『絶望名人カフカの人生論』を読んで、とりあえず安心したものの、他人は他人はやはり自分の不快な感情は残ってしまいます。
今回読んだ本は
・『人間とは何か』マーク・トウェイン著
・『嫉妬・劣等感を一瞬で消す方法』大嶋信頼著
・『孤独とお金の不安から解放してくれる25の呪文』大嶋信頼著
・『弱いロボットの思考』岡田美智夫著
1冊1冊の感想を書くと長くなるので、この数冊の本の「関連」のみを繋げて書いていきます。
マーク・トウェインは「トム・ソーヤの冒険」や「王様と乞食」など、知らない人はいないと思いますが、彼が死ぬ四年前に書かれた本が『人間とは何か』です。
老人と若者の対話形式ですすめられる物語で、暖かいドラマが繰り広げられる…かと思えばかなり辛辣な内容で、当時は酷評された本です。
その本の結論が
「人間には愛も憎しみも何もない、あるのは主衝動、(自己が)満足したいという機械的な心だ」(54頁)
というものです。
愛情や慈善、優しさなども全て過去の環境からの「習慣」で、何ものも自分の「意思」で行ってはいない、というのです。
そして「機械」の目的は「自己充足」のみです。
例えば、若者が乞食に幾らかのお金をめぐんだ「慈善」も、それは単なる夜にぐっすり眠れるためだと老人は言います。
もし、その時にめぐまなければ、その夜あの乞食が死んだかもしれないと思い悩み眠れなくなるから、ぐっすりと眠れるための「駄賃」だ、と言うのです。
そして「そう考えてしまう」のは、子供の頃からの「環境(教育)」のせいだと言います。
このあたりはカフカにも当てはまる気がします。
次の
「動物的な嫉妬は発作だ」(12頁)
と言っています。
発作と言うのは、本人の「意思」「人格」とは別に勝手に発動してしまう行動です。
つまり何かをきっかけに「機械的」に発動してしまうのです。
その「機械的」な発動するものとは「無意識」です。
ある人が事故にあい、意識不明になってから一週間後に「意識」が回復し、食べたり飲んだり日常的な会話も出来るようになりました。
その後、二週間後に朝目覚めると
「先生、やっと意識が戻りました」と本人が言ってきたのです。
医者はびっくりして
「何を言っているんですか、あなたは既に一週間前に「意識」が戻ってリハビリしたり日常生活を送っていたじゃありませんか」
では、一週間前に戻った「意識」は何だったのでしょうか。
日常でも酔っぱらって意識がなくても家に帰っていることがあるように、人は「意識」と「無意識」があります。
「意識」と「無意識」はバラバラに存在しているわけではありません。
今流行りの「腸脳相関」と言うように、「意識」の大元の脳にも腸の「無意識」が働いています。
そしてこの「無意識」こそがマーク・トウェインの言う、過去からの環境によって作られた「機械的な意識」のことだと思えるのです。
では
神学の「自由意思」の問題のように、それならば人間は全て「自由意思」がなく、神様の「意思」によって「機械的」に未来が決まっているのではないか。
それでも未来を変えられる方法はあるのか。
答えは…
あると思います。
例え「機械的に」未来が決まっているとしても、「無意識」の「良い面」を引き出せば自分も社会も変わる、と言うことです。
先ほどの酔っぱらっても家に辿り着けるのは「(自分に都合の)良い面」で、突発的に「嫉妬、憎悪、自己嫌悪」がおこってしまうのは「(自分に都合の)悪い面」だと思います。
「意識」から「無意識」に変わってしまう時には、「(正常な)意識」の混濁がおきます(時にアルコールだったり、被害者意識だったり)
これを突発的にではく「意識的」に「無意識」にチェンジさせるのが「呪文」です。
呪文は意味が有るようでないような
意識の混濁を「故意に」おこさせます。
お経、真言などは意味があったり、単なる韻を真似たりと、日本語ではよくわからない言葉が並べられ、それによって「意識」から「無意識」へと変移させるのです。
つまり「無意識の力」を発動させるのです。
「私の中にあるものは、私を助けてくれる菌が全て吸収してくれる」(28頁)
があります。
なんだかわかったような、わからないような言葉です。
これは相手の気持ちを考えすぎたり、漠然と不安になったりする時に効果のある「呪文」です。
不安なのに、一切「不安」という言葉を使っていないのも「みそ」のようです。
これで「不安」な「意識」から「無意識」へとチェンジさせ、「意識」して脳を使うことをやらなくなるのです。
さて
「無意識」を発動させる方法は「言葉」だけではありません。
前回の日記に、朝の電車で杖をついたおばあさんを、みずしらすの乗客が場所とりをしていることを書きましたが、それも「杖をついたおばあさん」が「無意識」を発動させたと思います。
それも「良い無意識」を。
ルンルは部屋をヨタヨタしながら、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりながら「非効率的」に掃除をこなしていきます。
ついつい見ているこちらが、邪魔な障害物をどかしたりしてしまいます。
「このロボットの〈弱さ〉は、わたしたちにお掃除に参加する余地を残してくれている。あるいは一緒に掃除をするという共同性のようなものを引きだしている」(15頁)
つまり、周りの人の「良い無意識」を引き出す効果があるのです。
「強く完璧なロボット」にはこちらが何もすることはなく、ロボットの手助けは考えもしません。
もちろん自分の向上(掃除をしょう)には何の関わりもありません。
しかし、「弱いロボット」はそれ自体では不完全なので、それを何とかしてあげたいと思ってしまうのです。
その時自分も周りも向上するのです。
この「思ってしまう」ことが「良い無意識」です。
https://youtu.be/2I5v4x_6Xzg?si=kPk_SXoqGIGA7BKE
こんな「弱いロボット」も「います」
マーク・トウェインが「人間は機械(ロボット)だ」と言った時に、それは当時の「力ある人」達への戒めだったのかもしれません。
たまたま「お金儲けが上手い」だけなのに、それが「誰よりも偉い」と考えるのは間違いで、それは単なる過去の環境がそうさせただけで「自分の力」でもなんでもないなのだ、ということと、今悩んだり貧しかったりするのは本人のせいではなく、たまたま過去からの「環境」がそうさせているだけで、本人のせいではない、というメッセージだったのかもしれません。
またマーク・トウェインのいった人間が、「自己充足」のために働く「無意識」の「機械」だったとしても、その「無意識」には「良い無意識」と「悪い無意識」があると思います。
その両無意識が「自己充足」だったとしても、さらに奥には良い悪いは「自己の生き残り」にかかっているように思えます。
杖のおばあさんを助ける行為は、実は、年老たなら自分もそうして欲しいという「自己の生き残り」でもあるのです。
例えば「強盗」のような「生き残り」の方法は、一時的な短絡的な「生き残り」のやり方です。
なぜなら結局、まわりまわって自分にとって「悪い」結果となります。
「意識」の時代は終わり、前に書いた『人を動かす「仕掛け」』のような学問と『弱いロボット』をさらに発展させて、人類にとっても、個人にとってもどちらにも「(都合の)良い無意識」を引き出す、「言葉と存在」がこれからは必要だと思いました。
「非科学的」と言われてきた「呪文」や「信仰」のようなものが、やっと「科学的」解釈が与えられてきました。
本当は「科学的なお墨付き」なんて必要ないんですけれど。
「科学的なこと」がやっと「非科学的なこと」に追いついて来たと思う現代は、なんだか歴史が逆行してしまっているようでも、常に「科学」と「非科学」は両輪として社会や個人を成長させてくれると思います。
「今までの令和」、「これからの令和」、楽しく生きましょう。
「光明真言」
https://youtu.be/Vre68Y4yjkE?si=l3cO251y7-fyTojT