三陸〜庄内旅行記 3 | 武蔵野台地調査隊

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武蔵野台地の湧水と北アルプス中心の登山日記です

 3日目はかなり長距離の旅になります。花巻から秋田方面へ横断し、横田、大曲をへて高速を降りて、日本海方向の由利本荘に向かいました。

 楽しみにしていた霊峰 鳥海山がさっそく出迎えてくれます。

 

  この画像は仁賀保から見えた鳥海山の雄姿です。まだ秋田県です。

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山形県に入り吹浦というところに十六羅漢岩がありました。

岩に仏様が彫られているのです。当時、地元漁師の供養のために彫られたのだそうです。

よく見ないとわからないかもしれません。

 

そして、いよいよ庄内らしい風景が見えてきました。遊佐町付近です。

 鳥海山は藤沢周平さんのドラマや映画にはよく映されますよね。後ほど出てくる月山と非常に非常に秀麗な姿の山です。冬の厳しさを知らないからかもしれませんが、住んでみたくなる土地です。

 実は私のDNAの半分はここ庄内地方なんです。母方の祖父母が酒田の出身です。祖父は仕事で広島県福山市に遷り住み、母はそちらで生まれ祖父母の墓所もなので、これまで拙者が酒田に来る機会がなく、今回が初めてだったのです。もっと早く来たかった,と実感。

 

 遊佐町にある杉勇蕨岡酒造所。この杉勇(すぎいさみ)は酒田の銘柄で昭和のはじめごろまで祖父の一族が経営していた酒蔵でした。

 

  戦前に人手に渡りましたが、いまでも銘酒の味は引き継がれています。

 この日はお休みだったようで閉まっていましたが、感慨深いものがありました。

 

 

 

 大き目の酒屋さんで杉勇 純米吟醸 出羽燦々(でわさんさん)を買って帰りました。

 香りは甘めで、飲むとすっきり辛口。米の種類が出羽燦々という品種だそうです。

 

 そして、酒田へ。庄内藩といえば鶴岡に主城の鶴が岡城、酒田に枝城の亀ヶ崎城。

酒田には、豪商で大地主の本間家がありました。

庄内藩(当時は荘内)では、当時、「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」といわれるくらいの存在でした。実際に本間家はその財力で何度も庄内藩を救いました。

藤沢周平さんの「義民が駆ける」を読みましたが天保期の大飢饉の後に幕府水野忠邦から三方国替えを言い渡された事件の様子を詳しく知ることができました。また、幕末には戊辰戦争で薩長新政府軍らと戦いましたが、最強隊長酒井玄蕃の活躍で連戦連勝。これには本間家が手配した最新式の舶来武器が大活躍。負けないまま降伏し、その時にまたもや国替えの危機がありましたが、新政府に本間家が大枚を収めて乗り切ったそうです。

 

  本間家別邸 清遠閣・鶴舞園

 

 この年になると、和風庭園は気持ちが整います。

 

             灯篭越しに鳥海山が見えています。

 

        こんなふうに覗いてみると鳥海山がすっぽり。お見事。

 

 藩主酒井侯が領内巡視の際の休息所だったそうです。

 清遠閣には昭和14年には東宮殿下(昭和天皇)が宿泊したとのこと。

 自分のDNAの半分の故郷に始めて来ることができました。また来たいです。

 

 

そして鶴岡に移動し、鶴ケ岡城址公園へ。まずは、藤沢周平記念館をじっくり見学。
第1部は藤沢周平と鶴岡・庄内 
第2部は藤沢文学のすべて
第3部は作家藤沢周平の軌跡
企画展示は獄医立花昇手控えの特集が展示されていました。

 

 海坂藩の地図がありました。ご本人も城内に記念館ができるとは知らぬが仏でしょう。

目立つことを避けて生きた藤沢周平さん(小菅留治さん)ですから、意外でしょうね。

他には、周平さんの仕事場、自宅の書斎が再現されていて楽しかったですよ。

 

  庄内藩主酒井家の元祖は、昨年の大河であの海老すくいの踊りを披露した酒井忠次。

徳川四天王の筆頭家老でした。それゆえに幕末の戊辰戦争では東北列藩が寝返ったり降伏するなか譜代大名として最後まで佐幕派を貫いたのです。

 

 藩校の致道館。知識を詰め込むのではなく、自主性を重んじ自ら考え学ぶ意識を高めさせる方針は、徂徠学の教え。諸藩は幕府の方針に従い朱子学を藩学としていたが、庄内藩は荻生徂徠の提唱する徂徠学を廃校まで続けた。

 

 校舎の趣は、なんとなく昭和の木造校舎と似ています。

 

 致道博物館へ。これは郡役場。

 

  旧鶴岡警察署庁舎。取調室などがありました。

 

大宝館は大正天皇の即位を記念して建てられ、1985年までは私立図書館として利用されていたそうです。素敵ですな。

 

 

夕方まで庄内藩を堪能し、お宿の湯浜温泉に向かいました。

つづく