かう後ろ姿を見ていると、今まで
経験したことのない未知の喜びが身体を突き抜けた!

(人を助けるとは自分自身もこんなに嬉しいことなのか・・)

この瞬間、自分が歩むべき道が鮮やかに目の前に開けた・・



個室のアーサーは資産家の数学者で、表向きは人生の
成功者である

ハンターと同じく自らの意思でここを訪れた
いつ遊びに行っても高度な数式を解く作業に没頭していた
哲学者の雰囲気をまとうアーサーは「天才型の患者」であった・・

彼は言う・・

『既成概念や、くだらん見栄を捨てて世界を見直せば
 毎日が発見だ・・』

ある時、コーヒーが満たされたアーサーの紙コップに
穴が開いてしまった・・
ハンターは絆創膏で塞いでやった

『絆創膏で継ぎ(パッチ)か・・お前は今日からパッチだ!』


彼こそがパッチアダムスの名付け親であった



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この頃、アンソニークィーン主演の名作「その男ゾルバ」に
触れる機会があった
まるで自分に語りかけているような印象深い
セリフが心に響いた・・

本の虫のその男に投げかけられた言羽は・・

『あなたは考えすぎる・・そこがあなたの厄介なところだ・・

 賢い人間と食料品屋ってのは何でも秤にかけたがるから

 困ったもんだ・・』

ハンターは悟った・・

(頭で動くよりも先ず感情で行動しょう!)

母に告げた

『母さん!僕はもう大丈夫だ!』

母は微笑みながら

『そうよ・・あなたは精神を病んでいるわけでは無いのよ

 心が風邪を引いただけ・・』

まだ入院が必要という医師の忠告を振り切って
訪れた時と同じように自分の意思で復活の扉を開けた・・



(夢の病院)


1967年パッチはバージニア医科大学に入学した

期待を裏切る保守的な大学で、クラスには黒人学生がひとり
もいなかった・・

教授たちはベトナム戦争を支持していた
そしてほとんどが利己的で高慢だった

学生たちには、たった5分の診察で患者の病気を見極めろと
支持を出した

家族・友人・信仰・趣味・仕事・性格などの情報は
不必要と考えられていた

二時間待たされてたった5分の治療
利益優先の医療現場のの実態

パッチが理想としたのは聖医シュバイツアーと
「ジャングルの医師」と呼ばれ国際救援組織の生みの親
トム・ドゥリーである

彼らの目指した崇高な思いとは、あまりにかけ離れた現状に
怒りのマグマが燃え滾った!

パッチは機械のように無機質な医師や学生が不在の時を
見計らって病室に潜り込んだ

大男でキリストのような風貌のパッチは患者の人気者に
なって愛された

話を聞いてやり、一緒に泣いて笑ってふざけ合い
背中や足をさすってやった・・

教授たちはその行動をまるで犯罪のように諌めた
行儀の良い髪型と三つ揃いのスーツ・・
顔に髭飾りは要らない・・

「患者に深くかかわるな・・近づき過ぎるとトラブルが
 起きたときに裁判で訴えられる・・」と
 何度も力説した

パッチはそれに屈せず最後まで自分のスタイルを
貫いた


バージニア大学の特色のひとつに医学部最後の一年間は
自分の関心をもつテーマについて研究するというプログラム
がある

パッチは小児科を選び1970年の9月から3月まで
ワシントンDCのスラム街にある病院に勤めることになった

そこはチルドレン・ホスピタルと提携しており、医院長は
女性のペグ・グテリアスであった
彼女は思いやりとユーモアを兼ね備えた人物であった
制限なしに子供たちとの接触も自由で、すべての壁に
絵や落書きを書く事を許された

何よりもこの病院はスタッフが心をひとつにして患者を
救おうとする情熱が溢れていた・・

同じ頃、ボランティアの若い医者たちによって運営されていた
「フリークリニック」で週15時間の活動をしていた
夜間だけの無料診療を行い、純粋に弱者だけのことを
考えた病院だった・・

ここでパッチはひとつの実験をする
(笑いが本当に人々を救えるのか・・)

消防士用のヘルメットを被り大きな赤い鼻
を付けて、はやる心で診療所のドアを開けた!


その空間にはヒッピー・ホームレス・水商売・失業者たちが
混沌と群れていた・・

沈黙が出迎えた・・

その次にやって来たのは大歓声と指笛と拍手!そして虹色の笑い声!
それらがひとつになってパッチを羽のように柔らかく包み込んだ・・

(僕の考えは正しかった・・!愛のある笑いでこの人たちを
 救うことが本当に出来るんだ・・!)


大学を卒業すると夢と理想の医療を実現すべくバージニア州アーリントンの街で同じ志を持つ仲間と無料診療所

ゲズンハイト・インスティテュード」を設立する

邦訳で「お達者で!お大事に!」の意味がある

プライバシーも寄付もほとんど無い過酷な条件のなか
スタッフは他の病院で働きながら12年間で15万人を超える
患者を無料で看た・・

その後この活動が徐々に知られるようになり賛同者・協力者
の援助で寄付や資金が集まり、そして今、法律を含めた様々
な問題を乗り越えて第二の「夢の病院」を建設中である!

その聖地はウェストバージニア州ポカホンタスの広大な
自然のなかに築かれている

高度な医療機器・体育館・図書館・工場・舞台ホール・菜園

宿泊施設・協会などあらゆる施設が完備している

そのなかで音楽療法をはじめとするダンス・人形・心理劇を
用いた斬新な心の治療を受けることが出来るのだ!

既成の病院では高額な金額を要求される高度治療も
すべて無料なのだ・・

まさに「命の楽園」なのだ・・

そして世界中の医師から今の病院を辞めてそこで働きたい
という申し出が1000人を超えている・・

パッチアダムスは休む暇もなく大きな身体で世界中を
飛び回り「夢の病院」の援助を呼びかけている・・

今日もどこかの国で赤い鼻を咲かせている・・



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(クラウン・・)


大棟 耕介 (おおむねこうすけ)

1969年5月17日 愛知県知多郡阿久比に生を受ける

パフォーマンス集団『プレジャーB』代表

NOP『日本ホスピタル・クラウン協会』理事長

愛知教育大学非常勤講師


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彼こそが日本が世界に誇るクラウンの第一人者なのだ!

世界中の道化師がが集うクラウンコンテストで

2003年個人部門 銀メダル

そして2009年グループ部門で金メダルを獲得する!







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は子供の頃から頭脳明晰でスポーツも万能であった!

進級すれば常に学級委員を任された

表面的には大らかに振舞っていたが内面的には

(良い子でいなければ・・)と常に他人の目を気にしていた・・

生徒会の選挙がはじまり、友達に担ぎ上げられて立候補を
することになった

ある時、階段の踊り場で女の先輩が自分の悪口を言いながら
選挙ポスターを蹴飛ばしているのを目撃してしまった・・

それ以来目立たぬように人前に出るのを避け部活動の
棒高跳びに熱中した

スポーツ心理学・トレーニング法・栄養学の本を
読み漁った

その結果1985年の国民体育大会少年の部で優勝し
日本一となった!

その後、筑波大学に進みスポーツに明け暮れた

卒業も間近になったが、やりたい仕事が見つからなかった

友人が名古屋鉄道の面接を受けるというので、冷やかしの
つもりで着いて行った

面接官が思いもよらず即決で

『ぜひ我社に来てください!』

(まあ良いか・・鉄道会社ならデパート・テーマパーク・ホテル・
 旅行と関連しているからやりたい仕事が見つかったら
 そっちの方で働いたら良い・・)

1992年は鉄道マンになった・・


彼は人並み以上にどのような事でもそつなくこなしていたが

(俺は人を楽しくさせる事が出来ない・・)と小さな
コンプレックスを常々感じていた

何かを変えよう・・何かが変わる・・

カルチャーセンターの「クラウン養成講座」を受講する

入社から二年が過ぎていた

身長180Cm96キロの大木は持ち前の運動神経で
どのような技も難なくこなした
講師が驚く程の才能を見せつけた!

1995年・スクールの仲間と
クラウン一座「プレジャーB」を結成する

ようやくその道を見つけたは翌年6年間務めた
会社を去った・・


(命の風景・・)

『皆んなどんな顔をするだろうな・・』

ため息とともにはつぶやいた

仲間が大きな声で答えた

『そりゃ道化師が突然廊下を歩いていたら
 誰でも驚くでしょう!』

小さな笑いが咲いて緊張がほどけた・・

2004年1月13日の冬風の中・・その日5人の
クラウンは名古屋日赤病院と小さな患者たちの
心のドアをノックした・・


<声・・>

脳腫瘍にかかり障害が残るのを覚悟で手術をしたが後遺症
で失語症になった男のがいた・・

身体の自由もきかず上半身を起こすだけでも母の手助けが
必要であった

遊んだ後の帰り際に母が

『今日はありがとうねって言ってごらん・・』

と話しかけた・・

少しの静けさのなか途切れ途切れだが

『ありが・・とう』

しっかりとに言羽を渡した・・

半年間ひと事も話すことが出来なかった子が・・

驚きと喜びと・・二人は静かに泣いた・・

彼はその後順調に回復して3ヵ月後には退院していった
今では車椅子も必要とせず毎日元気に学校に通っている!




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<姉妹のディズニーランド・・>


はアメリカへ向かう飛行機に乗っていた

すると小さな女の子が突然に

さんだよね?』と声をかけてきた

息を弾ませて少しだけ興奮した様子だ

『ウン!そうだよ・・』

『やっぱり!その髪型でわかったよ!』

『どこかで会ったことがあるのかな?』

『ウン!わたしの妹がなんども会ってる!』

そう言うとどこかへ駆け出した

しばらくすると毛糸の帽子を被った女の子の手を引いて
戻って来た

『ほら!これわたしの妹・・』

姉の後ろでもじもじしている女の子の顔を見て
すぐにわかった

『やあ今日は!久し振り、君たちは何処へ行くの?』

恥ずかしそうに小さな声で答えた

『フロリダのディズニーランド・・』

ミッキーマウスが大好きで、退院したらアメリカの
デイズニーランドに行きたいと話していた

は嬉しくなって姉の耳元で囁いた

『お姉ちゃんも一緒に行けてラッキーだったね・・』

姉は少し不満そうに言った

『わたしも頑張ったもん!』

妹に骨髄を提供したのは彼女だった・・

少し離れたところで母親がおじぎをしながら
ほほえんでいた

は心の中でつぶやいた・・

(俺って幸せな仕事をしてるのかも・・)







<手紙・・>


子供が笑顔になるのには色々な要素がある・・

は思う・・先ずは親が笑わないと・・


『先日は子どもがお世話になりました。さんに会えて

 とてもうれしそうでした。いままでずっと入退院を繰り返して
 
 いて病院に行くときはとても暗かったんですが、いまでは

「病院に楽しい人がくるからと!」と言ってとてもうれしそうに

しています。その子のお兄ちゃんもこんなことを言ってました。

 「ママも弟も道化師さんがくるから安心だね・・」

 さんは本当に優しくて楽しかった。わたしも心が震えました。

 うちの子はまだ入退院をつづけなければいけませんが

 またお会いできることを楽しみにしています。

 声をかけてくださってありがとう。』



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<想い・・>


『道化師に変身しても心までは変えられない・・

 むしろメイクをすることによって自分がさらけ出される・・

 結構辛いんですよね・・』


『僕たちはその場所に行き続けるだけです・・

 長くても10分というふれあいのなかで、ほんの少しでも

 痛みや辛いことを忘れてくれたら・・

 それが僕たちの最高の喜びです!』


『僕は毎年パッチと世界中を飛び回っていますが

 彼の口癖は「夢は道化師のいない世の中に

 することだ・・」

 その存在がなくても笑顔が絶えない世界・・

 きっと素敵でしょうね・・』


『いつも病院で遊んでいた子供が突然に亡くなる

 ことがある・・「悲しむ」と言う感情が自分の中に

 あってもいいと思う・・でも僕はプロだから、なるべく

 ひとりひとりに思い入れを持たないようにしている・・

 その日の辛いことはその日に忘れるようにしたい・・』


だが心とはうらはらにの視線が届くところには・・

まだふれ合いの温もりが残る子供たちが心ならずも

小さな星になってしまったその後に・・

生きた証の笑顔の写真が飾られている・・





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<赤いHANA>


クラウンの赤い鼻は子供たちの瞳にはどのように

溶けているのだろうか・・

遊園地の風船

ほっぺたのリンゴ

嬉しかった雨傘

名前も知らぬ花

冬の日の太陽




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生きて行くことは深さの違いはあるが、多分かなりの面積が

「哀しみや辛さと云う名の糸」で紡がれているのだろう・・

それを少しでも慰めてくれるのが笑いなのだ・・

子供たちにはかけがえのない「未来」がある

未来の果ての老人にはかけがえのない「過去」がある


はささやく・・


いつ笑ってもいい・・


どんな風にわらってもいい・・




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僕がこの物語を綴るきっかけになった映画

1998年公開 『パッチアダムス』

ぜひ触れてください!


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『美の序章・・』 末弘ヒロ子 


1893(明26)~1963(昭38)



1907年(明治40)


アメリカの新聞社「シカゴ・トリビューン」が

「ミス・ワールドコンテスト」の企画をする・・


日本の「時事新報社」が打診を受け

「日本美人写真募集」と銘打って大々的なキャンペーン

を展開した


時に1908年(明41)3月5日


日本初となる美人コンテストの草分けとなる・・


女優や芸妓は資格がなく自薦・他薦は問わず

公務員の初任給が14円の時代に総額3000円相当の

商品が贈答されるとあって応募総数は7000人の多きを

数えた・・


当時の人口は4740万人・・


反響の大きさを思わずにはいられない・・


審査員は高村光太郎の父の光雲


洋画家の岡田三郎助


を始めとする美の達人13人で構成された


満場一致で一等に輝いたのは当時わずか16才だった


「末弘ヒロ子」である・・






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福岡県小倉市長の四女として生を受ける・・


当時は学習院女学部の3年生として在籍していた


幼い頃から聡明で舞踊・茶道・華道に励み

琴やピアノも良くした・・


奥二重で色白の艶やかな美貌は「小倉小町」と

称され、地元では人々の憧れの的であった


まさに「才色兼備」の化身の少女であった・・



彼女の数奇な運命はここから始まった・・


実はこの応募はヒロ子の知らぬところであった・・


義兄の江崎は当時としては珍しい職業カメラマンであった


ヒロ子をモデルとして撮り溜めた写真の中から

珠玉の一葉を選んで送ったのだ・・


本人にも妻にも了解を得ずに・・


(ヒロ子はそのような事を嫌がる性格なので・・)


事実を知ったヒロ子は


『兄様・・そんな事をしては嫌です・・

早く写真を取り戻して下さい・・』


涙ながらに諌め訴えた


江崎は直ぐに辞退の旨を主催者に伝えたが

既に紙面に掲載されて人々の知るところ

となった今では・・


泣く泣く説得を受けたのである・・



当時の学習院院長は乃木希典である


実質の判断は女学部部長の松本が下したが


「校風を乱す所業にて誠に遺憾である・・」


ヒロ子を退学処分にしたのである・・


他に数名の応募をした生徒が存在したが

裁かれたのはヒロ子だけであった・・


主催者はこのあまりに理不尽な決定に紙面上で

抗議の筆を燃やしたが、時すでに遅かった・・


ヒロ子は「一人静」の花のごとく深い静寂を保ち

一切の弁解を閉ざした・・


乃木は後に真実を知り大いに悔やんだ・・


今では考えられぬことだが・当時は幼くして嫁ぐのが

女性の華とされていた・・


せめてもの罪滅ぼしにと良縁を求めて併走した


陸軍士官にそれを求めたが、なかなか釣り合う人物が

存在しなかった・・


ある日、旧知のなかの陸軍大将・野津道貫が乃木を

訪ねてきた・・


「ずいぶん骨を折ってるようだが、俺の息子ではどうだ!」


長男の鎮之助は陸軍少佐で前年には侯爵となり、父の

後を継いで貴族議員の道も約束されていた・・


これ以上の縁を望むべきもなかった


乃木はこの朗報に狂喜した!


末弘家でもこの縁談に驚きながらも喜びを隠せなかった


ヒロ子自身も鎮之助の明るく誠実な春のような人柄に

ほのかに好感を抱いた・・


風のように話が進み、乃木の媒酌で二人は結ばれた・・


夫は60歳でこの世を去るが、茶道や華道を教えたり・・


晩年は穏やかに過ごした・・



余談だが・・次女の真佐子は倉敷絹織(現・クラレ)の

社長・大原総一郎のもとへ嫁ぐ


ヒロ子の姉の直子は建築家の山下啓次郎と結ばれ

後に授かった孫がジャズピアニストの

山下洋輔その人である・・





『鹿鳴館の華・・』 陸奥亮子 


1856年(安政3)~1900年(明33年)






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亮子は没落士族の旗本の長女として生を受ける


明治の始めに東京新橋の柏屋の芸妓となる

花名は小鈴である


新橋一の美貌を誇る名妓であった・・


花柳界に身を置きながら男嫌いという評判もあり

身持ちが堅かったのも人気の要因であった・・


後に結ばれる陸奥宗光は紀州生まれの幕末の志士で

龍馬をして


『二本(刀)差さなくても食って行けるのは俺と陸奥だけだ・・』

と言わしめたほどの才の人である


維新後は兵庫県知事や元老院義官を始めとする重職を

歴任する


妻を亡くした翌年に亮子を見初め娶った・・


亮子わずか17才の春であった


肖像は33才の花の盛りに撮られたものである・・


『夫婦になると顔まで似てくるものか・・』と噂されたほど

彫りの深い容貌を共有していた・・





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1888年に欧米公使となりアメリカへ渡る


日本では「鹿鳴館の華」と謳われたがこの異国の地でも


「ワシントン社交界の華」として存在した・・


惜しむらくはわずか44才という若さで

花を散らしたことだろう・・





『世界のマダム・・』 川上貞奴


1871年(明4)~1946年~(昭21)






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貞奴(本名・貞)は日本における最初の女優である・・


東京日本橋の質屋「越後屋」の12番目の子として

生を受ける・・


生家の没落により、僅か7才の折に茅町の置屋「浜田屋」の

女将 ・亀吉の養女となる・・


舞踊の芸妓に秀でた貞奴は伊藤博文や西園寺公望などの

名だたる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の

芸妓となった・・



1894年(明27)自由民権運動の活動家で書生芝居を

していた川上音二郎と結ばれる・・


貞奴22才の季節である・・



彼の創った「オッペケペー節」はこの時代を風靡した!


1899年(明32)川上音次郎一座・総勢19名は海を渡り

海外公演の目的地サンフランシスコへと向かった


最初は物珍しさから客も入ったが、しだいに飽きられて

客席もまばらになった・・


そして・・興行師が売上金を持ち逃げするという最悪の

事件が起こった・・


日本人移民団の骨折りで何とか寝起きの場所だけは

確保が出来た


彼らは口々に帰国を進めたが、志半ばで戻るのは無念で

あるという思いが勝り・・


とにかく次の公演先へ旅立つことに決めた・・


シカゴに辿り着いた時には疲労と空腹で息も絶え絶えであった・・


しかし、この悲惨な佇まいがが思いがけない

展開を生むのである!


空腹のまま舞台に上がった貞奴は力が入らず倒れて

しまう・・


これを(迫真の演技)と勘違いをした観客は拍手喝采・・


まさに「災い転じて福と成す・・」の趣である!


これを機としてワシントンやロンドンでも爆発的な盛況を

見せた!


そして1900年(明33)

万国博覧会で賑わう花の都パリの土を踏んだ・・


万博会場の一角に建つ「ロイ・フラワー劇場」を

フランスでの拠点とした


すでに貞奴の美貌と神秘的な踊りや演技は

人の知るところで・・歴史を飾った人々が次々と

この空間に集った


客席から熱心にスケッチをしていたのがまだ無名の

若き日のピカソである

この時二十歳・・


「月の光」 「亜麻色の髪の乙女」を作曲した

クロード・ドビュッシー(当時38才)


「狭き門」で知られる

文豪のアンドレ・ジッド(31才)も彼女を絶賛した!


公演の初日には「考える人」などの作品で有名な

当時60才のロダンも招待されていた


彼は初めて触れる東洋の神秘・貞奴に魅了され

楽屋を訪れた


『是非あなたをモデルに彫刻を創りたい・・』と熱心に

頼んだ


貞奴は微笑みながら


『生憎このような慌ただしさで、とてもそのような時間が

ありません・・まことに申し訳ありません・・』


優しく断った・・


ロダンはすでに「世界の彫刻界の父」と呼ばれる

紛れもない巨匠であった


実は貞奴は彼を知らなかったのである!


大らかな彼女の性格を表す微笑みの

エピソードである・・


8月には当時のフランス大統領のエミール・ルーベの

園遊会に招かれ「道成寺」を披露した


踊り終えた貞奴に大統領婦人が握手を求めて来た・・


その後は官邸の庭を連れ立って散歩した


パリ社交界に突然に降り立った彼女の人気は

あらゆる場面で姿を現した


着物風の「ヤッコドレス」が街の至るところに

流れ・・


貞奴の名を冠した香水の香りが街中に

漂った・・


後には勲章も授与された


パリの人々から「マダム貞奴」と呼ばれ

親しまれた・・


音次郎は1911年(明44)に病のためこの世を去る

47才であった・・


その後貞奴は、最初の思い人「日本の電力王」と呼ばれ

後に政界に進出する福澤桃介と寄り添う・・


桃介は福澤諭吉の養子となり次女の房と結ばれる・・


出逢いは1885年(明18)までさかのぼる


当時、馬術の練習をしていた貞奴を野犬が襲った!


まだ学生であった桃介が追い払い難を逃れた・・


これが縁で深い恋に落ちていく・・


そして再び・・


しかし桃介はまだ房とは離婚をしておらず

道ならぬ営みであった・・


20年の季節を過ごしたが、思うところが

あって貞奴62才の折に桃介を妻の元へ送り届ける・・


共通の友人である作家の長谷川時雨は初老に近づいた

二人を


『この年になっても・・まだ夢のような恋を楽しんでいる

恋人のようだ・・』

と表現している





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この別れと時を同じくして

岐阜県各務原市鵜沼に私財を投じて


「金剛山桃光院・貞照寺」を建立する


思いを残した桃介の一文字が揺れる心を静かに

物語っている・・



門前には終の棲家となる壮麗な別荘「晩松園」が

建造される



老境に入っても赤いオートバイを乗り回す活発な

女性であったと伝えられる・・



75才の蜜なる生涯を閉じて今は貞照寺に

ひっそりと眠っている・・


芸事の祈願やお参りに訪れる人々が後を絶たない・・







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『心草子・・』 樋口一葉


1872年(明5)~1896年(明29)


一葉は近代文学の女性作家の草分けと

位置づけられる・・


達磨大師が揚子江を一枚の芦の葉に乗って渡った・・


「私も達磨も、おあし(銭)が無い・・だから一葉・・」


笑いながら友人にペンネームの由来を語っている・・


一葉の文学は生きるため・・食べるための

発露であった・・





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樋口一葉(本名・奈津)は金融や不動産を営む裕福な

家に第四子・次女として生を受ける


幼い頃から聡明で七才の折に滝沢馬琴の

「南総里見八犬伝」を読破した


私立・青梅学校(小学高等科第四級)を主席で卒業する


さらなる進学を希望するが母の


『女には学問はいらぬ・・』

の意見から勉学への思いを泣く泣く断念する・・


意外にも一葉の最終学歴は11才をもって了となる


一葉の生涯で心安らいだ幸福な春は4才から9才まで

過ごした季節であろうか・・


東京帝大赤門前の法真寺に隣接する本郷6丁目の豪壮な

家屋での営みは家族7人が寄り添っていた



一葉の冬は父の死とともにやって来た・・


新事業に失敗して財産はすべて消えて借金だけが残り

失意のなかで逝った・・


長男・泉太郎は聡明で樋口家の希望だったが

大蔵省に務めた直後に病で風のように23才の若さで

この世を離れた・・


次男・虎之助は素行が悪く両親の怒りから

15才で分籍(勘当)されていた


長女の藤はすでに嫁ぎ、17才の若さで一葉は戸主となった


母と妹の邦子と女三人だけの乏しい暮らしが

始まった・・


一葉には独特の考えがとプライドがあり


(女は家事に追われてはいけない・・)


母と妹が家事を・・生活の糧も、二人の洗濯や針仕事で

得た金で保たれていた・・





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(右から一葉・母たき・妹の邦子・袖のなかに手を隠して

 いるのは当時の風習で手が見えると魂が奪われると

 信じられていたからだ・・)


生活のため職業作家の道を目指し

半井桃水(なからいとうすい)を訪ねる・・


桃水は長崎県対馬の出身


当時は「東京朝日新聞」の文芸部に席を置き

すでに小説家としての地位も高かった




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時は明治24年4月15日・一葉19才・・桃水31才


その時の印象を


『色いと白く、面ておだやかに少し笑へるさま、誠に

三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ・・』


勝気な一葉に柔らかな女性の想いが見え隠れする・・


長身で美男子で穏やかな桃水に会ったその日から

恋慕を抱いたのである・・


あまりに短い一葉の歴史のなかで最初で最後の

恋であった・・


季節に習い心にも桜が咲いた・・


ふれあいの深さは定かではないが・・

一年あまりのときめきと哀しみを楽しんだ・・


二人同時に「会いたい・・」と手紙を出していた

不思議さを・・


桃水が作ってくれたお汁粉の甘さを・・


別れの予感で心が乱れ、家への道をあやまり

いつしか神社の前に佇んでいたり・・


離れた後からも思い出を振り返っていた・・


桃水から小説の手ほどきを受け翌年の

1892年(明25)に、淡い初恋を描いた処女作

「闇櫻」を文芸誌「武蔵野」に発表する・・


同時に別れの年でもあった・・


要因は様々だが・嫁入り前の娘が何もなかったにせよ

男の家に通うことは・・


世間の風評に引き裂かれた・・


一葉の死後16年後に露になった日記に触れて

桃水は彼女の深い想いを初めて知ったと云う・・


皮肉にも一葉の作家としての評価はここから静かに開花

していく・・



明治26年21才・・下町の龍泉寺町で雑貨屋を始める


一葉が仕入れ、妹の邦子が店番を任された


この時の風景が後の「たけくらべ」につながっていく・・


同・27年22才・・9ヶ月営んだ店を畳み

本郷丸山副町(現・西片町)へ移る

この街が「にごりえ」の舞台であり終の棲家となった・・


同・28年23才・・7月に「にごりえ」の執筆に

取り掛かる・・


同・29年24才・・一葉の最後の年となる・・


4月に森鷗外と幸田露伴が「たけくらべ」を絶賛する


だが・・この頃から持病の結核が静かに身体を

むしばんで行く・・


7月22日を最後に日記も途絶えた


九月には無理を押して幼い頃から慣れ親しんだ

歌塾「萩の舎」の例会におもむく

これが最後の外出であった・・


死期を悟った一葉は


『皆様が、野辺をそぞろ歩きしておいでの時には


 蝶にでもなって・・お袖の辺でも戯れましょうか・・』


穏やかに語ったと伝へられる・・


そして・・1896年(明29)11月23日・・


秋の風がわずかに冬の香りを宿すとき、栞(しおり)を

挟むことなく「一葉草子」は二十四頁と少しの綴りを閉じた・・






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(一葉・・追記)


一葉は日常的に頭痛と肩こりにに悩まさていた

日記にもそのことが頻繁に現れる


「頭痛いと激しければ、暫時ひる寝・・」


水を湿らしたハチマキを頭に回して

勇ましい姿で執筆に励む事もあった!



強度の「近眼」も一因とされている・・


近眼は幼い頃から暗いところで書籍を読み耽った

果てに・・


歌加留多の時には畳に顔が付くほどに近づけるので


『奈津さん・・それでは他の人たちが見えませんよ・・』

と笑われるほどであった・・


眼鏡を進められるが、洒落者で「拗ね者」の一葉は

「不様だから・・」と拒んだ・・


実はこのおぼろな瞳が一葉の顔に花を添えている・・


「強度の近眼」は自然に遠くを見つめるような視線

となり不思議な魅力を醸し出す・・


女優なら岩下志麻や松坂慶子が挙げられる・・



一葉18才の時の貴重な写真がある





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右が一葉である・・


身長は150Cmと小柄だが豊かな瞳と凛とした様子が

漂っている・・


彼女は「才の人」であり「美の人」でもあった・・



『こころにはいつわりはなく、はた又こころは


うごくものにあらず・・うごくものは情けなり・・


此涙も、此笑もこころの底より出しものならで・・


情に動かされて、情のかたち成・・』



(心美人・・)


今回のブログは主義主張は何もなく、ただ自分の趣味で

「美しい女性を見てみたい・・」と云うよこしまな思い

だけでした (笑)


いずれも100年以上前の女性ですが現在でも違和感なく

受け入れられる美人です


体型はさておき、美の価値観は変わっていませんね


ただ「人工美」が当たり前の現代に置いていにしえは


「自然の美しさ」が漂っています・・


幸か不幸かこのブログに触れてしまったお客人・・


殿方は、細君および思い人を見つめることを

ためらわず・・


女子衆は鏡を覗くことを恐れず・・(笑)


時代は流れど、いつの世も『心美人』が愛されます・・


















































































 







冬・『白湯(さゆ)のお酒・・』



もと警察官の彦田信義さんが、知人の或る夫婦を語られた

小さな小さなお話です・・


昭和20年8月・・永く辛い悪夢の戦争が終わった・・


日ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連軍が国境を超えて

満州に雪崩込んできた


当時兵隊としてその地に留まっていた堀川さんは、そのまま

シベリアに連行された

言羽では表すことが出来ない過酷で壮絶な捕虜収容所での

抑留生活が始まった・・


多くの戦友が厳寒の異国の地で望郷の思いを胸に宿したまま

次々と死んで逝った・・


冬はマイナス60度・・

故郷の家族との再会を夢見ながら6万人の命が雪のように

儚く溶けた・・








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(もう生きて戻れる日は来ないだろう・・)


極寒はわずかな希望までも凍てつかせた・・


日本政府がアメリカを通じて捕虜の帰国事業を訴え

ようやく一筋の道が開けた・・


堀川さんにも幸いにして帰国を許される日が巡ってきた!


最長11年間の抑留を強いられた人々がいた事を思うと

まさに奇跡であった・・


(本当に帰れるのか?夢ではないのか・・)


その日まで眠れぬ夜が続いた



上陸先は舞鶴港であった・・


引揚船から夢にまで見た青い山々が見えてきた!

デッキから身を乗り出し人々は誰一人として

涙を流さぬ者はいなかった・・


「ただいま~!」

大声で何かに呼びかける者・・


「・・・・・・」


万感の思いで胸が塞がれ声が出ず、ただ泣く者・・


(ああ・・帰って来れたんだ・・俺の国に・・)










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乏しい通信手段から、何とか留守宅の妻に連絡を取り翌日に

帰宅をすることを知らせる事が出来た・・


帰らぬ人と覚悟を決めていた妻の喜びは計り知れぬものが

あった・・


目には見えぬものに心から感謝の言羽を送った

(ありがとうございます・・ありがとうございます・・)


早速、夫を迎える準備に取り掛かった


切れ切れに聞こえる情報では抑留されていた人たちは

日本に戻った時には皆一様に痩せ細り、肉体的にも

精神的にも衰弱しているということだった・・


取り敢えずは美味しいものを食べさせてあげたい

妻としては自然な思いだった・・


しかし当時の日本は、あらゆる物資が不足していた

国民は皆ひとしく疲弊のさなかであった・・


万が一のこの日のためにと、僅かながら調味料と米は

蓄えてあった


野菜と魚は、ほうぼう駆けずり回り何とか手にいれた


だが酒が無い・・


夫は酒をこよなく愛する人なのだ


その地では、食事も満足に与えられなかったろう

ましてや酒を口にすることなど・・


その夫に何とか日本の酒を飲ませてあげたい・・


しかし、二日間酒を求めて走り回ったが、どうしても

手に入れる事が出来なかった・・


彦星のように待ちわびた夫が、ふたたび我が家へ

帰ってきた・・


言羽は無くただ泣くばかりであった


もう二度と触れることはないと思っていた

夫婦差し向かいの食事・・


ささやかだが妻が心を込めた手料理が

食卓に並べられた・・






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だが・・酒の工面が出来なかった妻の胸中は小さく

うずくまっていた・・


苦しい思案の末「ままごと」のようにお銚子に沸かした

白湯をいれ、夫の盃に注いでやった・・


申し訳なさ・・恥ずかしさ・・情けなさ・・あらゆる感情が

芽生えて顔を伏せた


夫が喉を鳴らして幻を飲み込んだ・・


次の瞬間、おじぎ草のようにうな垂れて哀を滲ませた

妻の白いうなじに春が降ってきた


『美味しいよ・・』


はっとして顔を上げると・・

微笑みながら、大粒の涙を流す夫の姿があった


まるでシベリアで包み込まれた氷が溶けるように・・


妻は、あまりにも思いがけない言羽に何度も

頷きながら二人で泣いた・・


夫は日本に上陸して直ぐに、想像を遥かに超える

悲惨な状況を感じていた・・


妻がこの環境の中で自分の食を削り、どのような

気持ちで今日の食卓を飾ってくれたのか・・


健気な思いやりをいち早く察していた・・


どのような高価な銘酒よりも確かに今日のこの酒は

『美味しかった・・』


『美味しいよ・・』

これ以上の妻への感謝を表す言羽は他には

無かった・・


我々は本当に心から、この言羽をその人に

伝えているのだろうか・・


この夫婦が、その後の人生をどのように歩んだのか

語るべくもありません・・







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僕の好きな作家、オー・ヘンリーの小説に『賢者の贈り物』と

いう短編がある


クリスマスを明日に控えているが若い貧しい夫婦には

プレゼントを買うお金がな無かった・・


夫の大事にしているものは祖父から父へ、そして自分へと

受け継がれてきた「金の懐中時計」である・・


妻の自慢できるものは美しく輝く「栗色の長い髪」
だけであった・・


夫が家の扉を開けた・・

出迎えた妻を見て驚いた


あの美しい栗色の髪が消えていたのである!

彼は哀色を宿した表情でリボンの付けられた

小箱を渡した・・


なかを開けると素敵なべっ甲櫛の二本の髪飾りであった・・

それは彼女が街へ行くたびに、子供のように覗いていた

ショーウィンドウに飾られた品物であった


夫は「懐中時計」を質屋に入れて得たお金で

それを求めたのである・・


そして妻が差し出した箱のなかは・・


光り輝くプラチナの懐中時計用の鎖であった


革の吊り紐はぼろぼろだったので、あの時計にふさわしい

ものを・・


カツラ屋に髪を売ってそれを求めた・・


二人とっては「すれ違いの贈り物」となってしまったが

失ったものは何もなく、それ以上の大切なものを

確かめあった・・





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僕は幸か不幸か独身である・・(笑)


日常の夫婦の暮らしや佇まいは知る由も無い・・


ある時期、その人と一年ほど共にしたことがあるが

その感覚は覚悟や責任の重さからも別の次元の

世界なのだろう・・


夫婦の姿は一様ではない

その数だけ様々な景色が存在する・・


思いをを残しながら別れて行くもの・・


心は離れていても、ひとつ屋根の下で暮らすもの・・



理想の夫婦像があるとすれば、それは空気や水のような

存在なのだろう


普段はあまり感じることはないが、ふとした時に、限りなく

大切な存在だと気がつく・・


尽きるところ、平凡だが日々の何気ない思いやりや心遣いが

大事なのだろう・・



あの美しく汚れを知らぬような摩周湖も一年に二度、蒼緑の

透明な水が濁ることがある


春に気温が上昇して水面の温度が4度になると重くなり

湖底の水と入れ替わる時に泥も従えるのだ・・


晩秋は、その逆である・・






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夫婦とは繰り返される四季の巡りなのだろう


春の温もりを感じる時もあれば、冬の寒さで心が凍てつく

こともある・・


「三寒四温」のシーソー遊びなのだ



菩提樹の花言葉は「夫婦愛」・・


ある村に仲睦まじい老夫婦が暮らしていた

二人は何時も『この世を離れるときには一緒に逝きたい

ものだ・・』と話していた


ある朝目が覚めると頭に緑の葉が芽生えていた


(その時が来たのか・・)


二人は家を出ると、仲良く手をつなぎ、どこまでも歩いた


いつしか夫は「樫の木」に

妻は「菩提樹」に姿を変えて大地に寄り添った・・

(ギリシャ神話)


冬の長さを少しだけ感じている二人・・


たまには立ち止まって、菩提樹の膝に腰を下ろし

あの時の、優しさやときめきが眠っている

「思い出のアルバム」を開いてみませんか・・


寒さで隠れていた何かが顔を覗かせるかも

知れませんよ・・




『想い・・』とは長さや量や数ではなく深さなのでしょう・・






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秋・『花を聴く人・・』



一冊の古いスケッチブックがある・・


珈琲の香りが漂ってくるようなその色で化粧をほどこし

いくつもの季節を見送った・・


はじまりのページに描かれているのは絵ではなく

捨てられた子猫のように小さく震える

片仮名の「ア」の一文字である・・


その日、その人は探しあぐねていた道標に出会った・・





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星野富弘・ 画家・詩人


1946年・群馬県勢多郡東村(現・みどり市)に生を受ける


1962年・県立桐生高校に入学・器械体操部に席を置く


1970年・群馬大学教育学部保健体育科卒業

      四月に高崎市立倉賀野中学へ校体育教師として

      赴任する


それから僅か二ヶ月後・・


人生を揺らした運命の日が訪れた


梅雨のさなかには珍しく青空が顔を覗かせ、爽やかな風が

吹いていた


体操部のクラブ活動で鉄棒の模範演技をしていたが

着地に失敗して頭からマットへ落下した!


(いつもの事だ・・)と何も気にせずに、ひっくり返っていたが

何か様子が違う


首から下の感覚がない!


生徒たちも異常を感じて駆け寄って来た!


(腕があるんだろうか・・?)


生徒に頼んだ


『手を持ち上げてくれないか・・』


意味が分からず不思議そうな顔をして横から(何か?)を

持ち上げた


『もう少し高く!』


目の前にあるのは紛れも無く鍛えられた自分の太い

腕だが、風の気配をそよとも感じない!


(大変な怪我をしてしまったぞ・・)


父と母の青ざめた悲しげな顔が浮かんだ・・


群馬大学医学部附属病院に運び込まれた


ベッドの周りを大勢の医師が取り巻き、深刻な顔で

何かを話していた


その日、両親は親戚の家に田植えの手伝いで出かけて

いたが、急を告げられ最終便に飛び乗り駆けつけた・・


『頑張りなよ・・体力があるんだから・・絶対に治るから・・』

息子の頭を撫ぜた母の手からは田圃の土と草の

匂いがした・・


診断は「頸髄損傷」


首は七つの骨の積み重ねで支えられている

この部分は様々な神経が張り巡らされている


落下の衝撃で骨間が大きく離れてしまったのだ!


頭蓋骨に穴を開けて鈎で引っ張り上げて修復する手術

が行われた


麻痺のため筋肉が動かなくなり、普段の半分も空気が

吸い込めなくなっていた

喉に人工呼吸器が取り付けられた・・

40度を超える熱が続いた!


壮絶な一週間が過ぎた


廊下で小さな話声が聞こえた・・


『今日、明日が峠らしいよ・・』


家族の泣き声が胸に響いた・・


(死にやしないよ・・)


心の中で叫んだが、涙は次々と溢ては流れていった


天井の電球がシャンデリアのようにおぼろに滲んだ・・


ラジオからは大阪万博の実況中継が流れていた



幸いだったのはスポーツで鍛えられた彼の肉体、分けても

心臓が驚異的な生への執着をみせて、奇跡的に命を

つなぎ止めた・・


二年が過ぎた


不自由な角度から僅かに覗ける窓の景色が

たったひとつの散歩道であった・・




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養護学校から実習生として働いていた篠原さんは、献身的な

介護をしてくれた


その日も、床ずれ予防のため身体を横にしてくれた後、

彼女は思い出したように何気なく言った


『そのままの姿勢で字を書いたらどうでしょう・・』


サインペンにガーゼを巻いて口に喰わえさせ、顔の前に

スケッチブックを近づけた


紙とペンが寄り添った・・

支える彼女の腕が小刻みに震えた!


横から覗き込んでいた母も歯を食いしばった・・


浮かんだのは水草のように揺れている「ア」の一文字であった


その時の思いを後に語っている


『小学校に入る少し前に初めて自分の名前が書けるように

 なった時のように嬉しくてたまりませんでした!

 嬉しさの余り電信柱にも名前を書いて回ったのを

 思い出しました・・』


ひとすじの明かりが灯った・・


文字を書く速度がだんだんと早くなっていくと、その傍らに絵

を置きたくなった・・


(何が良いだろう・・)


目に触れたのは大人しく彼を見守っている花瓶に飾られた

名も知れぬ花であった・・


最初はモノクロの花ばかりだった


(色がないと何だか可哀想だ・・こんなに綺麗なのに・・)


水性のカラーペンで線を描き、その上を水を含ませた筆で

なぞると、ほんのりと薄化粧をほどこされた美しい花が

生まれた・・



一冊の「聖書」がダンボール箱に眠っていた・・


大学の一年先輩で、今は牧師になるために神学校で学ぶ

米谷さんから送られたものだ


事故の直後に見舞いに訪れ


『今の僕に出来ることはこれだけだ・・』

と云って渡してくれた・・


触れるのには何故か抵抗があった


(あいつは苦しくて、とうとう神様にすがりついたのか・・)

と思われるのが嫌だったのだ・・


学生時代の寮生活を思い出していた・・

食事の前に米谷先輩はいつも何かに向かって感謝の

祈りを捧げていた・・


その姿は静かで神々しくさえあった


その中にはどんな世界があるのだろうか・・?


いつしか最初の扉をめくっていた・・


想像を遥かに超えた世界であった

紡ぎ出された癒しの言羽は、ここちよく心の斜面を

転がった・・


神が、不自由な身体を抱き上げてくれて、自分の伝えたい

ことを優しく聞いてくれるような気がした・・


教えと救いのその世界の水底に静かに沈んで行くのを

感じていた・・


1974年、病室で洗礼を受ける・・




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ある日の午後、ひとりの清楚で物静かな女性が彼のもとを

訪れた


『私は前橋キリスト教会に通っている渡辺と申します・・』


後に彼に寄り添う花人である・・


会社に勤めながら、日曜には教会で聖書のお話を

聞いています・・と静かに語った


その教会は米谷先輩も通っていたところであり、その縁で

彼を知った・・


持参したミカンを丁寧に剥いて食べさせてくれた


彼の口元に運ぶ手つきがとても自然で心地好かった・・


『長い間父の介護をしていたからでしょうか・・』


恥じらいを宿して微笑んだ


その日から彼女は毎週土曜日の同じ時刻に病室を

訪れた


母の手伝いをしたり、彼の身の回りの世話を甲斐甲斐しく

してくれた

いつしか彼も母も彼女の訪れを楽しみに心待ちをするように

なった・・



外来病棟の二階の廊下がお気に入りの場所であった


西の突き当たりが大きなガラスで、その向うには鮮やかな

黄金色を身に付けた銀杏並木が風にざわめいている


屈託の無い世間話が途切れた・・


『渡辺さん・・結婚しょうか・・』


自分でも思いがけない言羽がこぼれた・・


『・・・・・』


車椅子の後ろの彼女は見えなかったが沈黙だけは

聞こえた・・


『私も考えていたんだけど・・今はまだ・・はっきりと返事は・・

 でも・・そのことは神様に祈っているわ・・

 二人で祈りましょう・・』


後ろから温かい手のひらが顔を包み込んだ




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1979年に前橋で初めての個展を開く


そして9月には夢にまで見た故郷の我が家へ帰れることが

決まった!


あの日から9年4ヶ月の季節が流れていた


『もう星野さんの顔は見たくないからね・・』


おどけて別れの言葉を贈る看護婦たちだが微笑み

ながらも涙は溢れていた・・


玄関の花壇には赤いサルビアが揺れていた・・


様々な出会いがあった


事故で片腕を失った暴走族の少年に車椅子を

押してもらった・・


裕福で幸せそうだった人が、話してみると心寂しい

日々を送っていた・・


お金も学歴のない身体の不自由な人が病室を

明るく照らす人気者だったり


かけがえのない触れ合いであった



故郷は大きく変わっていた


国道や村道が整備され、新しい家が立ち並び

箱根に向かう観光バスが絶え間なく走っている


だが故郷の山々や、質素な農業を営む両親の素朴な

生活の佇まいは昔と同じであった


桐生市から妹が子供を連れて遊びに来ていた


二人で庭に出て紫陽花を眺めていた


『俺、渡辺さんと結婚するから・・』


ぽんと言羽を渡した・・


『えっ!渡辺さんって何時も来てくれるあの人・・』


『うん』


『本当に・・本当に渡辺さんが来てくれるの・・」

車椅子の後ろに回った妹は・・


『良かった・・渡辺さんなら、もう・・本当に・・』


声を震わせた・・


額紫陽花の紫が風にそよいだ・・



1981年の春、二輪の花は結ばれた


ミカンの出会いから8年の季節が流れていた・・


前橋キリスト教会の礼拝堂は鮮やかな花々で

埋めつくされていた



星野さんが一つの作品を紡ぎ出すのに十日から十五日の

期間を要する

創作時間も一日二時間が限度である


筆に付ける水や絵の具の量を細かく指示し、それを

奥さんが別の紙に塗り、風合いを確かめながら

作品を創って行く・・


気の遠くなるような細かい作業である


ある主婦から送られた手紙に忘れられない言羽がある


『子供というのは、必ずしも赤ん坊の姿を持って生まれて

 くるとはかぎりません。あなたがた夫婦が心を一つにして

 力を合わせて作り上げたものなら、それが絵であれ文章で

 あろうと、あなたがた夫婦の立派な子供です。』


1991年に故郷の草木湖のほとりに

「村立富弘美術館」が誕生した


二十年目には来館者が600万人を超えた


今もなお、心の癒しを求めて訪れる人達が後をたたない・・




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僕たちも、ひと足先に春を覗いて見ましょうか・・














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春・『永遠の空席・・・』



まだ日本の国が旅行の自由化をはじめてから6年ほどしか

経っていない昭和45年頃のお話です・・

当時24才だった木戸克海さんが渡航先の異国の地で

思いがけなく触れた小さなエピソードです・・


その日彼は、知人の日系人とドライブを楽しんだ・・

夕食はロサンゼルス郊外の、眼下に海が広がる瀟洒な

レストランで食事をとることになった


月が美しく冴えた土曜の夜であった・・




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店に入って直ぐに目に飛び込んだのは、そこだけが

春の花壇のようにあでやかな花々で彩られたテーブル席で

あった


大きな二本のローソクが灯った窓辺の席である

雪のような純白の百合や菊、カーネーションが息づいている

(何かのお祝いだろうか?・・)

今宵この予約席にどのような人が座るのだろうかと

興味をそそられた・・


ローソクは2時間はたっぷり持つものであった・・


ゆっくりと時間をかけて食事を楽しんだが最後のデザートに

なっても、その席には誰も現われなかった・・

ふと気がつくと、支配人と給仕長はその席の側を通る

度に立ち止まっては、情を秘めた眼差しでその空間を

見つめているのだ・・


その表情は優しさのなかにも、何か物悲しい影が

漂っていた・・





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彼のなかに不思議な感情が芽生え、支配人に尋ねずには

いられなかった


語られたのは温かくも哀しい物語であった・・


『ちょうど5年前の今夜でしたが、結婚式を挙げたばかりの

若夫婦が、このテーブルでお祝いの食事をなさいました・・

ローガンさんという船の乗組員の御夫婦で、やはり今夜の

ように花を飾りローソクを立てましてね・・

とても幸福そうでしたから私どももはっきりと記憶して

いるのです・・


次の年の記念日にもやはり二人で来られました

しかし三年目には5ドルの為替と電報だけが来たのです・・

奥さんは乳癌で亡くなられ、自分は航海中で来られないない

しかしあのテーブルは自分たちのために予約済みに

してくれないかという文面でした・・


あの美しい奥さんが・・・私どもは驚きながらもご希望取通り

にさせてもらいました

それから毎年決まって為替と電報が来るのです・・

去年は横浜、今年はロンドンから届けられました

きっと今頃ローガンさんは遠くの空で亡くなられた奥様の

ことを想っておいででしょうね・・』


あまりにも美しくも哀しい話であった

彼の胸は感動で満たされていた


そしてこの店の春の陽ざしのような思いやりも温かく

美しいと思わずにはいられなかった・・


卓上に飾られた豪華な花だけでも5ドルではとても揃える

ことのできない値段である

そして、この5ドルの為替がそのままローガンさんの妻が

眠る教会に寄付をされているという事実も知った

のである・・


あの店がまだ存在しているのなら、その日の二人の

テーブルには永遠の愛の証しである消えることのない

ローソクが静かに揺らめき、花々たちを優しく

照らしていることだろう・・





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夏・『青州と加恵・・』


加恵の実家の妹背家は近郷の地士頭(ぢざむらいがしら)と

大庄屋を代々勤める名家である・・

藩主が伊勢路へ往復する折の宿と定められていた


通称を「名手本陣」と呼ばれるほどの家柄で、屋敷は千坪を

超える家柄であった


その加恵が家格では比べるべきもない隣りの平山村の

医者の長男である華岡青州に嫁いだのは

天明2年(1782)秋であった・・


華岡青洲・紀伊の国に生まれ育つ

(現・和歌山県紀の川市西野山)

後に自らの手で完成させた麻酔薬で、世界初となる

全身麻酔による手術を成功させて「医聖」と称された

仁の化身の人である


加恵が嫁いだ時期に京都の地で蘭学や漢方をはじめ様々な

医学を学んだ

その過程で、手術の際の患者の苦しみを和らげ

少しでも多くの患者の命を救いたいと麻酔薬の

開発を志した・・


研究を重ねた結果、朝鮮朝顔とトリカブトを主成分とした

6種類の薬草に麻酔効果があることを発見した・・




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動物実験による臨床を重ねた結果、完成までに漕ぎ着けた・・

後は人体による効力を確かめるだけであったが・・


あらゆる薬は裏を返せば「毒」にも成りうるのだ

人を借りての検証は未知の世界で、何が起こるか知る由も

ないのだ

行き詰まりの季節が流れて行く・・


華岡家には嫁ぎ遅れた、青州の二人の妹がいる


長女の於勝は加恵と同い年で、ふたつ下の小陸である

母の於継は近郷で「美っつい人・・」と呼ばれたほどの

容貌を有していたが、二人の娘は父親の色を濃くした

いかつい容姿であった


素朴で寡黙であったが心根は優しく純粋であった

青州の3年間の学びの費用は二人が織る布地や反物で

紡ぎ出されていた・・


もう三十になる於勝の無垢なる身体に哀しい陰りが

芽生えていた・・


青州が触れたときには、その乳房は西瓜のように朱く

熟れていた・・


『何でもっと早く言わなんだのや!・・』


その問いには答えず


『乳岩ですのやろ兄(あに)さん・・』

静かに問い返した


『ほなら、あの・・眠って死ねる薬を頂かしてよ兄さん・・』


『医者は命を助けるのが使命やよってに・・どんなに

苦しんでいる病人にも死ぬる薬を合わすことはならんのや・・』


『ほなら兄さん・・私の身体を切り開いて・・兄さんの得意の

手術をして頂かして・・』


『それが出来るくらいなら・・お前をこのままに置くものか・・』


『乳を切って死んでも兄さんの手にかかれば本望やし・・

なんどの役に立つなら私も・・』


於勝も医家に生を受けて根付いた女であった・・


涙ではこの病から救うことは叶わぬことと承知をしているが

診察の褥(しとね)を囲んだ人々は声を挙げて泣かずには

いられなかった・・




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母の於継きは息子の青州を執拗なほど溺愛していた

このことにより妻の加恵とは嫁と姑の壮絶な確執があった

終わりのない「花いくさ」であった・・


二人は時を同じくして、その体を麻酔薬の実験に使うよう

申し出た・・

史実では親族の者も少なからず同様の申し出をしていたが

最悪の自体を考えると・・


青州はまるで競い合うような二人の願いを固く拒んだ


しかし片隅ではほかの顔・・

医者としての本能が早雲のように湧き立っていくのを

感じていた

後戻りの出来ぬ段を下した!


『分かった!いずれは欲しい人間の身体やったのや・・』


於継は畳み掛けるように言った


『私を先にやって頂きましょうかいの・・』


このことは秘密裏に行い、口外はまかりならぬと念を押した


その日、青州は加恵に告げた


『お母はんには儂の麻酔薬は使わん・・危ないことは

全くない・・ただの眠り薬や・・

こうでもせんとあの人は納得せんのやろ・・』


於継の異常なほどの虚栄心と自尊心、そして競争心を

満たすのには最善の方策であった


予定通り二刻(4時間)ほどの眠りから覚めた

床を離れると嬉しさのあまりか「花いくさ」の勝利宣言なのか

口外せずの約を破り家人にあらましを告げていた・・


半年後、加恵の巡りがやってきた

その話を聞くと於継は訝しんだ・・


『私への試しで、もう御薬は出来上がったのと違いますのか?』


その日の前日、加恵は念入りに髪を洗った

10才になった娘の小弁に手伝わせて何ども豊かな黒髪を

濯いだ・・


床に着く前に木綿の紐で膝と足首を結び静かに

寝巻きの裾を重ねた

武士の女が自害をするときのたしなみであった・・


薬は甘草で味付けをしているが限りなく苦く

舌と唇は灼けつくように痺れた

それを水で流し込むと意識が霧のようにおぼろになった・・


眠りが湖底へと沈む間際に加恵は叫んだ


『小弁を・・小弁を・・お頼み申します!・・・』


加恵は三日間眠り続けた


うっすらと赤子のように眼を開いたが、まだ靄の中なのか

視線はあらぬ方向をさまよっていた・・


青州も同じ時間を一睡もすることなく見守っていた

その安心と喜びは如何程だったのか・・


麻酔薬はある程度の完成をみたが三日間の眠りは

体力の弱った患者には負担がかかりすぎる・・

課題はまだ残っていた・・




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その年の夏、小弁が逝った・・

なんの前触れも無くはやり病で風に連れ去られたように

静かに消えた・・


この時ばかりは、相容れぬ嫁と姑は抱き合って

泣き叫んだ


於継は次の年、孫の後を追うように散っていった・・


あの日から2年の歳月が流れていた

加恵に再びその日が訪れようとしていた・・


その頃青州は人知れず自らの身体を用いて薬の効用を

試していた


夜中の急患に起きなかったことが一、二度あった

加恵はすべてを察した・・


『御自分で薬を試しているのと違いますかのし・・』


『よう気付いたな・・かえって疲れが取れてええわい・・』


後年、青州自身も副作用で両脚が不自由になった


次の瞬間、青州が驚くほどの勢いで、普段は温厚な加恵が

諌めた


『冗談はおいて頂かして!誰も傍に寝やさんともしもの事が

あったらどないなさるんよし!人を助ける立場において

急病人があっても起きられなんだら、これまでのお名に

かかわりますやろに・・』


『うん・・』


青州は素直に頷いた


きつい言葉とは裏腹に瞳は潤んでいた・・


『なんで私を使うて下さらんのでございますかのし・・』


『前に強すぎる薬を与えてしもうたやないか・・

あれで儂は匙加減の工夫がついたよって充分なのや・・』


『充分ならなんでまだ自分のお身体で試し

なさってんのやよし・・私を使って頂かして・・』


青州は迷った・・

あの時、加恵に強い薬を与えてしまったことを

今でも後悔していた

自分への裁きがついていなかった・・


だが、この2年のあいだに確実に研究も深くなり、なによりも

当時と較べ物にならぬほどの自信が漲っていた

実施への欲望が強く背中を押した!


『ほなら、加恵・・』


妻の手を強く握った


『はい・・』


加恵の瞳から涙がとめどなく湧き上がった・・



あの日と同じように床の前に、凛とした加恵の

姿があった

麻酔薬は量も減り、粉末状になり格段に

飲みやすくなっていた


激しい即効性もなく、胸の苦しさもなく静かに

眠りの底へ沈んで行った・・


夜中に太腿を数回つねったが身体は石のように動かず

声もあげなかった・・


翌朝、加恵は静かに覚醒した


『加恵、気がついたか・・』


『はい・・』


『自分で起きられへんか・・』


青州の手を借りて半身を起こした


滋養の薬を飲み干すと、ふいに加恵は両手で眼を覆い

前へ倒れ込んだ


『どないしたんや加恵!』


『すんまへん・・』


『具合を言え!詳しく言うて欲しいんや!』


『眼が・・』


『なんやて!』


『痛みます・・頭の芯までずきんずきんいうて・・』


世界初の麻酔薬の誕生の代償として加恵は光を失った・・

この時39歳の年を重ねていた


一回目の実験の悪しき名残が両目を蝕んでいたのだ・・


この薬が病んだ人々を照らすのには後5年の季節を

見送らねばならなかった・・



現代では考えられぬことだが、その当時は女の乳房は

心臓とつながり、なおかつ魂が宿り、そこを切ることは

命を絶つと信じられていたのである


ある日二人の親子が青州のもとを訪ねてきた

大和の国の五条で藍屋を営む利兵衛とその母である


名前は勘・60才・乳岩であった・・

気丈な女でなかば諦めたのか、それとも悟りを開いたのか


『どうせ死ぬなら岩が大きくなるのを見ずに死にたいもんや!

偉い医者の手にかかって死ねるなら本望や・・』


自ら手術を望んだのだ

この時代の女としては異例のことである


文化元年(1804年)10月14日

青柿がわずかに朱く頬を染た秋である・・


この日、世界は大きく揺れた、そして加恵が失った灯火を

含んだまばゆい光が弱者たちを照らした・・


揺るぎない自信が漲った青州の手に成る手術は成功した!


世界初となる全身麻酔による手術が命をつなぎ止めた

瞬間であった・・


1846年・アメリカの医師ウイリアム・モートンがカーテルを

用いた手術を成功させる42年前の偉業であった


日の本中が新しい時代の波を感じて

喜びに満ちていた


この奇跡の薬は「通仙散(つうせんさん)」と名付けられた

仙人に通じ痛みを散らすの願いからである


しかし、またしても喜びの隙間から冷たい雪が

吹き込んでいた・・


残された妹の小陸の首に血瑠が盛り上がった・・

瑠は岩のかりそめの姿なのだ・・

そして、この部分は当時の医学では手のほどこしようが

なかった・・


加恵はこの素朴な小姑だけは心から看取りたかった・・

季節は夏であった


その部屋には産まれたばかりの次女のかめと小陸が

薄い布団に横たわっていた

かめが泣き出せば乳を与え、小陸が痛がれば手足を

優しくさすってやった・・


汗を拭くために抱き起こした身体は綿のように軽かった・・

思わず涙が流れた・・


『姉(あね)さん泣いてなさるんか・・』


『眼は見えんやのに、涙が出るのは可笑しいわのし・・』


『なんで泣いてなさるのよし・・』


『姉と呼ばれながら、なにもしてあげられなんだと思うし・・

すまんことでござりました・・』


『なにかと思ったら、なにを言いなさるやら・・私は

姉さんになんの不満もありませんえ・・』


『それでも嫁入りもさせずに、家の中の事を押し付けて

しもうて・・私はどうしても治ってほしいと心から

思ってますし・・』


ささやかな慰めは、兄である青州の夢が叶う瞬間を

見届けることができたことだけであった・・



現存する資料によると門弟は2000人

その分布も全国67の土地に及んでいる

自ら施した乳岩の手術は156例を数える


特筆すべきは彼が処方した漢方薬が廃れることなく

現在も生き続けていることだ・・


76才でこの世を離れた・・


加恵は68才で波乱の人生を終えたが、晩年はふたりで

温泉へ行ったり、家に浄瑠璃をよんで楽しむなど、穏やかで

幸せな余生を送った・・


そして今は故郷の墓所で青州の後ろに母の於継と共に

ひっそりと寄り添うように佇んでいる・・




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現在、中学校の英語教師として教鞭を執られる山口秀樹さん

の体験談である・・

昭和60年初冬の心温まる小さな物語だ・・



大学を卒業して、基金融機関の大阪支店に配属となった・・

当時、同志社大学の神学部の学生で牧師を目指していた

弟の紹介で盲人のための英語のリーディングを始めた

(指導員がテキストを読み、盲人の方がタイプライターで

日本語訳を打つ)


半年後の冬のある日リーディングを終えて自転車置き場に

向かった

遠くから、自分の自転車のかたわらに誰かが震えながら

ウサギのように小さくうずくまっているのが見えた・・


近づくと、2時間以上前に授業を終えて帰宅しているはずの

中学校2年生の盲人の女の子である


彼は驚いて声をかけた


『どないしたんや!こんなところで、寒いのに風邪ひいたら

どないするんや・・』


彼女は自分に言い聞かせるように語り出した・・


『帰ろうと思てんや・・そしたら先生がさっき「自転車の

荷台に太いひも着けたんや!」言ってたの思い出して

どんなんやろう思って触っていたらチェーンがはずれて

いるのに気がついたんや・・

直したろって思ったんやけど・・うち目が見えへんやろ・・

うまいこと直せんと・・

先生、うちのために会社で疲れてんのに日曜日には

いつも勉強教えてくれて・・

それなのにうち何にもしてあげられんから・・

くやしいな・・くやしいな・・』


夕立のように泣き出した・・


彼は胸がいっぱいになり

彼女の油で汚れた黒い手を・・

傷だらけで血が滲んで冷たくなった赤い手を

包み込むように握りしめた・・


『もうええよ・・もうええ・・おおきに・・おおきに・・

ほんまにありがとな・・』


後は涙が流れるだけであった・・


その日は初雪が舞い、心までが凍てつくような冷たい日で

あったが、彼の手に落ちる彼女の涙は氷つくことなく

太陽の雫のように心の底まで染み込んでいった・・


この自転車の周りだけは冬の季節を飛び越えて

春たちが優しく宿っていた・・






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彼はその時の感動を次のように表現している


『聖書のなかに「おのおの自分のことばかりではなく

他人のことも考えなさい」という言葉があります

私はこの言葉の尊さを、あの日の体験で

知ることができました・・

あの日の涙の温もりが私にとって終生忘れられぬ

宝となりました

翌年の4月から通信教育で英語教論の資格を取るために

勉強を始め、今は公立中学の英語教師として働いています

そのことをいちばん喜んでくれたのは

彼女だったのではないでしょうか・・』



(心の眼・・)


僕は視覚障害者と遭遇したときは気軽に声をかけてあげ

望むなら目的の場所まで同行してあげる


美談でも善意でもない、人として当たり前の行為と

思っているからだ


先日も日本一長い天神橋商店街で50代の女性に声を

かけた


『どこまで行くの?』


『おおきに!ありがとね!兄ちゃん!』


『兄ちゃんちゃうで、オッサンやで(笑)』


いつも感じることだが、その人たちは例外なく明るい・・


『どこから分かったん?』


『今やで!地下鉄の階段昇っているのが見えたから』


『ほんま、嬉しいわ~』


『一人で歩くのは怖いやろ・・』


『そりゃ怖いで・・なんせ見いへんのやから(笑)』


『それにしても、こんなに人が多いのに誰も声を

かけてくれんな・・』


『みんな忙しいんやろね・・』


忙しくはないのだ・・面倒くさい、恥ずかしいと思うからだろう

恥ずべきは弱者を目の前にして無関心で通り過ぎる

乾いた心なのだ・・


彼女の働くマッサージ店にたどり着いた


『兄ちゃん!ほんまにありがとうな!ここがうちの働いてる

店やから!サービスするから来たってや!声で兄ちゃんが

わかるから!』


最後まで笑顔を絶やさず、営業も忘れていなかった(笑)



盲人の人たちは音と匂いで目的の場所に辿り着く

喫茶店のコーヒーの香りがしたから、あと30歩!


魚屋の呼び込みの声が聞こえたから、あと50歩!


公共の場では必ず設置されている点字タイルは日本の

発明であるが、悲しむべきは、その上に無造作に置かれた

無数の放置自転車・・


劣悪の環境のなか彼らは黙々と生き抜き、何気ない小さな

事のなかにも喜びを感じる・・

心の眼が澄んでいるのだろう・・


ほんとうに大切なもの、尊い姿が見えていないのは

我々『晴眼者』のほうなのだ・・



せめて、このブログに触れた人たちは、その機会が訪れたら

二本目の『心の白い杖』を貸してあげてください・・

彼らには透明な杖ですが、かけがえのないものなのです


その時は静かに声をかけてあげてください

そして、肩か腕に手を添えさせて、ゆっくりと歩いてください






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時は流れてなどはいない・・

その日その日を正確に刻むだけなのだ


ましてや彼らが「死に急ぎ、生き急ぎ」を強いることはない・・

慌ただしく流れているのは我々人間なのだ・・








2006年7月21日 京都地裁




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外界は燃えるような夏の盛りだが、この法廷には涼やかな風

が吹いていた

そして、この空間に息づくもの総ての者達は、それぞれの

あらゆる立場を超えて泣いた・・


ある者は声を上げ・・

ある者は一筋を・・

ある者は心の片隅で・・


照らされたのは、介護苦と生活苦の果てに54歳の息子が

86歳の母親を心ならずも殺めるという哀切極まりない

事件であった


四月の初公判は、検察の異例の冒頭陳述で静かに扉を

開いた


罪状を暴く立場の検察が被告の介護を巡る孤独で過酷な

生活を・・母を慈しむ子の心情や親子の絆を・・

被告の有利となる状況を包み隠さず再現した


この場でも人々は涙した・・

検察官は何度も声を詰まらせ・・それを聞く裁判官も・・

その後も証人から同情証言が相次いで語られた



(そこに至るまで・・)


被告は、腕の良い西陣織の糊置き職人の父の弟子になるが

不況のため35歳の時に職を離れ派遣社員となる

勤務先は主に工場であった


1995年父がなくなった頃から母に認知症の兆しが現れた

深夜もトイレに1時間置きに付き添い、睡眠不足のまま

出勤するという生活が5年間も続いた


2005年には病状がさらに進行した

オニギリの包み紙まで食べたり、昼夜が逆転して徘徊を

繰り返し2度も警察に保護された


迷惑をかけられないと休職をしていた会社を辞めた


その後被告は何度も福祉社会事務所に生活保護の相談に

行くが、その都度『頑張って働いてください』と心無い氷の

対応で門前払いをされた


不正受給には深く調査もせず血税を与え続け、真に困窮を

している弱者に対しては真実の追求をおざなりにして

あっさりと突き放す


敢えて問う!愚問と知りつつ問わずにはいられない!

何のための行政なのか!誰のために福祉の看板を

掲げているのか!


最後の申請も受け入られず被告はおぼろながら

死を意識した

『死ねということか・・・』


公判でも、事件の一因として公的支援が受けられず生活が

行き詰まった要因として挙げられた


12月には失業保険も打ち切られ、カードローンも限度額に

達して家賃もデイケア(総合リハビリ)の費用も払えなくなった

生前の父の口癖『人様に迷惑をかけるな・・』の言羽が

胸を流れた

死を決意した・・


介護のため結婚もできず、親しい友人もいなかった

不幸の連鎖は続く

二人が家を出る前日にデイケアのマネージャーが音信が

途絶えたのが気になりアパートを訪れた


その日は雨で、濡れた傘が玄関に立て掛けてあった

何度も呼びかけたが返事は無かった


後に、『面会を拒否されれば、それ以上の事は何も出来ない』

と語っている


もし被告が心を開いて会うことが出来たなら

何かが変わっていただろう・・


1月31日、もう二度と触れる事のない思い出が染み付いた

部屋の掃除をして死出の旅へと向かった

所持金は僅か7千円であった


最後の親孝行で慣れ親しんだ京都の街を巡った

底冷えの古都を車椅子の母が行く・・


最後の食事は僅かに残った小銭で買った菓子パンであった

二人で分けて仲良く頬張った・・





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最後の夜は凍てつく桂川の川縁で過ごした

どのような母と子の会話があったのか・・

二人だけの最後の夜が明けた


子は泣きながら震えながら母に語りかけた


『もう生きられへんのやで・・ここで終わりやで・・』


『そうか、あかんか康晴・・いっしょやで・・お前といっしょやで・・』


『お母ちゃんごめんやで・・最後まで面倒みられんと・・

堪忍やで・・すまんな・・すまんな・・お母ちゃん・・』


『康晴はわしの子や・・わしがやったる・・』


最後の時は54年間の永遠の絆の証しなのか

どちらからともなく額と額を重ねた・・


冷たく震える手と心で母の首を包み込んだ・・

見守っていたのは降りしきる、絹糸のような細い雨だけであった・・




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認知症の患者でも時として『正常』がよみがえる

最後の母の佇まいから察するに、まさに埋もれていた

記憶が静かに目覚めたのだ


その逝き顔は菩薩のように穏やかであった・・


その後、被告は自らの首を刃物で切ったが、発見が早く

命をつなぎ止めた


このやるせない事件のなかで、夕立に雨宿りの軒先を見つけ

たような、ささやかなたったひとつの幸いであった


後に、父を亡くしてからの壮絶でひたむきな介護の記録の

メモが発見された


最後ののページには『土に返りたい・・』と記されていた


公判のなかで被告は語った


『母の介護は辛くはなかった・・老いていく母が可愛かった・・」


『母の命を奪ったが、もういちど母の子に生まれたい・・』


『この手は母の命を殺めるためにあったのか・・』



(温情・・)


東尾龍一・裁判官は静かに告げた


懲役二年六ヶ月  執行猶予三年 (求刑・懲役3年)


『昼夜の孤独で過酷な介護は言羽では言い尽くせないものが

ある・・命の尊さへの理解が被告に欠けていたとは

断定できない・・』


『命を奪った結果は取り返しがつかず重大だが、社会で

生活をするなかで冥福を祈らせるのが相当である・・』


冷静でなければならない裁判官の胸には様々な思いが

溢れ何度も言羽が途切れたが、涙だけは静かに

流れた・・


『献身的な介護を受け、最後には思い出の京都を案内

してもらい、被告には感謝こそすれ決して恨みなど抱かず

厳罰も望んでいないだろう・・』

と母の心情を推察した


法廷にはせせらぎのような啜り泣きが響き渡っていた

検察官・弁護人・刑務官・傍聴人

皆ひとしく涙を分けあった


裁判官は行政の闇にも苦言を呈した

このような事件が二度と起こらぬように法や社会の仕組み

の早急なる改善・改革を訴えた


そして、最後に声を振り絞り優しく被告に言羽を送った


『痛ましく、哀しい事件でした・・今後あなた自身は

生き抜いて、絶対に自分自身を殺める事のないよう

母のことを祈り母のためにも幸せに生きてください・・』


被告は公判のさなか、眼鏡をはずし何度も右腕で溢れる

思いを拭った・・


『ありがとうございました・・』と陽だまりの判決に

深々と頭を下げた


弁護人には『温情ある判決をいただき感謝をしています・・

なるべく早く仕事をさがして母の冥福を祈りたいと

思います・・』と語った



(思うこと・・)


『花泥棒は許される・・』という例えがある

美しい花々を愛するあまり花を手折らせる


姿(かたち)は歪んでしまったが彼は確かに母を看取り

そして見送った・・


『オニギリが食べたいと』とメモを残して人知れず

亡くなった人がいる


二人の子供には不自由をさせず、自分はパンの耳だけで

餓えをしのぎ亡くなった母がいる


飽食の日本で世界で、広い視野での『飢餓』で命を絶つ人々

が増えている

それは『心の干ばつ』から生じた飢えも重きをなしている


貧しい人々が絶対多数の時代は『人情』が物と心を補った

底辺のなかで互いに助け合い励ましあった

その結果、理不尽な飢えで亡くなる人は少なかった


そして今、有り余る物が溢れるこの時代に年間数万人の

人々が自ら命を断っている

不思議なものである・・



家族とは、親子とは、絆とは、命とは・・


人は時として永遠を求めるが、あらゆる命には限りがある

与えられた命の砂時計が尽きるとき、その傍らには

かけがえのない愛する家族が居て欲しい・・


意識の有無にかかわらず、その瞬間(とき)はささやかな

感謝と穏やかな安堵を最後にかみしめながら

この世を離れることが出来るだろう・・



(裁きとは・・)


今日も様々な裁きが、都会や地方の様々な土地で下される


罪を犯すのも裁くのも機械ではなく我々人間なのだ

『六法全書』では埋めることが出来ない隙間がある・・



『春まで・・』


被告は50代の男性で不況のために職を解雇された

仕事も見つからず住居も失った

ホームレスに近い生活をしていた

性格は真面目で温厚であったが、空腹のため心ならずも

小さな窃盗をしてしまう


判決は罪の重さに比して意外にも重いものであった

傍聴人も首を捻ったが、次の言羽で心が和らいだ


『この寒い季節に住む場所を持たないあなたにとって

仕事を探すのは大変でしょう

春までは然るべき反省の場で身体も心も温めて

仕事を探す準備をしてください・・』



『その重さ・・』


被告は20代の男性で素行が悪く暴力事件などの罪を

繰り返していた

反省と言う文字がこの男には存在しなかった


妻は面会にも訪れなかった


裁判官は刑務官に目配せをした

扉を開けると女性刑務官が薄桃色にくるまれた『命』を

抱いて被告の前に歩み寄った


被告は何が起きたのか理解が出来なかった


裁判官は諭すように被告に呼びかけた


『その赤ちゃんは、あなたの初めての子供です・・

女の子です・・抱いてあげなさい・・』


被告は動揺しながら震えながらその子を抱いた


『悪事を繰り返すあなたを見捨てることなく、あなたの妻は

ひっそりと初めての子を産んだのです

どれほど心細かったことか・・

命の重さはどうですか・・かけがえのない重さを

感じるでしょう・・同時にあなたが犯した罪の重さも

感じてください

この子がお嫁に行くその日までは、何ひとつ娘に恥じる

事のない立派な父親になることを誓ってください・・』


泣き出した赤子の声と父親となった男の号泣が

法廷に木霊した

春はそこまで近づいていた・・



法を司る者は罪を裁くとともに、世情も

そして自らも裁いているのだろう・・





遠い昔、日本人300万人を超える尊い命を奪った愚かで

忌まわしい太平洋戦争があった・・

敗戦濃厚を知りながら軍の上層部は、あの狂気の

特別攻撃隊、・別名「神風特攻隊」の編成をする


陸軍の特攻基地は鹿児島県の知覧(ちらん)である

薩摩の「小京都」と呼ばれ武家屋敷が静かに点在する

風光明媚な土地である


ここに隊員から「特攻の心の母」と慕われた「鳥浜トメ」と

という灯火(ともしび)が存在した・・

軍の指定食堂を営んでいた




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簡単な略歴を記す


1902(明治35)

貧しい母子家庭に私生児として誕生する


1910(明治43)

八歳の折、枕崎に「子守奉公」に出される

「おしん」の世界を想像するに難くない

どのような辛い日々を送ったことか・・


1922(大正11)

トメ二十歳・結婚の許しのないまま鳥浜義勇(よしとし)と

新居を持つ・義勇は銀行員から「パイロットになるより

難しい」と言われたバスの運転手試験に合格して

南薩鉄道の社員となる

父は小学校の校長も勤めたことがある志布志の旧家の

出である


高給であるが、大半が弟たちのために実家に送金された

トメはさつま揚げなどの行商をして家計を支えた

このことが「人情を知る」良い機会となる


1929(昭和4)

トメ二十七歳・それまでの貯えを元に知覧の商店街に

「富屋食堂」を開く


1942(昭和17)

トメ四十歳・富屋が軍指定の食堂となる


以下略


1992(平成4)

四月二十二日・89歳十ヶ月の天寿を全うして

静かに永眠する・・



トメを知る者は一様に「慈愛と献身とそして癒しの人

だった・・」と 語る

手持ちのお金が無いときでも着物を売って

若い隊員達の空腹を満たしてあげる

そんな性情の女性であった・・


トメは当時女学生であった長女の美阿子と次女の礼子の

三人で数知れぬ若い隊員達を暖かく受け入れ、そして

送り出した

トメは自分と縁(ゆかり)のあった総ての人達の思い出を

細かく律儀に書き残している


そのなかで、僕が胸を打たれた三つの物語があります

長い語りになりそうですが聞いてください・・



「命の引き継ぎ・・」

勝又勝雄少尉 二十歳


豪放磊落(ごうほうらいらく)で酒豪の絵に描いたような

日本男児である

見習い士官として教育を受け卒業して行った

彼の名前は知覧の町民のあいだでは「強い男」として

知れ渡っていた


町の運動会があり、飛行学校の生徒達も参加していた

勝又はどの種目でもその強さを見せ付けていた

最後の騎馬戦は圧巻で向かうところ敵無しの活躍で

あった


その勝又が一年振りにトメの前に現れた、開口一番

「小母ちゃん、今度は短いよ、すぐにお別れだ!

なにしろ特攻だからね!だから飲み収めだ!」

トメの心は痛んだ・・思わずぐちが出た

「多くの若い人達を犠牲にして、それで日本は

勝てるのかね・・」


勝又は笑いながら

「俺は勝又の勝雄だよ!勝つ、勝つ、こんな縁起の良い

名前はないだろう!こんな目出度い名前の俺が出撃

するんだから負けるわけがないだろう!」


勝又は貴重な配給の酒と知ってか知らずか

トメが注いでくれるたびに「有難う」と繰り返していた

勝又は最後にトメに言い残した


「小母ちゃん、元気で長生きしてくれよ、人生五十年て

言うけれど、俺なんかその半分にもならない二十年で

あの世に行っちゃうんだからな・・

あとの三十年は使ってないわけだ、だから俺の余した

三十年分の寿命は小母ちゃんにあげるから、人より

三十年よけいに生きてくれよ、きっとだよ!」


トメは手を振りながら去っていった勝又の最後の姿を

生涯忘れることがなかった・・


トメはその後の人生で二度、死線をさまよう体験をしたが

不思議と生き延びた

トメは終生、勝又が分けてくれた命の賜物(たまもの)と

感謝をしていた・・




「坊やの母へ・・・」

河井秀男伍長 二十歳


東京出身で、そのあどけない容貌から皆から「坊や」と

呼ばれて可愛がられていた

実母とは事情があり幼い頃に生き別れている

そして今、永遠の別れが迫っていた・・


河井はトメに頼んだ・・

「小母ちゃん俺が逝ったら、俺の実の母親に一言知らせて

やってくれよ」と母の住所を渡した


泣きながら見送りから戻ったトメは急いで生母に手紙を

書こうしたが、紙が無かった・・

そこで便箋の替わりに富屋の帳簿を一枚切り取った

母に心を残す子と、子の死を突然に知る母・・


トメが泣きながら毛筆でしたためた文字は激しく

揺れていた


原文のまま


「秀男さんのほんとうの母上様へ

秀男さんの出撃をお知らせてあげます

六月八日午前八時でしたからよろこんで下さい。

元気で敵艦へ突入されましたから

まい晩私を母の如くあまえて

私も子供の如く 坊や坊やと世話致して

やりましたから安心下さい

寂しいことは一つもなく 思ふままにしてやりました。

秀男さんが 自分が死んだならば ぜひ生みの母へ

一筆知らせてくれとの願ひでした。

お元気でいて下さい

六月八日を忘れずにいて下さい

河井秀男さまの実の母上様へ・・」



「ホタル帰る・・・」

宮川三郎少尉 二十歳


宮川が富屋食堂に現れたのは五月の半ばである

六月の出撃まではかなりの間があったので鳥浜家と

触れ合う時間が多かった

次女の礼子を特に可愛がった


長女の美阿子が「礼子ちゃん、大きくなったら宮川さんの

お嫁さんになればいいのに」とからかうほどであった

宮川の印象は

「雪国の人らしく、色白でハンサムだが、どこか淋しそうな

人だった・・」と後に回想している


宮川は白眉の秀才で現存する成績簿はほとんどが「甲」で

埋め尽くされている

「立川飛行機製作所」に入社して技術者となる

昭和18年の春、早稲田の理工学部と慶應の工学部を受験

する

純粋に航空工学の研究に夢を馳せていたのである


だが、時代の黒い波は航空兵への道へと押し流した

出撃は六月六日と決まった

皮肉にも前日は宮川の二十歳の誕生日であった・・

トメは心づくしの手料理で「最後の記念日」を祝ってやった


食堂の横に小さいが透明で澄んだ小川が流れている

ささやかな藤棚があり、ベンチがしつらえてある

トメと娘二人、宮川と親友の滝本の五人はこの場所で

最後の別れを惜しんだ


灯火管制のため、辺りは漆黒の闇である

早盛りの源氏ボタルが鮮やかな光の尾を引いて

飛び交っている

ふいに宮川の声が聞こえた


「小母ちゃん、俺、心残りののことは何にもないけど死んだら

また小母ちゃんのところへ帰ってきたい、なあ滝本」

「うん」と滝本の声がした


「小母ちゃん、俺達帰って来てもいいかい」

トメは答えた

「いいわよ、どうぞ帰っていらっしゃい、喜んで待って

いるわよ・・」


その時、一匹のホタルが川を離れてすーっと藤棚に止まった

宮川は小さく叫んだ

「そうだ、このホタルだ、俺、このホタルになって帰ってくるよ」


「ああ、帰っていらっしゃい・・」

「俺達二人だよ、俺と滝本で二匹のホタルになって小母ちゃん

のところへ帰ってくるからね、二匹のホタルが富屋の中へ

入って来たら、それは俺達だから、追っ払ったりしちゃ

だめだよ小母ちゃん」


宮川は言葉を継いだ

「それじゃ九時だ、明日の晩の今頃に帰って来るから引き戸

を少しだけ開けておいてくれよ」

「わかった、そうしておくよ・・」


「俺達が帰ってきたら「同期の桜」をみんなで歌ってくれよ」

「わかった、歌うからね・・」


「それじゃ小母ちゃん、お元気で」

「・・・・・・・・・」

トメは胸が詰まり別れの言葉が出て来ない

明日には死に行く人を前にして送る言葉など存在するのか・・


礼子は「俺だと思ってくれ」と宮川から航空時計と万年筆を

渡された


その日は激しい雨だった

夕刻に出撃したはずの滝本が富屋に現れた


トメは驚いた

「まあ滝本さん、よくまあご無事で!」

「・・・・・・」

「宮川さんは?」

「・・・・・・」

滝本は無言で首を揺らした・・


滝本の話では雨のために視界は最悪で、沖縄まで飛行

するのは不可能と判断した

宮川に「引き返そうと」合図を送った


宮川は「お前は帰れ、俺は行く」と身振りで示した

滝本は何度も説得の合図を送ったが宮川の意思は

固かった

最後に別れの合図を送り、単機戻って来たのである


夜の帳が下りた

約束通り、店の引き戸を少しだけ開けておいた

二人の娘はそれっきりホタルのことは忘れていた

ラジオが九時を告げニュースが流れた

それをきっかけにホタルのことを思い出し

店に戻った・・


まさにその時、一匹(ひとり)の大きな源氏ボタルが光の尾を

引きながら店に入って来たのだ!

二人は同時に気が付き、大声でトメを呼んだ!


「お母さーん、宮川さんよ、宮川さんが帰ってきたわよ!」

奥から出てきたトメは娘達の指差す方を見た

灯りを落とした天井の梁に線香花火の最後の輝きの

ような光を放っているホタルがいた


トメは心のなかで声をかけた

「宮川さん、本当に帰って来たんだ、お帰りなさい・・」

いつの間にか滝本をはじめ、店に残っていた隊員達も

集まり天井を見上げていた


薄闇のなかで声がした

「歌おう!」

誰かが答えた

「歌うぞ!」

男も女も肩を組み、泣きながら、叫びながら「同期の桜」を歌

いはじめた・・

涙の歌声はいつ果てるともなく続いていた


ホタルはまるで耳を傾けるように、じっとその場に

留まっていた・・・


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今日も世界の何処かで醜い争いが続いている

そしてまた哀しい物語が生まれる・・

それに到るまでの要因はあろうが「戦争」に意味はない

小さな誤解と欲から生じた

「巨大で愚かな勘違い」がもたらした悪夢にほかならない


何時も思うことがある

あの戦争が存在せず彼の人々が命を全うして様々な

分野で活躍していたら「この国の姿(かたち)」は大きく

変わっていただろうと・・


それにしても彼らの「死生観」はどこから生まれているのか

明日には死を迎える者の佇まいが露ほど感じられない

「異常のなかの平常心」ほど難しいものはない

あの時代にはまだ「武士道」が生きていて「凛とした強さ」の

若者が育ったのだろうか・・


日本人は「あきらめの民族」である

戦争や災害で完膚なきまで打ちのめされても、

悲しむだけ悲しんだら、後は明日に目を向けて歩き出す


あらゆる復興・再生の速度は世界に類をみない





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当時の「富屋食堂」と、ホタル人「宮川三郎少尉」の遺影です

そして、知覧特攻基地の名残を見つめる

晩年のトメさんの姿です

その眼差しの向うにあるものは・・・



あのホタルが「富屋食堂」を訪れてから六十六回目の

夏が静かに通り過ぎようとしています・・・  (合掌)




このブログの参考資料として

音楽評論家  「石井宏」氏

トメさんの次女 「赤羽礼子」氏

の共著である草思社発行の「ホタル帰る」より

引用・抜粋をさせていただきました