藤沢周平さんと北多摩 その2 久米川、清瀬、東久留米 | 武蔵野台地調査隊

武蔵野台地調査隊

武蔵野台地の湧水と北アルプス中心の登山日記です

 先日、周平さんが長く北多摩地域に住んでいた事を書きましたが、更に自伝ドラマを観たり自伝本を数冊読みましたので追記します。一言でいうとたくさんの苦難を乗り越えた藤沢周平さんの生き方を知ると、自分に何かこれまでにはない気持ちやチカラみたいな物が湧くような感想です。妙な表現かもしれませんが、将来穏やかな気持ちで終活できそうな気になりました。

 本名は小菅留治。山形県鶴岡の出身です。私の母方の祖父は隣の酒田の生まれでもあり、かつては同じ庄内藩、つまりは自分の血の半分は小説の舞台となる海坂藩となります。庄内藩は鶴岡に主城鶴ヶ岡城、酒田に枝城の酒田城を置いていたとのこと。もっとも周平さんの小説が祖父の故郷の話だと気づいたのは後年の事であり、母も書棚に周平さんの文庫本が並べていましたのでやはり読んでいたようです。

 わたしは、藤沢周平文学の大ファンだが、小菅留治さんの姿や生き方、エピソードも壮大なドラマであり、たいへん興味深く参考にもなると感じました。是非朝ドラでやってほしいです。今回、長女展子さんが書いた「藤沢周平 父との暮らし」と「藤沢周平 遺された手帳」を読んでわかったことは、留治さんはふつうの暮らしを大切に思い、人として極めて謙虚であり、真摯な姿勢の人だったことです。

 話を小菅留治さんのことに戻します。篠田病院林間荘は、鶴岡で最初に治療に通った中目病院の親類が開いたものであり、紹介されて入院したのですが、後々の結果からすれば山形から北多摩郡、そして留治の未来へと繋がる幸運な選択でした。

 

 

 今回は藤沢周平さんを留治さんと呼ばせてもらいます。篠田病院には留治さんの兄貴が付き添い入院しました。その際、高田馬場から車窓の風景が徐々に田舎になり、実はホッとしたそうです。緑も多くて酸素と紫外線を浴びることが当時は良いとされていたのです。多摩の自然が一役かっていたなら良かった。

病院の周辺は雑木林と麦畑に囲まれていた(昭和28年頃)

 

 一方で、留治さんは入院したころ、正直なところ病気の見通しは暗く、この場所で病気に負けて死んでゆくのかもしれない予感もあったと。しかし、手術は成功し長い治療に耐え抜き、見事に回復されました。退院後は小説を書きながらタバコをふかしたこともあるそうなので凄いです。

 退院後の住まいですが、まず練馬区貫井、次いで昭和38年には清瀬町上清戸。展子さんの記憶ではここは駅から真っ直ぐ歩いて遠くはなかったと。水道道路付近と推測。ここには先妻の悦子さんが展子さんを産んだ頃に転居しています。出産後末期癌が分かり、半年余りで亡くなってしまう。28歳という若さで、これからという幸せな時期の真ん中にいたのに。亡くなるまでと亡くなったあとの苦悩は、「半生の記」と「藤沢周平 父の遺した手帳」に記されています。特に手帳には悦子さんへの哀悼が繰り返し叫ばれており、その後の小説の内容にも通ずる感じがします。どうする事も出来ない苦悩から抜け出せず、食品業界新聞社に勤めながらも小説を書き続ける事だけが頼りだったのかもしれません。

 

    上清戸は今のけやき通り沿いに駅から近い

 

その後、昭和39年には同町都営中里団地に抽選で当たったと。こちらは駅からは小金井街道を北上するバスだったかもしれませんね。調べたらバスだとわりと近くですね。ここには留治さんの母親と娘の3人で暮らしていました。

 

    地図左上柳瀬川沿いに中里団地があります

 

 2016年に一人娘(遠藤展子さん)のエッセイ「藤沢周平 父との暮らし」がドラマ化されています。これは再婚時のドラマなので中里団地時代が舞台かと思います。展子さんは昭和38年のお生まれなので、少し上ですが我々と同世代です。ドラマには、ある川と橋を渡るシーンが度々出てます。近くには柳瀬川がありますね。でも橋渡ったら所沢?勤務先は新橋あたりだったようですから遠かったでしょう。そのため毎夕娘の保育園への迎えに遅刻していました。しかし、昭和44年には後妻となる和子さんと再婚しました。病弱な母と幼い娘をみながら新橋に通勤し、合間で小説を書く中、倒れる寸前に木にしがみついた思いで再婚したと(「半生の記」)

 

   東久留米駅から金山町の家までは坂道だった

 

 昭和45年には東久留米町金山に自宅を購入。金山の雑木林はいまでも残されています。「父との暮らし(大雨な日に)」にはこの家が建っていた場所の地形が描写されています。「駅から歩いてくると緩やかな坂があり、その坂の途中で右側に急な坂が現れます。さらにその坂をのぼりきった上に家があった。坂を降りると文房具屋、その向かいにはKストアー」とあります。金山町は黒目川の北側にあり、坂道がいくつかありますね。確かに坂を下った川べりにはスーパーもありますね。

私が、スポーツセンターに通う際にいつも気になっていた金山の森の近くに住んで小説を書いていたのですね。勤務先の新橋までは相変わらず遠くて大変だったことでしょう。

 そして、小説は昭和46年に北斎の晩年を描いた「くらい海」でオール讀物新人賞、48年には海坂藩が登場する「暗殺の年輪」で念願の直木賞を受賞。東久留米町から生まれた直木賞作家だったんですね。こう書くととんとん拍子で受賞したみたいですが、実は直木賞は4回目の候補の末の受賞。留治さんはこの作品は力不足だと思い、編集担当者に取り下げようかと言うと、候補になる事自体が得難いチャンスだと厳しく言われ、自分の傲慢さを恥じたと「小説の周辺(出発点だった受賞)」、で述べている。留治さんはとても謙虚な人です。直木賞の暗殺の年輪は誰もが認める名作ではなかったが、おかげで、その後も自分は努力する必要があった。受賞はゴールではなく出発点だったとも書いています。

 このあと、作家としての仕事の依頼が増えて勤め仕事との両立が難しくなり、新橋の会社を退職し作家のみに専念しました。

 留治さんはまた、感謝の気持ちを忘れない人でもあった。留治さんの思う「えらい人」は、冷害の田んぼに立ちつくす老いた農民だったり、子供の時から桶作り一筋に生きてきた老職人だったりする(周平独り言)。小説の中では、台風で決壊寸前の堤防を守ろうとする村人や、裏で不正を働き私腹を肥やす重臣と対峙する下級武士だったりする。そして、留治さんが忘れえない人達は、肺の手術を受けた保生園で確かな熟練の技術できびきびと働き、献身的に看護をしてくれた一群の看護婦さん達。彼女たちのことは生涯忘れえない、深く感謝していると。助からないかもしれないと思っていたが、自分はこの人たちに任せるしかないと。(「小説の周辺」心に残る人々)留治さんにとってはこの人達は最高に偉い人ですね。執刀した医者の話が全く書かれていないのも不思議ではありますが、留治さんらしいですね。

 

      当時の保生園の地図と画像

 

 普通が一番の他にも挨拶は基本、自慢はしない、目立つことは嫌いなどが娘が父から聞いていたことだと。特に印象的なことは、結核からの生還、最愛の妻の死などを乗り越えた人生で、留治さんは普通であることの難しさ、普通であり続けることにこだわったのだと。

 昭和52年頃からは大泉学園に新築の家を買い、著名な作品を生み出しました。ここが終の棲家となります。晩年は肝炎を発症し平成9年に69歳で他界します。肺結核の手術で多量の輸血をした事が原因ではないかと。早逝に思えますが、50歳の誕生日には思ったより長生きをしたと述べているように、苦難の多い人生だったのかもしれません。しかし、多くの作品の中に留治さんはまだまだ生き続けていますからね。そして今頃は極楽浄土で悦子さんと再び寄り添い、展子さん、和子さんを見守っていることでしょう。