琵琶湖の水を京都にひくという明治時代の壮大な国家的プロジェクトで完成した琵琶湖疏水。この完成後、120余年にわたり琵琶湖の水が京都に延々と流れ続けている。この水の路(みち)に今年から11月の計7日間(19・20・22・23・25・26・27日)に限定して観光ボートが運航される。
これを機に琵琶湖疏水の路を今一度チェックし、第一疏水に沿うハイキングコースの小関(こぜき)越えを歩いた。
▽ 関連ブログ:琵琶湖疏水での観光船クルーズの運航に向けて
http://ameblo.jp/taka-hannari/day-20150512.html
□ 琵琶湖疏水の概容
第1疏水と第2疏水の総称が琵琶湖疏水。第1疏水は着工から5年後の明治23年(1890)に完成し、それから20余年後の明治45年(1912)に第2疏水が完成。
第1疏水は大津と京都を結ぶ運河で、船で人と物資を運ぶことを目的とした。第2疏水は更なる水の需要増大と水道水源としての利用が主目的。水道水の汚染防止のため、第2疏水ほぼ全線がトンネルと埋立水路(暗渠)になっている。
*略図は「琵琶湖疏水記念館」のパンフレットから引用し加工。
□ 三保ヶ崎にある琵琶湖疏水の取水口
琵琶湖疏水の取水口は湖の南西部に位置する三保ヶ崎にあり、第1疏水と第2疏水とは取水口が異なるも隣り合っている。第1疏水には水位や水量を調節する大津閘門(こうもん)が設けられている。大津閘門は本格的な煉瓦造り日本初の閘門。
第2疏水の入口は単にほら穴の入口を意味する洞門(どうもん)が第2疏水入口になる。この近くの公園には「琵琶湖周航の歌記念碑」がある。
*マップは京阪電車作成のパンフ「水の路」から引用。
□ 第1疏水で最長の第1トンネル
第1疏水には主なもので4本のトンネルがある。その中で、標高354mの長等山(ながらやま)の下を通る第1トンネルは、大津側の三井寺下から京都側の藤尾までの長さが2,436mと一番長い。
当時としては日本一の長さを誇り、わが国初の竪坑(立坑)によるトンネル工事が採用された。全長の三分の一の地点に、深さ45m・直径5mの竪穴を掘り、そこから山の両側に向けて進める工法で、その竪坑が小関越えの途中に今でも史跡として残されている。
□ 疏水路のウォークと小関越え
琵琶湖疏水に沿って今回歩いたのは、三保ヶ崎の取水口から山科の安朱橋までのコースで約7㎞の距離。第1トンネル東口から西口に相当し、長等山の中腹に沿う山道の小関(こぜきと呼ぶ)越えを歩いた。小関越えは、標高200mの喜一堂(峠の地蔵)あたりが峠になる。
小関越えは、大津市の北国町通りから山科の横木一丁目の旧東海道までのおよそ4㎞の道のり。古くから京都と北国(北陸)を結ぶ抜け道として利用されてきた。東海道の逢坂越えを大関と呼ぶのに対して、こちらは小関と呼ばれていた。
□ 石造洞門の扁額
疏水の各トンネルの出入口には石造洞門が建てられ、当時の政府の有力者たちの筆による扁額(へんがく)が掲げられている。
第1トンネルの大津側には伊藤博文筆の「気象萬千(きしょうばんせん)」、京都側には山縣有朋筆の「廓其有容(かくとしてそれかたちあり)」がある。前者は「千変万化する気象と風景の変化はすばらしい」、後者は「悠久の水をたたえ悠然とした疏水のひろがりは、大きな人間の器量を表している」の意味。
□ 疏水関連施設の緊急遮断ゲート
今回のウォークで初めて目にしたのがこのゲート。第1トンネルの西口から100mほどの所にあり。名称からも推察されるように、地震による疏水の堤防決壊に備えて水流を自動的に遮断する目的で平成11年(1995)に設置された。