その後、彼が淹れてくれたミルクティを飲み終わる頃、
「おや、もう雨が止んだ様どすな」
ソファに座ったまま、首を伸ばして窓の外を見る。
その視線を追って私も窓の外へ目を向けると、さっきまであんなに激しく降っていた雨はまるで嘘だったかのようにあっさりと止んでいた。
私は丁寧にお礼を述べて、彼の家を出る・・・。
男性の名前は古高さん。
来年東京で仕事をする予定があって、その打ち合わせやら下見やらで地元の京都を離れて1カ月間こちらに仮住まいしているという話を聞いた。
どんな仕事をしているのかは詳しく詮索しなかったが、彼の物腰の柔らかさや安心感を与える笑顔から、弁護士やお医者さんとかかな?なんて勝手に想像して。
(いつまでもこのシャツを借りている訳にはいかないし、出来るだけ早く返しに来なくちゃね)
マンションを出て少し歩いてから、なんとなく振り返って古高さんの部屋のあたりの窓を見上げると出窓の部分で白く小さな何かが動いた。
眼鏡が壊れてしまったのでただ全体的にぼんやりと見えるだけだったが、きっと古高さんの子猫に違いないと思い、私は自然と笑顔になる。
(・・・また降りださないうちに帰らなきゃ)
彼の手当てのおかげで足を引きずらずに歩けるようになった私は、駅を目指してその場を離れた。
それから3日後。
お礼の意を込めて新宿駅の洋菓子店で購入した焼き菓子と、クリーニングから引き取ったばかりのダンガリーシャツを持って、再び古高さんのマンションを訪れていた。
何を着て行こうかとか、お礼の焼き菓子はどんなものがいいかとか、予定よりも凄く時間がかかってしまってマンションの前に着いた頃にはとっくに昼を過ぎてしまっていた。
ここに来た理由の一番はもちろん、借りていた物を返しに来たというものだったけれど、また古高さんに会えると思うと自然と心が弾んでいたのだ。
しかし、何度インターホンを鳴らしても応答はなく、マンションの入り口に備え付けられた宅配ボックスへ入れて帰ろうと考えた。
古高さんの部屋は405号室。
(きちんとあの時、電話番号かメールアドレス聞いておけば良かったな)
彼の不在時に訪れた事で自分のミスを後悔をしつつ、“預ける”のパネルを押すと≪アズケル ヘヤノ バンゴウヲ オシテクダサイ≫と画面に表示される。
405とパネルを押すが、≪ガイトウスル ヘヤハ アリマセン≫の表示・・・。
(どういうこと・・・?)
操作を間違ったのかもしれないと、私はそれから2度、3度とパネルを慎重にタッチする。
それでもやはり同じ表示の繰り返し。
(おかしいなぁ?まだ1週間以上は居るって言ってたのにな・・・)
ボーゼンとしながらマンションの正面に廻ると、掃除道具を持ってマンションから出て来る管理人らしき年輩の男性を発見する。
「あの、すみません・・・405号室の古高さんを訪ねてきたのですが」
声をかけると、やはり管理人だったその男性は
「ああ、あの人かい?確か予定が変更したとかで昨日引っ越していったよ」
ずり下がった老眼鏡を人差し指でくいっと上げて、優しそうな笑顔を見せる。
「・・・あのっ」
その場を立ち去ろうとする管理人さんに再び声をかけて、引っ越し先をご存じじゃないですか?と問う。
「さあねえ、そう言う事はわからないし、知っていても教えられないんだよ」
同情するような表情になって、ごめんねと言うと管理人さんはそそくさと私に背を向けて行ってしまった。
それから約1年後、こうして再び古高さんに会う時が来るなんて思いもよらなかった。
しかも、歌舞伎町のホストクラブでだなんて・・・。
あの日眼鏡が壊れてしまったど近眼の私は、はっきりと彼の顔の詳細まで記憶してはいなかった。
しかしそれは、裸眼時の視力の悪さだけが原因ではない。
初対面の男性の顔をまじまじと見る事が憚られたし、あの時は味わった事のない緊張感を抱いていたから。
それでも彼に借りたシャツはあの日のまま、クローゼットに大切にしまってある事を思い出す。
覚えてくれてはったんですね、という言葉で、彼が自分の事を覚えていてくれたのだと理解して焦ってしまった。
1年前は、古高という名字しか聞いていなかったので“俊太郎”という名前にピンと来ることもなく、先ほど慶喜さんにアルバムを見せてもらった時にはあの古高さん=俊太郎さんだと言う事に気がついていなかったのだから。
「古高・・・さん・・・」
「はい、なんどすか?」
私が名字を口にすると、首を少し斜めに傾げて、ゆったりと笑顔で答える。
「あ、あのっ・・・私、借りていたシャツをお返しに伺ったんです」
「そやった、そやった」
思い出した、という風に手を叩いて
「あん時、わては急に京都へ帰らないかん用が出来てしもて」
何度か頷いた後
「連絡先も交換せなんだし」
そう言って懐から名刺を取り出した。
「はい、改めまして。古高俊太郎いいます・・・古高さんはなんやくすぐったいし、俊太郎と呼んで下さいね」
今日はコンタクトをしていたからハッキリと見えた。
黒目がちで優しそうな瞳、綺麗に通った鼻筋、形の良い唇。
和やかな笑顔で見つめられて、胸の鼓動は一気に加速し始めた・・・。
「あっ・・・はい、宜しくお願いします」
名刺を両手で受け取る時に掠める様に指先が触れ合い、それだけでまた私はときめいてしまう。
(改めて間近で見ると、こんなにカッコいい人だったなんて・・・なんか、緊張しちゃうな・・・)
急に俊太郎さんを意識し始めて真っすぐに顔を上げられなくなった私は、誤魔化す為に貰った名刺を何度も裏返して見てみたり、それをのろのろとバッグにしまったり。
無駄な動きで赤面が治まるまでの時間を潰す。
「ねえ、何飲むか決めたん?」
不意に花ちゃんに声をかけられて、まだ何も頼んでいなかったんだと気がついて、私たちは飲み物をオーダーする。
花ちゃんと私が赤ワインをオーダーすると、龍之介さんと俊太郎さんも同じもので、と頷いた。
やがて私達のテーブルにワイングラスが4つ運ばれて来て、その場で運んで来た男性が手際よく赤ワインを注いでゆく。
注がれたグラスを花ちゃん、龍之介さんの順で手に取ると、2人は一足先にその場で、かんぱーい!と飲み始めてしまった。
残った2つのグラスにもワインが注がれると、俊太郎さんは自分のグラスを持って、もう片方のグラスを私に手渡す。
そして目許を和らげて笑うと
「わてらの再会に・・・」
私の耳元に口を寄せ、こっそり囁いた。
≪俊太郎編3へ続く・・・≫