【死の始まり・・・】
みなさま、本日もこころのエステ・フィットネスに
立ち寄ってくださり、有難うございます。
ここちよい春の日に重たいテーマで
申し訳ありません。
しかしながら、先日より重なっております
京都祇園や亀岡で起きた交通死亡事故
また、もう7年も経ったのかと思いますが
尼崎福知山線脱線事故の7回忌のニュース報道
を目にするとき、
どうしても考えておかなければならない
テーマだと考えています。
実は、このブログに こちらのブログテーマ
「死」を考えることは「生」を考えること
を追加したのは、福知山線の脱線事故発生を
巡ってのことでした。
わたくしは転勤族で、その脱線事故が起きる
1年前まで、当時住んでいた西宮から勤務地の
大阪まで、尼崎乗換えで大阪東西線に入っていく
当該の列車には よく乗る機会がありました。
それだけに、とうてい他人事とは
思えなかったのです。
7年経った今も、その事故で大切なご家族を亡くされた方の
悲しみは決して癒されていない、問題は何も解決されていない
ことを感じます。
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聖書によると、聖書の神、創造主は「死」を創造されて
いないことが確認できます。(創世記1章 2章)
しかし、一方、世の中の現実に目を向けたとき
悲しい悲劇、「死」が存在しています。
一体、死はどのように始まったのか・・・
聖書はその始まりについて
創世記3章に記しています。
長い箇所ですので、その要点をお伝えするなら
愛と命の源、創造主である神と人との
【愛の関係の喪失】
【愛の関係の断絶】が
死を招くことになった・・・
というのです。
死の始まりは【愛(の関係)を失うこと】
なのです。
死とは「愛の関係を失っている状態」
なのです。
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主なる神が造られた野の生き物のうちで、
最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、
などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、
触れてもいけない、死んではいけないから、
と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 それを食べると、目が開け、
神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、
賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、
一緒にいた男にも渡したので、
彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、
主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、
隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。
取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、
木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」
女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
(旧約聖書 創世記 3章1-14節)
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本日も、お読みくださり、有難うございます。
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