三条通の釜座町界わいを歩く | 京都の春夏秋冬とプラスα

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先日、三条釜座(かまんざ)にある大西清右衛門美術館(⇒マップ①)を訪れ、春季特別展(3月15日~6月29日)の「千家伝来の茶の湯釜」を観賞した。この美術館には、室町時代後期から約400年続く、京釜師・大西家歴代の茶の湯鉄釜や茶道具類が展示されている。千家とは、安土桃山時代の茶人で日本の茶道を大成した千利休(せんのりきゆう)を祖とする茶道の宗家で、具体的には千家・裏千家・武者小路千家の三千家(さんせんけ)を総称する。これら三千家に茶道具類で出入りする名人職に千家十職(せんけじっしょく)があり、明治時代から大西家はそのひとつに指定されている。

大西家の当主は現在は第16代。特別展には三千家で選び抜かれた桃山時代の名人の作品をはじめ、20点ほどの茶釜が紹介されていた。

筆者は茶道には全く縁がなく知識に疎いが、400年以上も守り受け継がれてきた茶の湯釜の伝統と様式に初めて触れ、京都の歴史文化の一端に思いを寄せた。

釜座町釜座通突抜町の由来
美術館の所在地は中京区三条通新町西入ル釜座町18-1。釜座の地名は桃山時代から多くの釜師がこの地に住み、湯釜の座(市)が開かれたことに由来する。

美術館前の三条通を起点に北に向かう通りも釜座通(⇒マップ②)と名付けられている。

平安京時代の条坊制度では、町の区画は正方形を基本としその最少単位は約120m四方(ぼう)と呼ばれていた。このが京都の町の始まりとなった。

釜座通は、東は新町通・西は西洞院通、南は三条通・北は姉小路通で囲まれた町のほぼ真ん中を、後の時代に南北に突き抜ける形で造られたことから、その周辺が突抜町の町名になったものと推察される。こうした坊の中央に新たな通りが造られた例は他にも多く目にすることが出来る。


■ 茶人の足跡が残る柳水町了頓図子
釜座町の西隣の町が柳水町。古くから清泉が湧き出て、今でも地下約90mの水脈から一度も枯れることなく染色や飲料水用として利用されている(⇒マップ③)。

前述の千利休(1522~91)もこの湧き水を茶の湯に用い、この井戸に陽が直接入るのを防ぐため側に柳を植えたと伝わる。柳水町もこれに因むもの。

大西清右衛門美術館前から三条通を東に歩くと、新町通室町通の中ほどを三条通から六角通まで南北に抜ける細い道がある。地図には衣棚通と表示されているが、古くから「了頓図子(りょうとんずし)」とも呼ばれている(⇒マップ④)。

京都には家と家の間に通じた細い道が数多く見られるが、これらは図子(辻子)とか路地(ろーじと発音)と呼ばれている。実際、了頓図の場合は軽自動車がどうにか通れるほどの道幅。

了頓図子の地名は、安土桃山時代の茶人・広野了頓の屋敷(⇒マップ⑤)があったことにちなんでおり、豊臣秀吉も入洛の際にはここを訪れ茶を味わったと伝わる。

了頓の意思により、夜間以外は町人たちに屋敷内を自由に通行させ、それがいつしか図子(今の抜け道?)になったという逸話が残っている。

■ 院政時代の中心地・三条烏丸御所跡
三条通と烏丸通が交差する周辺一帯は、平安時代後期に白河法皇・鳥羽法皇・後白河法皇ほかが院の御所を造営した。即ち院政時代の中心となった地で跡碑がある(⇒マップ⑥)

今では烏丸三条交差点の東南角に京都市の道路の起終点を示す道路元標(⇒マップ⑦)が建っている。


▼ 関連ブログ:三条通の界わい景観整備地区を歩く
 http://ameblo.jp/taka-hannari/day-20111020.html