『目の見えない人は世界をどう見ているか』伊藤亜紗著 | パーマン三号のブログ

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明けましておめでとうございます。

新年早々地震にびっくりしました。
被害が最小限てあることをお祈りします。


年末の長い休みに気になっていた本を片っ端から読み漁りました。

・『仏教思想のゼロポイント』魚川裕司著
・『ブッダが考えたこと』宮本啓一著
・『仏教と量子力学』スコさん著
・『唯識の思想』横山紘一著
・『100分で名著、真理の言葉』佐々木閑著

番外
・『日本奇僧伝』宮本啓一著
・『修行論』内田樹著

スピンオフ
・『夜にお腹をもむといいことがある』yuki著
・『オニババ化する女たち』三砂ちづる著


前回の『ミランダ王問経』で「実体」の話を「車」の話で例えた事で、結局「実体」とは何ぞや、あるやなしや、と考えてしまいました。

「輪廻」とは、「自分」のした善行悪行が前世、現世、来世と引き継がれていくことなのに、そもそも「自分」という実体がないのなら、引き継ぎようがないのでは?と思ったからです。

魚川裕司博士は、自我はなくとも経験我はある、と語っています。

佐々木閑博士は、輪廻転生なんてない、とまで言っています。


結果は

わからな〜い。

そして

諦めました♫

https://youtu.be/2z45PNwVqkE?si=lbP19cNsOCNGsk0e

結局、実体があっても無くても、あの世があつてもなくても、今あるこの「それ(自分)」が大切なのだとわかりました。

また全てが「縁起」で出来ているのならば、この身体も実は「それ(自分)」のものではない借物で、心に起こる感情や本能や欲望も、本来は「それ(自分)」のものではないのだとわかりました。

「それ(自分)」以外の全ての借物を「それ(自分)」がどうやって扱っていくのかは、まだまだ勉強しなければなりません。


地獄が無いなら悪いことをしてもいいじゃん、というのと天国に行きたい目的で良いことをするのとでは、どちらも天国には入れない気もします。

もしも輪廻転生があったとしても、それはそれで楽しいから、また生まれ変わってもいいや、という人には解脱は必要ありません(ただやっぱり人間に生まれたいけど)

と…

チネイザン(氣内蔵)をやりながらぼーと考えていると、ふっと気がついたのです。

目がぼやける。

これだけの本を読んで、字を追いすぎ、老いすぎた目に相当な負担をかけ過ぎたようです(元々ドライアイなんです)

既に左目は白内障で人工レンズにしてあるけれど、それでもボヤけるのです。

それは、実は目には焦点を結ぶ機能が「二つ」あるからです。

ひとつはレンズ、もう一つは「虹彩と瞳孔(こうさい・どうこう)」です。

つまり「光を絞る」機能です。

目がボヤケた時に、針の穴から物を見ると、再度ピントがあったりする、あれです。

レンズを失ってからもこの「瞳孔」機能が働いてある程度の視界の奥行きがあったのです。

その瞳孔すらくたびれて、ピントがボヤケてしまったらしいです。

https://youtu.be/xG-_UvjspuM?si=SjcWVMisgbmxOMlB


あっ、そうだ

宜保愛子さんは左目がほとんど見えないんだった(幼少期の事故で)なぁ

魔女や霊能者は左目が見えにくいといいます。

右脳の霊感を使い過ぎるためだとか。


そう言えば、

目の見えない人はどのような世界で暮らしているのだろう。


むかし、自分がまだ高校生の時に、通っていた教会で「ツゥェンさん」という中国の全盲の人の点字の翻訳を何度か手伝ったことがあったり、盲人の人の道案内もしたことを思い出しました。

「手を繋ぐのではなく、肘を持たせてください、その方が安心します」

と言われたことを今でも思い出します。


…と全く関係のない個人的な回想はここまでとして

著者は「生物学」を趣味とする「変身願望」のある「美学」専門家です。

えっ?男の美学?

エステシャン?

とよく間違われるそうですが、「美学」とは「言葉にしにくいものを言葉で解明しょうとする学問」だそうです。

例えば、モテる男はなんとなくわかるけど、言葉にしにくい、とか。

ときに

ちまたの「身体学」なるものがありますが、結局のところよくわからない。

それは「身体一般」を語っているからで具体的な「あなたの身体」「わたしの身体」を語っていないからだ(25頁)

と書いてます。

そう考えると、先ほどの何故自分が実体がわからなくなったのも、似たような感じだったのだとうなずけます。


この本は、美学と身体学を合わせて「個別」の身体を捉えるのが目的だそうです。

視覚が九割の人間が、その視覚以外の感覚に頼った「別世界」はどんなものかを理解しようとする新しい試みの本です(27頁)

なら、目をつぶればいいだけじゃないか、といわれますが、目をつぶるのと、見えないのとは全く違うといいます。

つまり「四輪車」から1つの輪っかを抜くのと、もともとの「三輪車」とは同じ「三輪」でも意味が違います。

四輪から1つの輪っかを抜くのは「欠落」マイナスですが、三輪車はもともと三輪で「自立」しているからです。

ここらへんは理屈っぽいですが、嫌いじゃありません。


「本題」です

ある小学生がある時からだんだんと目が見えなくなる病気にかかりました(38頁〜)

数ヶ月入院し、弱視教室に通学するようになりました。

先生の配慮から、その小学生の友人を帰りに教室に迎えにいくようにさせたそうです。

初めて迎えに来てくれた友人に弱視の子はショックを受けたそうです。

今までのように

「よっ!」

ではなく

「はい、じゃぁ行きましょうか」

と言ってきたそうです。

もちろん友人は悪気があったわけではなく、むしろ親切な態度で接したつもりだったのでしょうが、弱視の彼からすればよそよそしく悲しく感じたそうです。


これはまた自分の経験ですが、むかしスポーツクラブである身体の不自由な人が、並んでいるのに割り込みしてきたり、何かと一般的なルールを破る人がいました。

「自分は障害者なんだから特別なんだ」

と思って威張っているのは、皆が親切にしすぎて甘やかしているからだ、と思ってました。

でも今考えると、それはこちら側への「怒り」だったのかもしれません。

先ほどの弱視の小学生の話からみえてくるのは、こちらが「親切」だと思ってする行為が、かえって「よそよそしく」、相手に「劣等感」を押し付けてしまっていたのではないかと、それが「怒り」となってスポーツクラブの彼はルール破りをしていたのではないかと思いました。

何故普通の人と同じように

「皆と同じルールを守りなさい」

と言ってくれないのかと思っていたのかもしれません。


優しい気遣いが時に相手を傷つけることがあります。

…私、顔なんて気にしないよ、といわれ傷ついた若き日、その後彼女が「イケメン」と付き合っていることがわかり世の中に絶望した若き日…

https://youtu.be/rgeA9H9igq8?si=TQwgc87TdWy0ULLQ
ヤマンバメイクは革命的でした


手を惹かないで、肘を掴ませるなんて、なんか不親切な気がするのは、勝手なこちら側の理屈です。


ここでも、前に書いた「3メートルの思いやり」が必要で

「うちはうち、そちらはそちら」とある種の距離を設定することで、「見えない側」を「見える側」から理解しないことが大切で、「へぇ、そちらはそんなふうに感じるんですね」と思うくらいがちょうどよくて、変な気遣いは必要ないのです。


他にも「すごい」もそうです。

それには「(目がみえないのに)すごい」というように全盲の人には聞こえるそうです。

そんな時は「面白い」と言った方がいいようです。

そこからお互いの「ゆるみ」や「笑い」のようなものも生まれると書いてあります。

https://youtu.be/9J3nVT81do4?si=yP33BE_-xjSb50oQ


最後にもうひとつだけ例にあげておきます(50頁〜)

著者と全盲の方が大岡山の坂道を登っていると

「大岡山はやはり山なのですね」

と言ったそうです。

著者は単に「坂道」を登っているとしか感じていなかったのに、それを山の「登坂」と全盲の人には感じているのがわかったそうです。

全盲の彼は言いました

「たぶん脳の中にはスペースがあり、見える人は看板とか信号機とか通る人でいっぱいになっていて、ぼくたちの場合はそこが空いている。

その空いているスペースを埋めようとして、足で感じる傾斜や少ない情報から考える。

だからある意味、見える人は余裕がないんですよ。

空が青いとか、スカイツリーがみえるとか、とても忙しいんですもんね」

なるほど、見えるから余裕がない…想像力もでない…全盲の彼には見えないがゆえに、世界を「俯瞰」してみることができたのです。

また

「見えない」と誘惑も少なくなるそうです。

新発売のジュースが見えたら飲みたくなるし、可愛い娘が見えたら〇〇したくなるし…そんな色んな「(色)仕掛け」にも引っかからなくなる。


そう考えたら、「見えない世界」も「見える世界」と同じか、それ以上に魅力的に思えてきます。

決して「欠けている世界」ではありません。

むしろ「死角がない世界」なのです(だから座頭市は強いんだぁ)

それはもう「悟りへの道」に近いかもしれません。


読んでいるうちに

「やれやれ、目明きとは不便なものよ」

と言った塙保己一(わなわほきいち)の言葉が浮かんできました。

ただ

著者は「特別視」は気をつけるようにも書いています。

感覚の使い方は違ってもあくまでも「対等」に考え、思わず「すごい」と言ってしまいそうな時も、「面白い」という感覚で接することが大切だと書いてあります。

これは全ての人間関係にも通じることだと思います。

そして

これからの「老い」についても考えさせられました。

鳥は「飛ぶ」ために前足を羽に「進化」させたように、何かと引き換え(失う)に生物は「進化」してきました。

「視覚」を失った人は、それを補うために「触覚」や「嗅覚」を研ぎ澄ませました。

他の器官を組み替えて新たな身体の使い方を獲得したのです。

自分は、これから老いていくなかでどんどん色んなものが失われていくけれど、その時々に「あるもの」で工夫し補い、新しい使い方をして「進化」していけるのではないかと思ったのです。

その時一番邪魔なのは「常識」であり「固定観念」だと思います。


大本教の「出口王仁三郎」は

『耳で見て、目で聞き、鼻でものを食うて、口で嗅がねば、神は判らず』

と言いました。


茶道が仏道の実践(利休)のように、想像上の「パラレルワールド」なんかよりも、現実に横にいる人が全く違う「世界」に住んでいることが実感できる、面白くてためになる、そして固定観念を破壊してワクワクする本でした。

「別世界」を理解することで、これからは無限に「トランスフォーム」していける自分になれるような気にさせてくれる本でした。

そして最後に久々しみじみぽっこりできる本でした。


https://youtu.be/7Tv9cGjbsIE?si=m8SnOXOfIHQ0DrgU
大切な見えないものが見えるのは、見えないからさ  by 老害者