【1デナリ:イエス=キリストの命、十字架の贖い】
本日も立ち寄ってくださり、有難うございます。
この記事は、こちらのお話からの続きです。
http://ameblo.jp/taizo-bokushi/entry-10197949112.htmlさて、いつもは、わたくしは、こちらのブログ、記事は
聖書を全く知らない方、クリスチャンではない方向けに、
聖書のことをあまりご存じなくても、理解していただけるよう
意識して書いておりますが、
どちらかというと今回は、クリスチャンの方向けのメッセージ
となってしまいました。すみません。
よって、クリスチャンでない方には、少し馴染みのない
言葉を多用してしまうことをお赦しください。
何がいいたいのか、おわかりにくい記事となっているかも
しれませんが、お読みいただけるとうれしいです。
クリスチャンでない方には、また、いつか、別の機会に
それらについては解説していくことができれば
と思っています。
*****************************
本題です。
ぶどう園の労働者のお話に出てくる、【1デナリ】について、
わたしは、今回、この聖書の箇所を読みながら
新たに気がついたことがありました。
それは、この【1デナリ】は、
イエス様の尊い救い、十字架の贖い、
イエス様ご自身の永遠の命
を象徴していると、はっきりと思えたのです。
******************************
ぶどう園の労働者のお話には、
【夜明けに】、【朝9時頃】、【12時、正午】、【3時】、【5時頃、夕方】
という時間滞、時刻が出てきますが、
これらの時間について何か思い起こされる
ことはないですか・・・。
・・・これは、イエス様がイスカリオテのユダに裏切られ
大祭司、律法学者達の策略によって捕縛され、
一晩中、不利、不当な裁判にかけられ、
愚弄、侮辱された挙句に
ゴルゴダの丘へ十字架を背負わされて向かわれ
十字架で処刑され、絶命される・・・
そして、墓に埋葬される・・・
その描写に使われている時間なのです。
下記、できれば、それぞれ聖書の箇所を引きながら
読んでもらえたら・・と願います。
*******************************
【夜明けに】
「夜が明ける と、祭司長たちと民の長老たち一同は
イエスを殺そうと相談した。
そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した・・。」
(マタイ27章1-2節)
また、夜明けには・・・鶏が3度鳴き、ペテロの裏切りの言葉を
主は耳にされたことでしょう。(マタイ26章75節)
【午前九時】
「・・・兵士たちは・・・イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでから
かぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。
また、何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、
ひざまづいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく
紫の服を脱がせて元の服を着せた、そして十字架につけるために
外へ引きだした。
・・・そして、イエスをゴルゴダという所、・・・その意味は、
『されこうべの場所』・・・に連れて行った。
・・・イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」
(マルコ 15章 1-25節)
群衆も、祭司長たち、律法学者たちも一緒になって
代わる代わるイエスを侮辱し、罵りつづけた・・・。
・・・イエスは言われた。
『父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか
わからないでいるのです』 (ルカ23章34節)
「・・・昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで
続いた。・・・太陽は光を失っていた。
三時にイエスは大声で叫ばれた。
【エリ、エリ、レマ、サバクタニ】、これは、『わが神、わが神、
なぜわたしをお見捨てになったのですか』
という意味である。
また、イエスは大声で叫ばれた
『父よ、わが霊を御手に御手にゆだねます』
こう言って息を引き取られた・・・。
すると神殿の垂れ幕が上から下まで
真っ二つに裂けた・・・。」
(マルコ15章33-38節、ルカ23章46節)
【午後5時ごろ】
「・・既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の
前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが
来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡し
てくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいた
のである。
ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、
百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
・・ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に、
残しておかないために、足を折って、取り降ろすように
ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て
イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と
もう一人の男との足を折った・・・。
イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので
その足は、折らなかった。
しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。
すると、すぐ血と水が流れ出た・・・。
ピラトは、遺体を百人隊長に確かめさせた上で、
遺体をヨセフに下げ渡した。
・・・ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろして
その布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、
墓の入口には石を転がしておいた。
マグダラのマリアとヨセの母マリアとは
イエスの遺体を納めた場所を見つめていた・・・。
(マルコ15章42-47節、ヨハネ19章31-34節)
*******************************
【夜明け】【9時】【12時】【3時】【夕方5時】・・・
イエス様の十字架への道、
その命を、尊い贖いをすべての人に、差し出すために・・・
ご自身を献げるために・・・、
十字架刑に一歩一歩向かっていかれる時間と一致します。
「・・・わたしは、この最後のものにも
あなたと同じように払ってやりたいのだ。」
(マタイ20章14節)
この言葉がどれだけの重みをもつか・・・・
【1デナリ】・・・このぶどう園の主人が支払った代価が
どれだけ価値のあるものか・・・
クリスチャンのみなさまには
ぜひ、瞑想していただきたいと思います。
*******************************
「1デナリ」をイエス=キリストの十字架の贖い、救いの象徴と
とらえるならば、このぶどう園の労働者のたとえは、
救いは、恵みであることをあらためて、考えさせられます。
恵みとは、「賜物」であり、「賜物」はわかりやすくいいかえると
「プレゼント」ということです。
イエス様の十字架を通して得られる「永遠のいのち」
は「プレゼント」であって、「報酬」ではないのです。
通常、わたしたちは、社会では働きに
それに対してもらえる「報酬」
という価値観の中に、生きていますので
「恵み」「プレゼント」ということが
わかりにくい場合があります。
プレゼントとは、「わたしにとってあなたは大切な存在」
ということを、ひとつ、形に表すものかと思いますが、
天地万物の創造主は、わたしたちひとりひとりの
ことを大切に思っておられる。。。
その形として、証拠として、イエス=キリストを
この世界に遣わされた・・と聖書には記されています。
それは、ある意味、創造主なる神様の一方的な
想いであるかもしれません・・・
でも、どうしても、その思いを伝えたくて
創造主は、イエス=キリストをこの地上に
遣わされた・・・。
しかし、その愛の究極の姿は
その御子を十字架につけて、
全人類の罪の身代わり(贖い)
とされることだった・・・。
ここがなかなか、多くの方に理解してもらえないこと
ではありますが、
最大の神の業、ご配慮、契約なのです。
イエス様の十字架を通して、わたしは、神の愛、
その本質をなんとかして、とらえ続けていきたい
そう思っています。
*******************************
【最初に雇われた(=契約を交わした)人】
これは、先にクリスチャンになった人を象徴しますね。
ところが、その一番先に召された人が
【1デナリ:イエス様の十字架】について、
主人に不平をいうのです。
「最後に来たこの連中と同じ扱いにするとは・・・」と。
また、「たったこれだけですか」と
【1デナリ:イエス様の十字架の贖い】について・・・。
これは、イエス様の救いが【報酬】ではなく、
【恵み:プレゼント】であることがわかっていない
ことを意味しています。
また、クリスチャンになっても、【罪人】であることは
変わりありません。
ただ、救いを知っている罪人、
永遠の命に希望をいただいた罪人
ではありますけれど・・・
イエス様の救いは、恵みであること、
その恵みを忘れてはならないと思います。
また、
【後のものが先になり、先のものがあとになる・・】
以下、個人的解釈ですが・・・
イエス様に救われた、(その経験をしたときの)喜び
長年クリスチャンであること・・・が時に、
信仰の倦怠期を迎えることがあります。
信仰の世界で、比較ということは、あまりこのましい
ものではないのですが、
もし
クリスチャンになったばかりの人が、
【=午後5時を過ぎて雇われた人】
その救われたことに喜びを感じている、
【=1デナリを受け取った時の喜び】
その喜び度・・・
と長年クリスチャンである方が、
【=夜明けに雇われた人】
が救い【=1デナリを受け取った時】に
感謝できる喜び度を比較したとしたら・・・、
どちらが高いか・・・
・・・なんて、いうのは、やめておきましょうね。
クリスチャンは、救われたときのこと(原点)を
決して忘れてはいけないと思います。
いつも、祈り、聖書を読み、主の恵みに感謝して
新鮮な感謝と喜びの応答を
共に主に捧げて参りましょう・・・。
【5時に雇われた人】:
その日一日中、不安で不安でいっぱい過ごした人、
明日に絶望し、希望が与えられていない人です。
しかし、【夜明け方に雇われた人】は、その時点で、
その日は本当に安心して生きることができたし
明日に希望を得られている人なのですから。
******************************
【友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと
1デナリの約束(契約)をしたではないか】
主は、いつも、わたしたちのことを【友よ】と認め、呼んで
くださる方です。
1日、1日を支えてくださること、それで十分ではないでしょうか。
1デナリ、イエス様の十字架の救い、赦しは、
確実に、わたしたちの1日、1日を支え、満たしてくださり
赦しを与えてくださっている。
【その日の苦労はその日一日で十分である」
(マタイ6章34節)
の言葉を思います。
また、旧約聖書、出エジプトをした神の民を養った
マナのことを思います。(出エジプト記16章)
天からのマナは、一日分以上は与えられることは
ありませんでしたが、
確実に毎日、神の民を養うために、必要十分な量が
天から降ってきました。
しかし、残念なことに、イスラエルの民は
そのマナについて満足することなく
不平不満を言ったのです。
マナについて不平不満を言ったイスラエルの民のように
ならないように・・・と思います。
******************************
「わたしの気前良さをねたむのか・・・」
ねたみ・・・これは、クリスチャンとしては、なんとしても
避けたいこと、警戒しないといけないこと、
こころの中にわき起こる動きに敏感になり、
主の愛によって、排除しておいてもらわなければ
なりませんね。
なぜなら、イエス様が十字架につけられたのは、
大祭司、律法学者、パリサイ人らの【ねたみ】のため
であったのですから・・・。(マルコ15:10節)
「自分の分を受け取って帰りなさい」
この言葉を私的に解釈すると・・・
イエス様の十字架の救いを毎日、きちんと受取り
日々、イエス様のもとに帰ってくるように
(悔い改め、赦され、重荷を下ろし、安らぐように)
というお勧めの言葉のように思えます。
【帰りなさい】・・・とは、家に帰りなさいということですから
放蕩息子は、【家】に帰りましたね。
【家】:主のおられるところ、もっとも安らぐことのできる場所・・・
常に、主イエス様のもとに戻り、帰るようにいたしましょう。
以上、今回は、クリスチャンの方向けのメッセージ、解釈でした。
*******************************
本日もお読みくださって、ありがとうございます。
今日もみなさまの一日が良い日でありますように。
神様の祝福、愛が皆様の上に満ち溢れますように。
下記、アイコン,
応援クリックもお願いできましたらうれしいです。<(_ _)>
(※下記ADスペースの広告と弊ブログとの関係はありません)