土曜日、持病のため病院に定期検診へ行ってきました。
エレベーターで二階のボタンを押し、扉が開くとそこは工事中…
そうだ、移動すると先月言ってたな
移動といったも階が移動しただけで、同じビルの五階になっていました。
よく見るとエレベーター内のプレートもちゃんと五階に変わってました。
ゴカイだったw
五階の新しいフロアーは雰囲気が変わっていました。
でも
この医院が好きなのは雰囲気だったのに。
アクアリウムがあり、生け花があり、給水器があり、待合室の椅子その配置も美しかった。
長患いの経験上、こんなところまで気を配れる先生ならば、絶対いい先生に違いない、そうずっと考えてました。
若い頃、探偵学校に通っていた頃、会社の調査がありました。
四季報や業績などを調べるのはもちろん、探偵独自の調査のやり方もあります。
それは、通勤路を歩くことです。
大きな会社ならば、大概の従業員がその道を通る場所を、一緒に歩くのです。
すると
「〇〇課長、いやらしいのよ」
とか
「今度のボーナス、下がったよ」
とか、生の情報が入ってきます。
また、会社の中に入れるのならば、階段や廊下をひと回りします。
明かりが間引きされていて暗かったり、清掃がいきどどいていない会社なら、例え業績が良くてもそれなりの会社だと言う判定になります。
探偵なるが故に「隠れた情報」を探るのが仕事だからです。
医院ならば、患者さんのふりをして朝から並びます。
人は何人並んでいるか、噂話をしていないか等々。
実際、自分が心筋梗塞になる直前に訪れたある病院でのこと。
そこはかなり古くからやっている評価も高い個人の循環器専門の病院でした。
朝早くから並んでいると、突然
「〇〇という病院があるよ」
と話しかけてくる人がいました。
話を聞くと、どうやらここよりそちらがいい、というような内容でした。
どうやら、というのはこの病院の待っている人に言うものかどうか迷っている様子で、表現が曖昧だったのです。
はじめての病院だったので、自分なりに調べた病院なので、そんなことは気にもかけずに、今来た病院で検査しました。
中は古く、検査用の機械もかなり年季が入ってました。
心臓の脈絡をはかるのに、踏み台昇降をしました。
そして
循環器系には問題なし、との診断結果が出ました。
でも息苦しさは時には歩けなくなるほどの症状がありましたが、とりあえず循環器ではないというので、耳鼻咽喉科の検査を今度どこかで受けようと思っていました。
しかし
2ヶ月後、夜中に突然心筋梗塞になりました。
幸い処置が早かったため一命はとりとめたものの、心筋の1/3は壊死したままです。
心筋は壊死すると決して再生しない細胞なのです。
当時、手術後に病名を知りまさかと思いました。
なぜならその病気なら、つい最近お墨付きをいただきたばかりだったのに。
話しかけて来てくれた人は正しく、親切心から声をかけてくれていたのでした。
これからは、疑問があれば納得するまでセカンドオピニオンを受ける事にしました。
そして、評価を人任せにせずに、肌で感じる大切さも理解しました。
不幸中の幸いですが、今のところ後遺症などはいっさいなく、日常生活を送っています。
今の医院は探偵の経験を加味しても、かなりの高得点です。
五階の新しいフロアーの雰囲気は、かつてどこかで見たことがあるような懐かしい感じがしました。
柱がウネウネと曲線上に曲がり、枝のような感じで別れて天井まで伸びています。
部屋は白一色です。
「そうだ、これは生命の樹だ!」
70年代にみた万博の太陽の塔の生命の樹に似ています。
診察の時に先生に尋ねてみると、やはりそれをイメージしたということでした。
ちなみに先月までの二階には弟さんの皮膚科が入るそうです。
きっとそこも人気の医院になることでしょう。
話は変わりますが
虫の音が声に聞こえるのは、もしかしたら自分の前世は虫だったのかもしれない、と妄想しました。
そうでなければ、虫のほうが前世人間だったのかもしれないとも…
なんとも神秘的な妄想ですが、前世ではなく、進化という言葉ならどうでしょう。
人間も虫も、もとは単細胞が進化して出来た生き物とされていています。
確かに枝分かれはしましたが、大昔の祖先は同じです。
だから、前世が虫(元は同じ)、ということもあながち理由がないことでもない気がしてきました。
それならば、全ての人間が虫の音を声として理解できるのではないか、と疑問が湧いてきます。
でも、世界広しといえど虫の音を声として理解できるのは日本人とごく少数の海洋民族だと言われています。
そこでまたまた妄想ですが、
日本人はアカシックレコードのSP(護衛官)なんではないでしょうか。
古の記憶をずっと守り続ける民族だと思うのです。
例えば
「行」という漢字は、「ぎょう(行列)」、「こう(行進)」、「あん(行灯)」という音読みがあります。
しかし
漢字文化の輸入先の中国には「行」は「こう」としか発音しないのです。
理由は、中国は征服すると言葉を全て変えてしまうからです。
でも
日本は、その時々の輸入してきた中国王朝のままの読み方を取り入れてきて変えることがなかったので、色々な読み方が存在するのです。
だから、古代中国の歴史、文化が自国の中国には存在しなくても、日本にはそのまま保持されているのです。
感情や交友などの「形にならないもの」もたぶん「昔のままの状態で保持」されているかこそ、虫との意思疎通?が可能だと思うのです。
岡本太郎さんは、縄文土器をみて感動し、生命の樹を作ったのも、過去を保持する能力があった日本人だからだと思えるのです。
そして
「昔のものを保持する癖」が廃墟に感傷的になったりするのでしょうね。
でも
同時に、廃屋は老朽化により街全体を「危険な場所」にしてしまっているのもいなめません。
来月から来院のだびに生命の樹を見ることで、愉しい妄想の待ち時間になることは確実です。
それなりの「時代が付いた」年寄りにしかわからない愉しい妄想です。
さて
「たのしい」には「楽しい」と「愉しい」の二つの漢字があります。
調べたら
「楽しい、楽しむ」とは、
与えられたことに対して楽しく過ごすこと。すでにあるものや設定された枠の中で楽しむ感覚です。
「愉しい、愉しむ」とは、
自分自身の気持ちや想いから感じ生まれる楽しい状態のこと。そして、自分の意識、気持ち、考え方次第でどうにでも変化できる。仏教にも通じる考え方です
とありました。
つまり、「楽しむ」は「受動的」で、「愉しむ」は「能動的」なことなのです。
「たのしいもの」をみたら「楽しい」、「たのしくないもの」でも「愉しい」と感じれるということです。
これで思い出したのが『主人公』という話です。
「無門関」瑞巌和尚のエピソードに、瑞巌和尚は、いつも坐禅をしながら「主人公!」と自分に呼びかけ、「はい」と答えた後、「目を覚ましているか」「人に騙されるなよ」と呼びかけます。
そのたびに「はいはい」と答えた、といいます。
そしてまたこんな詩も思いました。
『倚りかからず』 茨木のり子
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
学生時代に読んだ時は、心に引っかからなかったこの詩なのに、いまの年になって「その通り!」と思えるとても腑に落ちる詩になりました。
結局、心筋梗塞のことも無闇に他人に寄りかかった自分が不注意だったのでしょう。
色々と真相がわかってくるなかで、「ながく生ること」も悪くないと思っています。
言っても「それくらい」だけれど
まだまだ「これから」が愉しみです。
★追記★
日曜日は父の日でした。
食事をして、上下の服を子どもたちからもらいました。
服をもらって幸服(しあわせ)な気分でした。
コーディネートはカジュアルフォーマル風だと言うことですが、まず自分なら選ばないような感じの服でした。
自分のイメージとしたは「アウトレイジ」のような感じです。
今度のオフ会に着ていって自慢して嫌われてこようかと思いますw
またしても
同じ話に
子供自慢
達者自慢に
古き洒落いふ
これは自作の「初老七首」のうちの一首で、江戸時代の俳人横井也有(やゆう)の「老人七首」のオマージュです。
「老人七首」の中では、「子供」ではなく「孫」になっています。
https://youtu.be/N5MxAA_Pns4?si=sEDjXk8pOzqFmRfx
マゴにふにゃふにゃ
https://youtu.be/ASkbzw95d9g?si=3L6RPsCr5jzZdNrr
ヌコにふにゃふにゃ
なんか、「ヌコ」と「マゴ」って、字もやる事も似てる…
長々、お読みいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m