藤沢周平さんと北多摩 | 武蔵野台地調査隊

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武蔵野台地の湧水と北アルプス中心の登山日記です

 藤沢周平さんといえば時代小説の作家であり、映画でもたくさんの有名作品がありますね。私が藤沢さんを知ったのも映画蝉しぐれでした。濡れ衣を着せられて切腹した父親の遺骸を引き取り、大八車で汗だくになりながら坂を上る少年と、それを助ける少女のシーンは泣かされました。その他にもたくさんの小説や映画を読み、観ました。大方は藩の重役に悪党がいて、真っ当な下級武士がリベンジするといったストーリーなんですが、ラストは爽快です。武士の一分や隠し剣鬼の爪なんかもそれでした。

 そんな作品を多く残した藤沢周平さんですが、昭和28年に山形県鶴岡から肺結核の治療で、上京したそうです。その数年前、教師だった藤沢さんは集団検診で肺結核がみつかり、東京の結核専門病院を推薦される。清瀬や東村山は複十字病院をはじめ結核の療養所が多くあったようですからね。藤沢さんは東村山町の篠田病院林間荘に入ったとのこと。ちょうど旧い地図を見ながらさいかち窪付近を調べてきたので、ある日目に留まりました。お!篠田病院ある。しかも近い。

 

篠田病院林間荘は今は久米川ボール

 

この地図は藤沢さんが上京されたころの昭和26年作成のものです。篠田病院は今の久米川ボウル付近にありますね。けっこう身近に滞在されていたのですなぁ。周りは畑や雑木林ばかり。近くには、野火止用水、さいかち窪やオオカミ窪もあります。もしかして散歩して湧き出した湧水を見たかな?

 

篠田病院林間荘の空中画像
 

 空中写真ではかなり建物が林立した病院にみえますね。主に平家かとは思います。戸建てのような離れは、バンガローと呼ばれていて、回復して退院間際の人達が入ったそうです。林間荘というだけに周囲は畑や雑木林なり。畑の多くは麦畑だったそうです。夜はあたりは真っ暗で、昼間はのどかだったかな。治療で上京したものの、やや寂しい土地で病もあり不安だった事でしょう。肺結核はまだまだこの頃は、易しい病ではなかったので、忍び寄る死の予感もあったかもしれません。

 入院後の検査で藤沢さんは外科手術か化学療法が問われて迷わず手術を選んだそうです。提携する保生園(現 新山手病院)にて肺の一部を切除したとのこと。手術は3度にも及び最後はくたくたの状態でしたが、看護婦さんたちの献身的な働きにより回復できたんだと。この保生園は八国山の際にあり、トトロで母親が入院してた病院のモデルになっていた場所なんだそうです。

 入院中に見舞いに訪れた女性がいた。同郷出身で、後に妻となる三浦悦子さんだった。

 術後は再び篠田病院に戻り昭和32年11月まで療養していました。

 翌33年夏にはキティ台風の大雨でオオカミ窪が出水していますが、もうその頃には退院して練馬に移り住んでいたそうです。鶴岡で教師への復職をめざしましたが、戻れずに東京で業界新聞編集の仕事に従事するも生活は不安定。そして結婚。子供は1人目が流産で2人目は生まれたが、そのわずか半年あまりで妻が癌で急死。28歳という若さではたいへんお気の毒なことでした。藤沢さんにとっては、自身が入院した期間よりも辛い出来事だったかもしれません。妻を助けることができなかった嘆きや、辛さがしばらく重苦しかった事でしょう。当時、結核や癌はまだまだ死の病であったし、現代とは死生観も違っていたことでしょう。

 さて、その後は清瀬市上清戸、中里、昭和45年には東久留米市金山町に転居しています。作家としては43歳での遅いデビュー。翌年にはオール讀物新人賞、さらにはその後直木賞などもとり、著名な作家となっていきました。最後は紫綬褒章まで。

 小説の中では特に下級武士や庶民など弱者への愛情を感じます。深みのある内容は彼の様々な人生経験が関わっていそうですよね。鶴岡で教師になる前は昼間働きながら中学の夜間部で学び、師範学校(教育学部)に進みました。苦学、自身の病気、最愛の妻の死を乗り越えてからの作家デビューだったのです。自分の大好きな作家がとても身近にいたことに驚き、調べてみたら苦労の人生を経験されていました。

最近は、引退後の余生を題材にした三屋清左衛門残日録を楽しんでます。自分がそれに近づいてきたからか。

 

参考図書

半生の記 文春文庫

周平の独言 文芸春秋社

小説の周辺 文芸春秋社