6月25日に
63歳の誕生日を迎えました。
昭和34年6月25日、考えて見れば、戦後わずか14年目で生まれました。
あの長嶋茂雄選手の天覧試合のサヨナラホームランの日です!
高度経済成長と共に育ち、戦争の影響などほとんど感じることもなく、戦後教育の真っただ中を、平和を享受して生きて参りました。
それでも小学生の時に、上野などに行くと、軍服を着た方がハーモニカを吹いている姿を目にしました。前に鍋を置いて、お恵みを受けています。傷痍軍人ということでした。包帯を巻き、ケガで働けないから、お恵みを得ているのだと…しかし、私の父は、ほとんどの傷痍軍人は偽物だと憤っていました。私が小学生に上がる頃は、戦後20年を過ぎていますから、ほとんどそうだったのかも知れません。でも戦争の傷跡を感じることなど、傷痍軍人さんを見ることぐらいしかなかった…それだけ戦後復興ってすごかったのだと思います。
平和だったはずの現代でも、ロシアはいきなりウクライナに侵攻しました。なんで…元々同じ国だったのに…。同じ国民だった方々を平気で殺せるの?
しかし、良く考えれば、75年前の日本は、今のウクライナの比ではないくらいに、何もかもが破壊され、多くの方々が亡くなりました。軍人、軍属、民間人含めて310万人を超える方々が亡くなっているわけです。
私の父は大正11(1922)年生まれで海軍の軍人でした。終戦は23歳になる年です。予科練(甲飛六期)の同期の方は82%強の方が戦死されています。母親は昭和4(1929)年生まれ。終戦は16歳になる年です。一晩で10万人が亡くなった東京大空襲で、荒川区町屋の自宅を焼け出されました。
いつ死んでもおかしくない状況だった両親。そう考えると私の存在そのものが奇跡のようなものです。
ですから、最近良く自分が生まれてきた意味を考えることが多くなりました。あと何年生きられるのか……俺は自分がこの世に生を受けた意味に気が付き、残りの人生をそのために使えるのか?
ということを考えている中で、誕生日を迎えた当日に参加した「いたばし倫理法人会」で致知出版の藤尾佳子取締役の講話を伺いました。
講話の中で藤尾講師が、倫理法人会の万人幸福の栞から「最も大切な、我が命の根源は両親である」「親を通して己の命の根源にさかのぼれば、そこに神仏にかえる」という一節を引用されました。
ドキっとしました。私の命は奇跡的に生き永らえた両親によって繋がれた命。その命のバトンを引き継いでくれた子供たち。
その子供たちに「あなたが親父で良かった!」と、言ってもらえるとしたら、やはり、それは、今までは流されるまま生きてきたけど、ここで自分が生まれてきた意味に気が付いて、それを自分の人生のライフワークとして追及すること。
それが出来れば、「親父頑張ったじゃん」と子供たちに行ってもらえる。そんな気が強くしました!
そう言ってもらえる父親に……なれるか? まだ間に合うか?
まだ63歳だけど、本当に身体が動いて、何とかなるのは、ここから10年でしょう。
この10年は本当に大切な時間……
頑張ります!! 肝に銘じて生きていきます。
どうぞ皆さま、ご指導ください!m(_ _)m (^O^)/
中村 崇 拝
どうか皆さま、これからもご指導ご鞭撻をいただきたく、宜しくお願い申し上げます。
中村 崇 拝