鬼怒川、宇都宮の旅 ③ | パーマン三号のブログ

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11:05
【高龗神社】へ到着。
高龗神は龍神、闇龗神は蛇神と言われたり、どちらも同じ「龍蛇神」とされていたりします。

鎮守の森の中にある「良い気」に満ちている神社でした。





拝殿には龍の彫り物が4つありました。







境内には精霊の樹齢600年を超える「大杉胎内くぐり」が設置されているはずでしたが、ありませんでした、残念。

代わりに茅の輪くぐりをしてきました。







狛犬さんもいい感じに苔むしてました。





12:01
【長岡百穴】へ到着。
ここで少し趣旨をかえて「古墳」を見学しました。





ここも実は「鬼」に関係あります。


以前「吉野百穴」を見ましたが、こちらはかなり小ぶりです。

長岡百穴はやや位の低い人々を埋葬したようです。

一穴一穴に石仏が掘ってあり、弘法大師の作だど言われています。








ここで…

「百々目鬼(どどめき)」と言う鬼を知っていますか?

水木しげるさんはこの鬼から「ヒャク目」と言う妖怪を作ったそうです。

「百々目鬼」は百の目をもつ鬼と言う説と、百の鬼の「頭目(親分子分)」と言う説があり、この百の鬼の住んでいた場所が、ここ長岡百穴だとも言われています。

さらに最近聞いた怪談師村上ロックさんの「捧げ物」に出てくる神樣?はこの「百々目鬼」ではないか、とコメントがありました。

https://youtu.be/KhLbU_GB9Dk?si=4ZlN6oVl_wudsr6R


しかし色々な神樣がいるけれど「等価交換」をする神樣には、お願いしづらいですね。

そもそも神樣は人間の願い事を「叶える」ために存在しているわけではなく、人間の創造主なわけで、例えば、子供に

「テストで満点取ったら、お金をあげる」

と言う親子の交換条件のような関係だと思えば納得します。
  
「なんだよ、こんなにたくさんお賽銭あげたのに、何も叶えてくれないじゃないか」

そんなことを言っているといつかは

「それじゃ、まだ足りない、等価交換させてもらうよ」

と言われそうですね。

願いが叶っても、叶わなくても、何事にも感謝しかありません。


このあと、宇都宮へ行くのですが、宇都宮の【二荒山神社】の近くにこの「百々目鬼」が出没したらしく、現在、二荒山神社の横にある通りの「百々目鬼通り」の由来になっています。

百々目鬼については、このあと二荒山神社へ行った時に詳しく書きます。


さて、時間もお昼、お腹が空いてきたので、この前にテレビのオモウマでやっていたお店へ行きました。

12:35
【御食事処 藤】へ到着。
開店より一時間ほどたっているので、ひと回りして並んでいる人もいませんでした。

基本、御夫婦でやられているお店のようで、ほんわかした雰囲気が伝わってきました。

ありました、デカ盛りメニューが。

オムライス、カツカレー…自分はカツ丼にしました。

並んではいませんでしたが、店内はそこそこ混んでいて、結局30分くらいでカツ丼が来ました。

ご飯は一升くらいあるのかなぁ、すり鉢の大きい器で出てきた時は、見ただけでお腹いっぱいになってしまいました。

頼んだ後で後悔したものの、もし普通に頼んでいても後悔したでしょう、なんたってここのウリはデカ盛りなんですから。





結局半分以下しか食べれずにテイクアウトしました。





14:15
【二荒山神社】へ到着。
デカ盛り店でかなりゆっくりして、大幅な時間ロス、フードファイターではなく、妖怪ハンターの自分としてはこちらの方が後悔しました。



ここは先ほども書いた「百々目鬼」がかつて徘徊していた場所です。

百々目鬼とは

『百目鬼(どうめき)の伝説』
平安時代の中頃の話。ある日の夕方、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が田川の方へ歩いて行くと、白髪の老人が姿を現し、大曽の北西にある兎田という馬捨場(うますてば)で待っていてほしいと告げる。

その場所でしばらく待っていると、大きな鬼が現れ、死馬にくらいついた。

その様子を見ていた秀郷は、弓を引き絞り、鬼の胸板を射通した。

逃げる鬼を追っていくと明神山(みょうじんやま)の後方で倒れ伏したが、体からは炎が吹き出し、口からは毒気を吐き出していたので、とても近寄れる状態ではなかった。

翌朝、秀郷がその場所に行ってみると、鬼の姿はなく、焼け野原が広がるのみであった。

それから400年ほどが過ぎ、塙田村の本願寺に住職が定住すると、火事がおこったり、怪我人がでたりする事件が相次いだ。

そのため住職をおかない時代もあったが、知徳上人(ちとくしょうにん)という住職がこの地を訪れ、説教をはじめたところ、毎日姿を見せる女性がいる。

上人がその女性の正体を見抜いて問いただすと、その昔、自分は秀郷に退治された鬼で、長岡(ながおか)の岩山で傷の治療をしていたが、傷が癒えたので、昔の力を取り戻そうと毎日この地にやってきては流した血を吸い取っていた。

寺に住職がいると邪魔なので、火をつけたり人を傷つけたりしていた。
しかし、説教を聞いているうちに上人を寺から追い出せなくなった。

その後、鬼は角を折り、指の爪を取って寺に置いていった。

そして、人々はこの付近を百目鬼(どうめき)と呼ぶようになった。本願寺には次のような話も伝わる。

昔、顔に100ほどの「ほくろ」がある大男が長岡に住んでいた。その風貌から人々は百目鬼と呼び、近寄るものはいなかった。

孤立した男は、村の田畑に危害を加えるようになり、ますます村人から恐れられた。

その後、本願寺に通って仏門に帰依したところ顔の「ほくろ」が消え、鬼のような爪も抜け落ちた。

他にも百目鬼は、100匹の鬼の頭目であったという話も伝わる。

藤原秀郷は、平将門を倒した人物であるが、『俵藤太伝説』では三上山(みかみやま)の大百足を退治した人物としても知られている。

武士(もののふ)の象徴として認知されていたのだろう。

そして、舞台となる大曽は県庁の東側一帯の地域で、明神山は宇都宮二荒山神社、長岡の岩山とは長岡百穴のことである。

また、県庁前通りから一本南側の通りは「百目鬼通り」と呼ばれ、百目鬼の伝説をしのばせる。

官公庁やビジネス街に近いことから居酒屋などが軒を連ね、賑わっていた時期もあったという。

県庁前通りには、つい最近まで本願寺も存在した。

栃木県の民芸品には、瓢箪をつかった「ふくべ細工」があるが、今でも、「百目鬼」の面を制作している。

この「百目鬼」の話をモチーフに、魔除けの面として販売されている(SNSより)

神社の巫女さんに百々目鬼の由来の何かあるのかを聞いてみたところ、ここには何も無いとのことでした。

意気消沈している自分に、独特な顔の四角い珍しい狛犬さんがそれを忘れさせてくれました。





15:34
【高椅神社】へ到着。



「たかはし」と読みます。
池が有名な神社なのですが、見つかりません。

それもそのはず境内より少し離れた場所にあり、かなりの大きさの池でした。

ただ、山門には羽根の生えた龍が極彩色で彫られていて、日光東照宮を彷彿しました。









このあとまだまわりたい場所があるので急ぎます。

15:55
【船玉神社】へ到着。

神社には古墳が近くにあると調べていたのですが、神社より先にそちらへ着きました。



かつては古墳の上に社殿がありましたが地震のため崩れてしまい、いまは移動して新しい社殿が建っています。

古墳のなかにも入れるようでしたが、今は立入禁止になってしまいっています。



そろそろ4時、社務所もしまってしまう時間になっています。

案の定、プレハブの社務所のカーテンはしまっていました。

でも、ここで参拝したかった【七鬼神社】にははいれました。





鬼怒川より少し離れていますが、こちらも「七鬼」なのは何か繋がりがあるのかもしれません。

七鬼神社の由来は不明です。

本日は天気もよく、夕方でも日差しが有って暖かいのか、ひとりのご老人がベンチで日向ぼっこをしています。

ご近所さんなら七鬼神社のことも何か知っているかもしれないと思ったのですが、これからまわる場所もあるので声をかけるのを控えていたら、向こうの人から声をかけてもらえましまた。

古墳に小さな頃に入ったことや、神社の賽銭泥棒のことなどを話してくれました。

そして、話の中で御朱印の話になると、なんとこのご老人が参拝者に御朱印をくれる方だったのです。

その後も、鍵を開けて本殿をみせてくれたり、七鬼神社の祠の中の御本尊まで扉を開けて見せてくれました。

御本尊の絵には、同じ顔をした怖くない七鬼が描かれていました。

そしてご老人は

「自分が小さな頃に見た七鬼の絵には、もっと優しい鬼が描かれていた」

と話してくれました。

そういえば

平将門には七人の影武者がいたと言われています。

七人は北斗七星の七からとったそうですが、もしかしたら「七鬼」はこの「七人の影武者」のことではないかとひらめきました。

「鬼」は元々「穏」からきていて「影」のことだと聞いたことがあります。

貴重な話にと貴重なものの数々を見せてもらって、かれこれ小一時間が過ぎてしまい、この次の目的地へは五時をまわってしまいそうです。

17:25
【安楽寺】へ到着。



五時に閉門とあったので、お寺さんは門を閉めてしまわれると入れなくなりますが、社務所はしまっていましたが境内にははいれました。

ここで

宇都宮で有名な伝説は、百々目鬼ばかりではありません。

ひとつは「おきゃらさん」もうひとつは「累ヶ淵」です。

ここ安楽寺にはこの「おきゃらさんのお墓」があるのです。


むかし、常陸の国、今の茨城県水海道(みつかいどう)のあたりで、何日も何日も雨が降り続いた年があったと。

三月初めのころから降り始めて、四月になっても降り止まん。

鬼怒川べりでは、いまにも堤防がくずれ、にごった川の流れに押し流されそうになっている村があった。

村人たちは、恐れうろたえ、誰言うともなく、「人柱をたてて、竜神さまの怒りを鎮めないと村が流される」
という声が広まったと。

人柱というのは、誰かを犠牲にして川に沈め、神さまに祈ることだ。

しかし、人柱にする人がいない。そりゃそうだ。誰しも我が子をいけにえにはしたくないからな。

すると誰かが、

「おきゃらがいい、おきゃらを人柱にしよう」

と言い出した。

おきゃら(お伽羅)というのは、母と娘と二人で諸国を巡礼して水海道まで来たとき、母が病気で亡くなり、ただひとり残された娘だった。

気立てのやさしい、かわいい娘だったと。

村の名主が可哀そうに思って奉公人として養っていたのだと。

名主は反対したが、かといって代わりの人はいない。

雨はますます強く降り、鬼怒川の水かさはどんどん増えてくる。

このままでは村は助からない。

名主もとうとうおきゃらを人柱にすることに賛成したと。

村人たちは、いやがるおきゃらを無理やり鬼怒川べりに連れて来た。

何をされるのかと恐がってふるえているおきゃらに重石をくくりつけると、

「村のためだ。犠牲になってくれ」
といって、うずまく流れの中に投げこんでしまった。

おきゃらは、あわれな悲鳴と水音を残して沈んでしまったと。

次の日、あんなに降り続いた長雨が、うそのように止んで青空が広がったと。

堤防もかろうじて持ちこたえ、村は洪水に押し流されないで済んだと。

しかし、しばらくすると、村に悪い病気がはやり始めた。

村人たちは、

 「これは、おきゃらを人柱にしたためだ」

といいはじめたと。

そのうち、「川の中からおきゃらの泣き声が聞こえる」といって恐がる人も出てきたと。

村人たちは、おきゃらの魂をなぐさめることにしたと。

名主をはじめ、村人がこぞって鬼怒川べりに集まって、盛大な供養をしたと。

そして、川の近くの、今の水海道市にある安楽寺を菩提寺と決め、おきゃらの霊をとむらったと。

そしたら、悪い流行病もおさまり、村はふたたび穏やかになったと。

村人の中には、これをありがたく思い、おきゃらの供養のためにと、安楽寺に土地を寄付する者もあった。

その田畑は今でもおきゃら面と呼ばれて残っている。

地元では、この話しを実際にあったこととして語り伝えているのだと(SNSより)

おきゃらさんのお墓は境内へ入ってすぐの場所に立て看板がありわかりました。







そしていってみてわかったのですが、この安楽寺は元三大師を祀る厄除けのお寺さんだったのです。

何故なら、お寺のもんに元三大師の提灯が掛かっていました。







後で委しく調べてみると、数珠に元三大師の彫刻をした御守りがありました。

鬼マニアとしてはとても残念でしたが、またいつかいく理由が出来ました。

偶然にもここでも「鬼」に関連したお寺さんを参拝したことになりました。

さて、最後のお寺さんは、もうひとつの伝説「累ヶ淵」に関連のあるお寺さんです。