月が一つ見える。まん丸に近い形で光っている。活動するなら今のうちだ。
 ネコ科動物たちに嗅ぎつけられないよう注意を払いつつ、砂漠を移動する。ネコ科は素早い。あ、こいつこのぼくを仕留めようとしているな、とこちらが気付いた後警戒態勢を取る暇も与えず、食らいついてくる。
 とはいえ彼らネコ科動物が、日頃食料としてかぶりついている動物たちとレイヴンとは、見た目も大きさもまったく違う。間違えて食いつかれたということはまず絶対にない。では何故食いつかれるのか。
 正直なところレイヴンにもわからない。それを研究しているという話も聞いたことがないし、これこれのためではないかという仮説らしきものも見たことがない。
 レイヴンが思うに、ネコ科たちはレイヴンのことを「玩具」だと見なしているのではないだろうか。見たことのない、あるいは滅多に見ることのない、しかしさほど怖れる必要もない相手──モノ。
 腹を満たすことはできないが、思うさまかぶりついて咬み砕いて、気が向けば飲み下してやってもいい、ただそうやって楽しく過ごせるモノ。子どもがではなく、大人のネコ科動物たちが。
 ふう、と溜息をつく。
「ねえ、レイヴン」コスがそっと呼びかける。「キリンにね、こんなことを教えてもったんだ、ぼく」
「うん?」レイヴンは収容籠に触手を触れた。「起きてたのか、コス──キリンに? どんなことを?」
「才能というのは、何も努力しなくても何かができるということじゃない、って」
「へえ」
「それは、何かができなくてもできなくても、どうしてもできなかったとしても、それを諦めずに食らいついていくことなんだって」
「──」レイヴンはキリンの姿を思い描いた。「そう──それはもしかして、キリンの首の長いことを言ってたのかな?」
「どうかな……でも首って、才能なの?」
「あんなに長い首は、そりゃあ才能といってもいいんじゃあないかな。地球以外であんなに長い首は見たことがないよ」
「へえー、そうなんだ」コスは素直に感動している。「ゾウの鼻も?」
「鼻、うん、そうだね。似たような鼻の生き物はいるけれど、ゾウの鼻もすごいよ。器用だし」
「そうか、そうだね。ゾウもキリンも、すごいや」
「うん。さあ、おやすみ、コス」
「はあい。おやすみなさい、レイヴン」
 ベッドタイムストーリーはかくして終わり、レイヴンは静寂の中道行を続けた。
 月を見上げる。
 たった一つの月。
 寂しそうではある──けれどきっとあの月も、今のレイヴンのように自分のやるべきことを地道にやり遂げて、それが終わればまた次のやるべきことに取り掛かって、と終わりのないサイクルを真面目に繰り返しているだけなのだろう。
 才能、か。
 周囲から見ればそれは称讃に値しうらやましがられるものかも知れないが、キリンがコスに教えた通り、それは決して派手でも楽でもない代物なんだな。
 そう、ぼくも真面目にこつこつ、道に外れることもなくきちんと仕事をして、必ず無事に故郷へ帰り──
 巨大な無数の牙。
「え」
という間もなくレイヴンは、ライオンに食われた。
 視界は暗闇となり、音は途切れ、月の姿も見えなくなった。
「コス」呼べど返事が聞こえることもない。
 収容籠は──大丈夫、殻との接続が断たれたことを感知したら即座に上空へ舞い上がり危険を回避するようにできている。コスは護られており無事だ。
 そしてぼくは──ああー、もう……ちきしょう。
 レイヴンは地団駄を踏みたい気持ちだった。キリンの「食らいつく」に心温まる想いをした次の瞬間「食らいつかれる」なんて。ばかばかしいにもほどがある。
 再生までに、まる三日はかかるだろうな。
 ライオンの食道内をゆったりまったりと飲み下されてゆきながら、レイヴンは苛立ちを抑え切れなかった。
 またあの、強烈な胃液で溶かされて、大部分の素粒子を吸い取られて、代わりにひどく無遠慮で無愛想な細菌どもをくっつけられて、排泄されるのを待たなけりゃならない。
 ああー、もう! ちきしょう!
 その過程をただ待つのみというのも癪だし口惜しいし退屈なので、ちょっとばかり報復行動に移ってやろうとレイヴンは思いついた。
 胃に到着した後、素粒子をいじって地球生物にとっての大層な毒素をほんの僅かだが合成し、ばらまいてやったのだ。
 まあ、こいつがくたばるとしてもぼくをひり出してからになるだろう。
 あーあ、もう。
 こればれたら、クビだけどな……いや、クビだけじゃすまないかも。
 まさか、僕らの子どもにまで影響が及んだりとかは、ないよな?
 法律では、僕だけが罰せられる事になって、家族には何の罪も課せられないよな?
 若干の不安に怯えた次の刹那、レイヴンは脳まできれいに消化され、思考を停止し、もはや彼には才能とは何かについて、考えることができなくなった。

 

「探しに来てくれて、見つけてくれたのは嬉しい。ありがとう、レイヴン」
 コスは収容籠の中に大人しく──あるいは諦めを抱いて──入った後で、そういった意味の声で啼いた。
「どういたしまして。心細かっただろう、コス。よくがんばってくれたね」レイヴンはそっと収容籠に触手を触れ言葉を返した。
 コスは黙っていた。
 レイヴンはマップを広げ、一時記憶角質上の情報に沿って道筋を記して行く。沈黙の中、殻と収容籠は大気分子を押しのけながら浮揚推進して行った。
「──」レイヴンは幾度もサブ触手を使い彼自身の本体を撫で擦らなければならなかった。何故なら、コスが大人しく──或いは諦め切れない何らかの“気持ち”を抱き続けながら──その何らかの気持ちの構成分子をちらほらぱらぱらと周囲に撒き散らして来るからだ。ああ、そうだな。君はそう思っているんだろう、コス。そして他ならぬこのぼくに、その気持ちについて鑑みたり慮ったり、つついて欲しいんだろう。ああまったく、ぼくは一体何をしにこの星へ来てるんだ。わかったよ訊くよ、振るよ。まったく。「あの偶蹄類のレディは美しかったな」
「そうでしょ! ぼくもう一目惚れしちゃってさ!」コスの歓喜と幸福と性的興奮を司る分子たちが、花の雨のように降り注いだ。「彼女いいよね! なかなかお目にかかれないよあんなキュートなひと!」
「ははは、君にとっての初恋か」レイヴンは少し笑ってこの話を終えようとした。
「ぼく、もうここで結婚しようかなって思ってたんだ」だがコスの声に悲哀の要素が入り混じったことで、レイヴンは眉間に皺を寄せなければならなくなったのだ。
 ああ、やっぱり言及するんじゃあなかったよ! あのレイヨウの女のことなんて!
「待てよ君、コス。君はここがどこなのか解っているのか?」
「地球でしょ」
「そう、地球だ。そして君、コス、君は結婚というものが、ただ男女二人でいつも一緒に走り回って、並んで草を食べることだとは、思っていないよね?」
「うん、ぼくたちはたくさん仔を産んで、家族になるんだ」
「それは」レイヴンはゆっくりと触手を回し、大きく円を描いた。「ここ地球に、コス、君の遺伝子を遺すということだ。それは何を意味する?」
「地球に新しい種族が生まれる」
「そう。つまり擾乱だ。地球生物の生態系の」
「そんなに大仰に言わなくても」
「言うともさ」
「だってどうせ、ぼくたちの仔は生殖能力を持たずに生まれるんでしょ?」
「わからないさ、そんなことは。断言できるものじゃない」
 コスはついに黙り込んだ。
 殻と収容籠は静かに浮揚推進をし続ける。
 レイヴンには、達成感も、ましてや勝利者気分などというものも、感じられはしなかった。逆に、いやな予感しかしなかった。
「でも、レイヴン」ついにコスがそう呼び掛けた声の放つ分子が、その予感の当たったことを報せた。「ぼくの、幸せに生きる権利は?」
「──」レイヴンの目には、書きかけの地図のみ映っていた。
「ぼくはもう、この地球で生きて行くしかないと思った。それなら、この地球で、ぼくは幸せに生きられる方法を探さなきゃならない。ぼくは間違っている?」
「もちろん君は正しいよ、コス」レイヴンはすぐに答えた。「君には幸せに生きる権利がある」
「じゃあ」
「そしてコス、この地球にも、平和を維持する権利があるんだ」レイヴンは地図を見たままで言った。「誰にも乱されず、壊されない平和の上に存在する権利がね」
「──ぼくの幸せが、地球の平和を壊すの?」
「絶対にそうだというわけではないかも知れない。だけど、可能性はゼロじゃあないんだ」
「──」コスは長い間黙り込んでいた。
 殻と収容籠は、静かに進み続けた。
「わかったよ、レイヴン」ついにコスは理解を示した。「ぼくはもう、この星で結婚なんてことは考えないよ」
「ああ」レイヴンは深く安堵した。「ありがとう、コス。わかってくれて」
「ふふふ」コスは少し寂しげに笑い、そして言った。「レイヴンは、地球のことがとても好きなんだね」
「ぐっ」
 レイヴンの視界に白い閃光が走り、次の瞬間彼の構成分子は文字通り木っ端微塵に吹き飛んだ。
 コスを乗せた収容籠と、レイヴンの粒子を内部に漂わせた殻は、さらに先へと進み続けた。

 へいいいいいん

 

「うわっ」

 突如耳を襲った大怪音に、レイヴンは思わず身をすくませた。

 ぱうあああああ

 ぽほおおおおお

 えわわわわわん

 怪音はなおも続いた。どこから聞えてくるのか――あちこちだ。

 きょろきょろきょ

 くやああおんんん

「ああ」レイヴンは思い切り顔をしかめながら、頷いた。「繁殖期か」

 れられられられら

 ぴわわわんわわん

 そう、今回この星に降り立つにあたり、気絶したレイヴンの耳を刺激し呼びさましてくれたのは、動物の雄たちが雌たちに送る、求愛の音声ないし音波だったのだ。ちなみに前回は、人間たちが何か物を生産する工場の大音響がそうしてくれたのだった。

 みょほほほほほう

 ぱらはりわおんん

「派手なプロポーズだな……まったく」

 いったい、こういった求愛の声に喜んで応える雌ってものが、いるんだろうか――まあ、いるからこそ地球に今も生命が溢れているわけだろうけど。

 

 にょん

 

 レイヴンは、はっとした。「あれ」顔を上げる。

 今かすかに聞えたのは、地球の動物のものではなかった……確かにそうだ。意味もなく目を左右に走らせる。むろん見えるはずもない。

 

 にょるるん にょん

 

「コスか」レイヴンは叫んだ。「見つけたっ」

 どこだ? どこにいる? レイヴンの興奮はたちまちのうちマックス値に達した。

 ラッキーだ! なんという、幸運なのだろうか! 地球、この呪われた星に到着した瞬間、さっそく一匹目が見つかるなんて! これは、このいやな任務に黙って従いここまで来た自分への、ご褒美だ。きっとそうだ!

「きゃっほう」叫ぶ。

 だが喜んでばかりもいられなかった。これから、着地体勢に入らなければならないからだ。

 着地体勢といっても、レイヴン自身が何かを操作したり体の状態を変化させたりすることはできない。とにかく着地するまさにその瞬間まで、彼には何も為す術がないのだ。

 整えておくべきは“心”だ。“覚悟”と呼ぶ方がふさわしいかも知れない。着地した瞬間に襲って来る、敵どもへ対応する為の覚悟だ。

 敵どもといっても動物たちのことではない。むしろ注意すべきなのは、着地先の環境に既存する植物たちの方だ。突然やって来た外来の“よそ者のタネ”であるレイヴンは、油断しているとあっという間に他の既存植物たちの根に養分を吸い取られ、再起不能のガス状態になってしまうだろう。

 そうならない為には、着地と同時に駆動器官を超高速形成しなければならない。そう、養分を奪われきってしまう前に。競争だ。まさしく生存競争だ。

 レイヴンは、自分の心が隙間なくフラットになっている事を自覚し、誇りに思った。いける。今回も、自分は間違いなくこの惑星で任務を遂行することができる。そしてまた、故郷へ還るのだ。大丈夫!

 土の匂いが感知されると同時に、レイヴンの構成物質は遺伝子データに則り走り出した。

 リンと酸素と炭素をつなぎ合わせ、その中に光を取り込み電子のエネルギーを高めて送り出すと同時に水からも電子を引き抜く。さらに光を取り込み電子エネルギーを高めていく。

 酸化と還元を繰り返して化合物を次々に生み出し、あるものは排出しあるものは再利用する。

 レイヴンは地球の植物たちの仕事スピードのおよそ五十億倍の速さでエネルギー生成をこなし、最終的に、彼奴らの貪欲なひげ根に掴まるコンマ00356秒前、再構築した触足で大地を蹴り上げ、大気中に退避することができたのだった。

 ほう、と大気分子中を漂いつつ息をつく。

 さてそして。

「コス?」再び呼びかける。「どこにいる?」

 答える鳴き声はない。

「コス」再度呼ぶ。「おいで。一緒に帰ろう」

 どこかに移動したか――または何かに追われて逃げ出したのか?

 ――待ってろ。必ず助け出してやる。

 レイヴンは再構築した殻をサブ触手中から解放し、ただちに乗り込み発進した。

 ――すぐに行くからな!

 宇宙で迷子になった動物たちを探し保護するのが、レイヴン=ガスファルト達の専門とする仕事だ。

 無人の偵察機が銀河の中を飛び回り、動物が迷い込んでいる――あるいは捕獲されている――と思しき惑星の“当たり”をつけ、その星に、レイヴンら保護係が赴くのだ。

 残念なことに、それぞれの惑星において絶命が確認される動物の数も、少なくはない――なので今回のように、元気のよさそうな鳴き声が聞えるというのは、大変に喜ばしいことなのだ。

 なにがなんでも、連れて帰る。

「コ──ス。にょるるんるん、コ────ス」レイヴンはコスの発する鳴きの周波数を模してもう一度呼び掛けた。これなら、間違いなく味方が来てくれたということを察知し安心してくれるだろう。「にょんにょんにょん、コ──ス」

 ぱうああああ

 へいいいいん

 きゅるきゅるきゅるきゅ

 レイヴンの声に反応して、ということでは絶対にないのだろうが、地球産動物たちの発する爆撃音じみた求愛音声が巻き起こる

「うるさいな、まったくもう」レイヴンは焦燥し叫んだ。「にょんにょん、コス、にょるるんにょん」

「うれしいけど、それじゃ弱いわ」突如誰かの声が話しかけてきた。

 レイヴンは息を呑むよりも早く瞬時に警戒態勢を取り周囲の情報収集にエネルギーの九十七パーセントを注いだ。

「そもそもなあに、その体。貧弱すぎる」声は続けてそう言った。

 雌生物だろう。どこにいる? どこから語りかけて──ぼくに? そうだそもそもというならそもそも、この声は誰に向けて話しかけているのか?

 

 にょうううん

 

 はっと硬直する。コス! コ──

「えっ、まさか」レイヴンは自分の直感を自分で否定した。「そんなこと、あるわけが」

「うふふ、わかったわよ、おませさん。やっと大人になったかどうかってところなのね。だけどあなた、本当にウシ科なの? インパラ……ではなさそうね。角が短すぎるし、群れからも離れすぎているし」

 にょるる、るるるん

「え? ウシでもシカでもヤギでもないって? じゃあウマ?」

 にょん

「コス?」雌生物がそう訊き返した時、やっとレイヴンは“その場”に辿り着いた。

「コス!」叫ぶ。

 にょん

 返ってきた声が自分に向けられたものなのか艶めいた大人の草食雌生物に向けられたものなのかわからなかったが、それはどこかしょんぼりとして元気がなかった。

 

 感受帯角質に正式な辞令が届いたのは、その日の夜だった。

『レイヴン=ガスファルト 上記の者を地球方面行方不明動物捜索捕獲係に任命し、地球への出動を命ずる』

 すべての準備を終えてから、レイヴンはふう、と息をついた後でそれを正式に受感した。二度、読み返す。それから、自宅の窓の方へ振り返る。

 灯りの下で、子どもたちとラサエルのシルエットが浮遊している。本体洗浄を終え、睡眠の準備をしているところだ。今のうちに、行く。

 子どもたちには、彼らが本体洗浄ブースに入っていく前、最後にキスをした。

「パパは今から仕事で何日か留守にするよ」ちゃんと説明して、見上げてくる大きな瞳たちの上のところを触手の柔らかい部分で触れてやる。

 レイヴンの触手から子どもたちの中に、安心感をもたらす電解質が流れ込み、子どもらはにっこりと微笑んでレイヴンに抱きついてきたのだった。

「パパ、行ってらっしゃい」ケイシが美しく澄み渡った声で言ってくれる。「お仕事がんばってね」

「ばいーん」ナウルも、お兄ちゃんと同じ内容を言っているつもりらしい。「あいーん。ばーん」

 レイヴンは顔をほころばせ、もう一度子どもたちを触手の中に閉じ込めて、それから解放した。「お父さんの言うことをよく聞いて、いい子にしてるんだぞ」

「はい」ケイシが頷く。

「ぱい」ナウルも。

 

 レイヴンを閉じ込めた殻は、雲流を突き抜け電磁界を突破し、宇宙へと飛び出した。すぐに彗星に乗る。それから小惑星に飛び移り、衛星につかまり、スイングバイして再び小惑星へ。こういった移動プロセスは、殻自体の遺伝子の中に組み込まれている。機に乗じろ。言葉で表せば、そんなところだ。

 レイヴン自身は何も操作する必要がないので、彼は殻の中で素粒子化し漂っていた。万一予期せぬトラブルが起こった際、彼の構成物質は殻に好きなだけ使わせてやる。その為目的地に着く頃には、レイヴンの体積が半分ほど減少していることもある。だがそれはそんなに問題ではない。今回の目的地、地球で、レイヴンの体を再構築すればいいだけの話だ。地球の構成物質を拝借して。というか、横領して。

「地球、か……」レイヴンが呟くのは、またしてもその惑星の名だった。

 地球へは、かつて行ったことがある。もちろん仕事でだ。そしてレイヴンはその仕事を終えホーム惑星に還った。もう二度と、こんな所はごめんだと思いながら。実際、自分のような遺伝的特質の者には無理な場所だと、つくづく思ったのだ。

 一体なんだって、自分がまた地球行きに選ばれたんだろう――いや、解っている。行ったことが、あるからだ。そして、何事もなく戻って来ることができたからだ。まったく何の損傷もなく、無傷で。再稼働可能な状態で。それはつまり、レイヴンの本体に物理的損傷がなかった、ということだ。

 しかし、精神的損傷は?

 とはいえ、そもそも物理的損傷と精神的損傷のボーターラインって、どこになるのか? 感受帯角質に飛び込んでくる情報なんか見たくもなくなるほど精神が疲弊しきっている場合、やがて受信そのものが不安定になったり、機能しなくなったりすることもある。その状態は単に「機能障害」と呼ばれているが、これは果たして物理的損傷なのか、精神的損傷なのか?

 前回地球から帰還したばかりのレイヴンには、感受帯角質に届く情報への抵抗あるいは拒否という反応は顕現していなかった。なので(無論判断基準は他にも多数あるが)、物理的損傷なしとの判断が下された。しかしその時点で、もし

『レイヴンすまないが、ただちにもう一度地球へ行って来てくれ給え』

という内容の指令が届いたとしたら、どうだったろう。

 端的にいってレイヴンは、それを見なかったことにしたに違いない。そして何度も、その反応は繰り返されたに違いない。そしてその結果、

『レイヴン・ガスファルトに物理的損傷あり』

という判断が下されたに違いない。感受帯角質への受信不可(ただし一部)という、症状だ。それは果たして、物理的損傷なのか? それとも――

「まじ無理だから!」

と全力で任務を拒否拒絶し地団太を踏む、子ども染みた我侭、頭のこわれたレイヴン=ガスファルト、つまりは精神的損傷、なのだろうか?

 そんな、とりとめもない想いにつらつら身を任せるうち、ふわり、と音もなく光が差し込むのを感じた。レイヴンは好き勝手ただよう素粒子の一部を寄せ集め、視覚野を形成し、それを確認した。

 青白い、光。

 ――ああ。

 視覚野だけの状態であるにもかかわらず、彼は深く息をついた。そして視覚野に捕えられているものが単なる惑星の姿でしかないにも関わらず、彼にはその荒野が、見えていた。

 どこの荒野か、どこにある景色なのかはよくわからない。けれどレイヴンの記憶の中に――というか記憶の片隅に……あるいは記憶の“ギリ外側”に、その荒野は密やかに存在している。それは――地球の景色だ。地球のどこかにある、荒野だ。

 レイヴンは地球が嫌いだった、が、その景色だけはどうしてか、堪らなく懐かしく、恋しく想うのだった。

 場所との相性、というものも、あるのかも知れないな。

 レイヴンはそんな風に思う。

 ぼくはここに再びやって来て、今、安心している――不思議なことに。

 まあ結局は、心を病むほどの要因が今のところ(まだ)自分にふりかかっていないからこそ、こんなに気楽にこの景色を眺められるということだろう。

 それは間違いない。

 しかしそうだとしても、気楽に眺める、というのと、眺めていて安心する、ないし嬉しく思う――というのは、また違うことのようにも思う。

 嬉しく思う。

 そうだ。

 ぼくはこの場所に戻って来られて、嬉しいのだ――まったくもって不思議なことに!

 ぼくは、ここに、戻って来たかったのだろう。

 この場所が、好きなのだ。

 この場所になら、たとえ地球上であっても、いたいのだ。

 ――何かが、いるのかも知れないな。

 ゆるゆると転がっていく枯れ草のかたまりを心の中で見つめながら、そう思う。

 この場所には、ぼくと相性のいい“何か”が、存在しているのかも知れない。

 動物なのか植物なのか、どちらでもないものなのか、わからないが。

 それはたぶん、ぼくを待ってくれていたんだろう――それがおこがましい考えだというなら、ぼくが戻って来ても「とくに差し支えない」とそれは判断してくれているのだろう。

 そんな想いをつらつら浮かべながら、レイヴンは、自発分散の準備に取りかかった。殻の中からレイヴン自身を弾き飛ばし、着地させるのだ。殻の内部にひずみエネルギーが充満していく。目を閉じる。飛ばされてゆく間は、レイヴン自身ではまったく何を為す術もない。ただ弾き飛ばされるまま、放物線を描いて己の着地を待つだけだ。

 ぱちん。

 殻の破裂音とともに、レイヴンは飛ばされた。うすく目を開けると、視界の上部に真っ暗な宇宙と、その下に青く輝く地球の姿が映った。

 音もなく近づいてゆくにつれ、地球周辺を回る人工衛星や宇宙ステーションの数々も視認できてくる。中には、地上に向けて殺傷能力のある光線を放つ機能を有するものもあれば、ミサイルそのものまでがどこかを目指し飛んでいるのも見えた。

 ――人間って、ばかだよな。

 レイヴンは薄れそうになる意識の中で、夢幻を見るようにそう思った。

 ――自らの身を滅ぼすものだけを、こんなに作っている。

 ――ほんの一部の人間だけに必要だという、そんな理由で。

 ――自分たちの作り上げた技術を、うまく制御できていない。そしてそれよりもっとたちの悪いことに、うまく制御できていないことに、気づいてさえいないんだ。

 ――人間って、ばかだよな。

 ――それなのに、必死で繁殖しようとしてる。

 ――滅ぼすだけなのに。

 ――生めよ滅せよ、だ。

 やがて彼は濃密な大気の壁にぶち当たり、少しの間、完全に気を失った。

 

 レイヴンは窓外の超高速雲流を眺めるともなく見遣りながら、ハヤミ総司令の待つオフィスへと浮揚推進していた。

 呼び出しを受けたのは、昨日の夜だった。

「明日の朝、私のオフィスに来てくれたまえ」

 感受帯角質に届いたメッセージはごくシンプルなもので、何々の用件でとか、何々について君に確認したいとか、それどころか「君に話がある」という基本的な呼び出し事由さえ、書かれていなかった。

 それは何故か。それは、そういう“余計なこと”を書くと、レイヴンがオフィス訪問を拒否する可能性があると判断された(のだろう)からだ。

「いついつ、どこそこに来てくれたまえ」

 それだけで切ってしまっておけば、取り敢えずレイヴンは

「何かぼくにご用ですか?」

と、質問を返さずにはいられない。あるいは、もっとぶっきらぼうに

「なぜですか?」

と。そしてレイヴンがそのような、“反応を返す”という行動を取った時点で、総司令の目的の五十パーセント方は達成されたことになるのだ。

 うちのボスは、なかなか頭がいいな――レイヴンはそう思いながら、窓外の超高速雲流を眺めるともなく見遣りつつ、ハヤミのオフィスへ向かっていたのだった。

 ――だけどぼくも、負けてはいない。

 鼻息荒く、彼は心を強くした。

 ――ぼくもそれなりに、経験を積んできた。キャリアだの、スキルだの、そういうものを手に入れ身につけ、そう、大人になったんだ。そのおかげで、何も聞かなくてもわかりますよ、ボス。

 あらためて窓の外を見遣る。情容赦のない超高速雲流が、窓外をころがり落ちていく。

 ――これからあなたがぼくに話して聞かせる事が、ばかばかしいほど“嫌な話”なんだろうってことが。

 

 ハヤミのオフィスのドアは、好い色をしている。レイヴンの好きな色だ。つまり“美味そうな色”というやつだ。

 今日も、相変わらず美味そうなドアだ――そう思いながらレイヴンはそのドアに指で触れた。じゅわじゅわじゅわ、と触れた部分からドアが解けてゆき、レイヴンが通り抜けられるほどの大きさの穴がそこに開いた。レイヴンは潜った。じゅわじゅわじゅわ、とドアはレイヴンの後ろで元通り癒着をした。

「やあ、レイヴン。調子はどうかね」ハヤミ総司令は主触手を軽く上げ、にこやかにレイヴンを迎え入れた。

 レイヴンは、探られているのを感じた。

 他者と向かい合う時、相手を自分より格下と見ている者は相手をあからさまにじろじろと観察する。何か批判や否定できる箇所を探るのだ。所謂「粗探し」というやつだ。

 逆に相手を自分より格上と観る者は、なるべく相手を観ないようにする。できるだけ短くその時間をやり過ごそうと望むのだ。

「はい、おかげさまで感受力判断力伝達力、浮力推進力耐久力、どの項目も精鋭レベルをクリアしています。絶好調ですよ」レイヴンもまたにこやかに真実を述べた。

「結構。さて、今日ここに来てもらったわけだが」ハヤミはサブ触手を一本立てた。「短刀直入に言おう」

「はい」

「オリュクスが見つかった」

「え」レイヴンは目を見開き声を高めた。「ほんとですか!」

「それだけじゃない」ハヤミは頷きながら続ける。「コスも。そしてキオスもだ」

「すごい……」レイヴンは声を震わせた。「一体どこで?」そう訊ねた瞬間、レイヴンの脳裡に稲妻が閃いた。

 これを訊いちゃ、いけないんじゃないのか!

「地球だ」遅かった――ハヤミはうきうきしているように見えた。「地球でだ! レイヴン!」主触手もサブ触手も全部、頭上高く差し上げる。

「ああ」レイヴンはかすかに二、三度頷いたが、もはや彼の表面上に表情や表現という類のものはなかった。「地球」あの、人間のいる所。レイヴンは心の中だけでそう付け加えた。

「そうだ」ハヤミは答え頷いた。「君にはそこに行ってもらう」

 えーっ。レイヴンは心の中だけで思い切り不満の声を挙げた。「ボス」表面上はあくまで冷静に、意見を述べる。「ぼくの遺伝的特質はご存知ですよね? ぼくって」

「レイヴン=ガスファルト」ハヤミは表情ひとつ変えずに遮った。「これは我々運営の決定事項だ」ついに、レイヴンに伝えられていなかった“ウラ事情”が明るみに引っ張り出された。最後通牒だ。

――しかし」レイヴンは必死に抵抗の言葉を探した。「万一ぼくの遺伝的特質が原因でトラブルが起きてしまったら」

「トラブルは起きない」ハヤミは主触手を、否定の意味を示す振り方で振った。「何故なら君がうまく回避するからだ」サブ触手がレイヴンを指す。

――」レイヴンは黙り込んだ。もう、口を閉じる時だ。彼はそう知った。

 

          ◇◆◇

 

 さて地球。

 レイヴンは出張の準備を始めるしかなかった。まずは殻の状態確認及びメンテナンスだ。殻をこつこつと叩いてみる。いい音がする。指先でしばらく触れる。じりじりとその部分から煙が上がりだし、焦げる匂いが立ち込める。指を離す。そうすると焼け焦げは直ちに自動修復され、何もなかったように殻は元通りの形状に戻る。上出来だ。

 …………地球かあ。

 レイヴンはふう、とため息をつきながら窓の外を見た。窓の外には高速の雲流が飛び去って行く。氷でできた雲だ。その中を、子どもたちが元気に飛び回る。きゃっきゃっと楽しそうに笑い声を挙げて。上の子がケイシ、コンマ0468歳になったばかりだ。下の子はナウル、生まれたばかりで足がおぼつかないが必死でお兄ちゃんについて行こうとする。

 知らない間にレイヴンは笑いを浮かべていた。そのことに気づき、ふう、とまたため息をもらす。

 地球かあ……

 気を取り直して、レイヴンは予備触手を伸ばし殻に接続した。レイヴンの中身であるミネラル液が殻の細胞にゆきわたり、潤しふくらませていく。殻は鮮やかな色に変わり、レイヴンは予備触手を離してもういちどふう、とため息をついた。

「地球へ行くんだって?」ラサエルの声が背後から聞こえた。

 振り向くと彼は、いつものごとく気だるげにゆらりゆらりと浮かんでいる。

「うん」レイヴンは小さく頷いた。「しばらく、帰って来れないよ」

「けどお前……大丈夫なのか? 地球なんて」

「うーん」レイヴンは苦笑した。「不安がないといえば嘘になるけどね」

「俺は不安だよ」ラサエルも笑ったが、眼は笑っていなかった。しばらくじっとレイヴンを見た後、ラサエルは主触手を広げて彼を抱き締めた。「運営の奴らなんて、糞食らえだ」

「まったくね」レイヴンも同じように主触手を回して抱き締め返す。「子ども達をよろしく頼むよ」

「ああ」ラサエルは身体を離した。「俺たちの大事な子どもだ。任せとけ」

「ぼくは人間たちのお相手だ」レイヴンは自虐的にまた笑った。「あいつら、今度はどんな理由で殺し合いをするんだろうな」

「可哀想な人間たち」ラサエルは言った。「と、表向きは言っておこう」

「本音は?」

「勝手にしろ、お前ら。だ」

「終わりましたよー」

 熱田氏の声で、私は目を開けた。

 のろのろと起き上がると、最初に、玉の汗を浮かべて今にも気絶しそうに茫然としている森下氏の顔が目に入った。

 そんなに、体力を使ったのか。

 私には意外に思われた。

 経を唱えたり、あきみの兄貴に語りかけたりしているのは薄らぼんやりと聞えていたが、そんなに大変な作業だとは思いもしなかった。

 精神的重労働だったということか。

 それはそうだろう。

 なにしろ“浄霊”をしたのだから。

 それは確かに、簡単なものではなかったはずだ。

「お疲れす」森下氏は、心配そうに見つめる私に二センチほど会釈し、部屋の隅に歩いていった。

 森下氏の後ろにいた熱田氏の姿が、今度は目に入った。

「えーと、まず」熱田氏は、熱田スペシウムを放ち続けていたのであろう方の腕をさすりながら、私に訊いてきた。「あなたのお名前は?」

「堺田篤司です」私は答えた。

「うん」熱田氏はニッコリと微笑んだ。「戻ってきたわね。自分自身が」

「え?」私は、眉を上げて訊き返した。

「あなたの脳みそはずっと、あきみさんのお兄さんに乗っ取られていたのよ」熱田氏は、私の頭を指差した。「よね?」森下氏に確認する。

 森下氏は汗を拭いているところで、タオルの下から片目だけ覗かせ、こくりと頷いた。

「そしてお兄さんは、その状態であなたに、制裁を加えていた――つまり足で蹴られているというイメージを、あなたの脳みその中に投影させていたと、そういうことよ」

――すべて、幻だった、と」私は茫然と、呟くように言った。

「感覚とか知覚とかは本物だったはずっすよ。痛みとか」森下氏がタオルを首に巻きながら答える。「脳では実際に、足も見えていた。けど、本当には存在しないから、触ることはできなかった」

「それで、あなた自身は単なる操り人形として、自分の名前も、あきみさんの顔も声も、忘れさせられていたということよ」

「ていうか、記憶貯蔵庫から検索する権限を制御されてたんす」

――」私は目をしばたたかせた。

「森下君が言うと、話が小難しくなるからいいわ」熱田氏が、彼女にしては珍しく眉をひそめた。

 森下氏は若干唇をとがらせながら、眼鏡をかけ直した。

「それで、時々お兄さんの呪縛が緩んだときに、あなた自身が目を覚まして、その隙間で今回の浄霊の依頼にこぎつけた、というわけよ。まあよかったわね」熱田氏は私の上腕をぱしぱし叩きながら、(恐らく)ねぎらってくれた。「ところで、あなたボーナス月はいつ?」それから熱田氏は唐突に問いかけてきた。

……」私はすぐに答えられずにいた。「7月と、12月です」やがて、私は質問に対する答えを発することができた。

 私の内部に、脳の中に、現実世界というものが蘇りつつある。という実感が、不意に私の体を包みこんだ。

「そう」熱田氏は頷いた。「今回の件は、あなた自身の過失分の追加料金が発生するから」まっすぐに私を見ながら、特に他意もなくさらさらと事務的に話す。

 私の方はただうなだれて「はい」と神妙に答えるしかなかった。

 元カノ、あきみの、怯えた顔が脳裏に浮かぶ――

 だがもう、声は聞えてこなかった。

 あの声も、あきみの兄貴が聞かせていたものだったのか。

「まあ、後で請求明細を送るわね。それから、と」熱田氏は、今度は森下氏の方を見た。「森下君、あきみさんのマンションの位置、わかる?」

……はぇ」森下氏が答えた。

 久しぶりに聞く、紛れもない森下氏の、やる気のなさそうな返事だ。

「明日にでも、スカウトしに行きましょう。彼女の能力、使えそうだし」熱田氏はてきぱきと計画を述べた。「君、まだ今月の勧誘ノルマ、達成してないでしょ」

「ぁぇ」森下氏は足元を見、消え入りそうな声で返事した。

 なるほど。私は小さく頷いた。

 ノルマ、か。

 霊媒師の世界も、なかなか大変なのだろう。

 森下氏に、少しだけ同情を覚えた。

 お礼というわけでもないが、何か私に、手伝えることがあれば。

「あの」私は思い切って提案の言葉をかけた。「私……あきみに、話してみましょうか、その……スカウトの、件」

 熱田氏と森下氏が一斉に私を見た。

 思わず、薄ら笑いを浮かべてしまう。恐らく卑屈を絵に描いたような顔をしているのだろう、今の私は。

「結構よ」熱田氏がきっぱりと答える。「ちょっと、あなたの携帯を貸してもらえる?」

 私は、がっかりしなかったといえば嘘になるが、ともかく指示の通り携帯を手渡した。

 熱田氏はそれをそのまま森下氏に手渡し、「消して」と言った。

「はぇ」森下氏が素早く操作をする。

 消すって……あ。

 私が気づいた時にはすでにそれは“消された”らしく、森下氏は私の携帯を私に差し出した。

 慌てて、アドレス帳を開く。「さ行」のところだ。

 確かに、里野あきみのデータはきれいに消されていた。

「あなたはもう二度と、あきみさんに近づかないこと」熱田氏はまっすぐに私を見て言った。「もうおわかりと思うけど、今回DVを行っていたのはあきみさんのお兄さんの“足”ではなく、そもそもあなた自身だったということ。今後あきみさんに近づいたら、今度は私たちが、あなたに“制裁”を加えることになります。いいわね?」

……はい」

 私は頷き……というか深く頭を垂れ、承知した。

 制裁。

 その言葉の威力は意外なほどに強く、私はひとことで言えば

「もう、たくさんだ」

と、思っていた。

 兄貴の足蹴りにしろ。

 森下氏のミドルキックにしろ。

 熱田スペシウムにしろ。

 そう、なんといっても、なにをおいても、熱田スペシウムなんて、もう。

 たくさんだ。

「人と、神の中間の存在」不意に熱田氏はそう言い、私の部屋の天井付近をぐるりと見回した。「なるほどね。それだから、この部屋には、低級霊のようなものがまったく存在していなかったのね。あのお兄さんを、畏れて」

 私も、熱田氏に倣って部屋を見回した。

 私にとって、いつもの自分の部屋の光景であることに、なんら変わりはない。

「じゃ。お疲れさま」熱田氏は最後、ひときわ元気よく言葉をかけた。

 そして茫然と見送る私を振り返ることもなく、熱田氏と森下氏は、部屋を出ていった。

 部屋は真の意味で、静かになった。

 

          ◇◆◇

 

 それ以来、足は一度も姿を見せていない。

 その代わり、夜中寝ている時、ピシリ、ピシリという、いわゆる“ラップ音”が、聞えるようになった。

“低級霊”というものが、寄りつけるようになった、ということだろう。

 まあ、よかったじゃないか。

 妙な話かも知れないが、私は却ってその現象を、微笑ましいと感じるのだった。

 少なくとも、こいつらは私に“痛み”を、もたらしたりしないからだ。

“浄霊”――する必要も、特にないだろう。

 ピシリ。ピシリ。ピシリ。

 ああ。

 平和な、夜だ。

「理不尽」

という単語が、ふと私の脳裏に浮かんだ。

 理不尽――なにが?

 まったくもって、理にかなっている。

 理不尽なことなんて、なんにもない。うん。

 さあ、寝よう。

 おやすみ。

 

   

 

 うふふふ。

          〈了〉

「それで私にも森下君にも、見えなかった」熱田氏は続ける。「こういうのは、初めてだわ。こんなやり方をする霊には、初めて遭った」

――」はまた小さくうなずいた。

 なるほど、霊にも霊それぞれのやり方がある、ということなのだろう。

「お兄さんは、あっくん……堺田篤司の身体の中に入って、彼のあなたに対する暴力を止めた」

 熱田氏が相も変わらず確認復唱している。

「あなたの力で」

 趣味か。このおばさんの。

具体的に、どうやって?

「兄の魂を、ダイモニアとしてあっくんに取り込ませました」あきみが、ますますもって低く答える。

「ダイモニア?」熱田氏が、立てかけた太い腕の横に顔を並べるように突き出して、問いかけた。「ダイモニアというのは? 霊の一種?」

「霊というか……人と、神の中間的な存在です」

「へえー」あきみの答えに対し、熱田氏はマンボウが口紅を引いたような口で感心した。「つまりそれが、あなたの“力”ということなのね」

「はい」あきみが、小さく頷く。

お兄さんは亡くなったの?」熱田氏が更に質問する。

 あきみは少し間を置いたあと「はい」と、頷いた。

「そしてお兄さんは今、ダイモニアとして堺田篤司の中いるというわけね」

はい

 あきみが答える。低い声だ。風邪をひいているのか。男のようだ。

彼の中で、何をしているの?」熱田氏が質問する。

「今はただ」あきみはゆっくりと首を振った。「あっくんの中で、呼吸をしているだけです」

「呼吸?」

「アニマとして」

「アニマっていうのは?」

 あきみの口から次々と繰り出される専門用語に、熱田氏はついていけていなかった。

 やはりこのおばさんは、エセなのか。

 お祓い詐欺なのか。

「魂の……元というか、原料のようなものです」

「へえー」また、化粧マンボウの口が感嘆の声を発する。

 まったく、勘弁してくれよ。

 あんた、何屋なんだよ。

「じゃあお兄さんは、今現在はもうあっくんを止めたり、彼に攻撃したり、していないのね?」

「はい」

 嘘だ

 私の唇だけがそう動いた。

 だが声は出てこなかった。

「その、はずです」

「単刀直入に聞くけれど、あなたがお兄さんを殺害したってこと?」熱田氏が訊いた。

──」あきみは固まった

「お兄さんがダイモニアになるためには、死ぬ必要があったってことよね?

「はい」あきみがまた頷く。「兄は……ダイモニアと化すために、薬で自殺しました」

 しばらく、熱田氏もあきみもも、ものを言わなかった。

「自殺」復唱したのはやはり熱田氏だった。「お兄さんが、自らそう、意図して」

「兄は、私の力のことを知っていたので、それで」あきみは再び震え始めた。「俺があつしをコントロールするから、あいつの中に入れろって」

「へえー」熱田氏の返答は、馬鹿かと思うほど普通だった。「そうそういうことだったのね」それから彼女は、まぶしそうに目を細めて私を見た。

 何のことだろう。

 否、すでに私にとってはどうでもよかった。

 私は熱田氏の、たっぷり肉のついた喉元に向かって、両手を伸ばした。

 そうだ。

 今の私には、足だけでなく、手があるのだ。

 いい加減このおばさんの存在にも、辟易だ。

 こいつを始末してしまえば、後は好きなだけあつしを蹴り続けていられるのだ。

 呼吸しているだけだって?

 あきみ。

 お前、知らないんだな。

 そこまでの知識は、持ってなかったんだな。

 よし。

 兄ちゃんが、教えてやるよ。

 ダイモニアはな、割と完全無欠なんだよ。

 うん。

 自分でいうのも、なんだけどな。

 足で蹴ることだって、ほらこうやって、手で喉首を締め上げることだって、自在に操れるんだ。こいつの体を。

 だってこいつの中枢神経に、今俺は乗っかっているわけだからな。

 俺が動かしてやってるから、こいつはヒトとして生きて動いていられるわけだ。

 

「あつ……た……さん」

 

 苦しげな、男の声が聞えてきた。

 どこから、だろう。

 まるで、喉首を締め上げられているような、苦しそうな声……

 俺が、締め上げているのか?

 いや、違う。

 俺が締め上げているのは、熱田という中年のおばさんの喉首だ。

 男ではない。

 ……そうだ。

 この声は、あきみの声だ。

「あつた……さん……」

 あきみが、熱田氏を呼んでいる。

 よせ、あきみ。

 熱田というババアは、兄ちゃんが始末してやるから。

 もう、関わり合いになるのはよせ。

 この女は、穢れている。

「ん? 森下君?」

 熱田氏が、普通に答える。

 え? 普通に?

 どういうことだ?

 だって今、俺がこいつの喉首を、両手でもって、こう――

 それは、腕だった。

 熱田氏の、大根のような前腕を、の両手が締め上げているさまが、目の前に現れた。

 おお。

 その時のは、素直に率直に、感嘆――感動、していた。

 腕、だったのか。

 腕、だったとは。

 いや、なんてほど良い太さの、腕だろう。

 丁度、男の手のひらふたつ分の円周の。

 そう、普通の人間でいえば丁度、首くらいの太さの、

 前腕。

「どした? 森下君」

 熱田氏は腕をに締めさせたまま、顔だけ横に、あきみの方に向けて訊いた。

「この、人……おいだし、て、もらえます、か」とぎれがちに、あきみは男のかすれ声で答えた。「スペ……はずれて、今、すげ……パニク……てて」

「ああー」熱田氏がうなずきながら、サイレンのような声を上げた。

熱田スペシウムをはずしたから、あっくんが見えるようになっちゃったのね。あきみさん」

嫌だ。やめて」あきみは金切り声で叫んだ。「来ないで嫌だ

「はいはい」

 熱田氏は、私が締め上げている方の腕で持っていた数珠を、反対の手で取り上げ、あきみに向かってまっすぐに差し伸べた。

 そうしながら、何かの経を短く唱え、

「帰りなさい」

と、命令する。

 途端に、あきみの体ががくりと前のめりに崩れた。

 が、すぐに起き上がり、立ち上がったかと思うと、あきみは――

 俺の右側の耳の辺りに、目にも止まらぬスピードで、ミドルキックを見舞った。

 

 きいいいいん。

 

 強烈な金属音を聞きながら、はフローリングの床の上に倒れた。

 無論両手は、熱田氏の首――と思いつつ締めていた前腕から、ふりほどかれた。

 すぐに立ち上がろうとしたが、その時熱田スペシウムが最大レベルの出力で――つまり今までとは比較にならないほど大量に、照射された。

 というか、ぶち当てられた。

 目に見えもしないその“なにか”が、ものすごい勢いと厚みでもって、の全身にぶち当たり、は再び床の上に、仰向けに転がされた。

 微塵も、身動きできなかった。

 天井しか、見ることができない。

 そして、その時の脳内にある言葉はただ一つ

 

「殺してくれ」

 

だった。

 この世のものとは思えない、苦しさが中を襲っていた。

 圧迫感、とか、倦怠感、とか、疼痛、とか、あと呼吸困難、とか、恐らく心室細動、とかも、とにかく体の異常さを示す症状がすべて混ざくり合って、に一斉攻撃をしかけてきているようだった。

 早く、開放してくれ。

 ここから、出してくれ。

 消してくれ。

 

「やめてよ、あっくん」

 

 あきみの声──本来の、鈴を鳴らすようなか細い声。

「痛いよ。やめてよ」

 そうだ。

 俺はあつしの中に入って、初めてあきみがこいつから受けていた暴力の真実を目の当たりにしたんだ。

 あつしの記憶を見て。

 顔中に痣を作っていたあきみ。

 こいつはその顔の記憶を鮮明に持っていた。

 持っていやがった。

 あきみの、泣きながら許しを乞う声の記憶も。

 俺はこいつをあきみの元から遠ざけ近づかないようにだけするつもりだったが、それを見てしまった以上到底それだけでは許せなかった。

 蹴り続けた。

 こいつの命が尽きる日まで、蹴っ飛ばし続けてやろうと思っていた。

 でも、もういい。

 もう、いいから。

 もう、やめますから。

 だから、消して下さい。

 俺を。

 

「どしたの、森下君?」遠くの方から、熱田氏の声が聞える。「早く、楽にしたげて」

 

 そうだ。森下。

 早く俺を楽にしてくれ。早く!

「あーと」森下氏の、気まずげな声が続く。「あきみさんのお兄さんの、名前確認すんの、忘れてました」

「もーう」熱田氏の、呆れ果てたという風情の声がしたが、それであっても熱田スペシウムの凄まじさ加減に微塵たりとも変化はなかった。

 ああ。

 プロだ。

 この人は。

 熱田スペシウムの、プロなのだ。

 なるほど、この人なら。

 俺を浄霊することぐらい、たやすいのだろう。

「もう、あれでいいわよ。あきみさんのお兄さん、で」

「はぇ」森下氏は例のだるそうな返事の後、風のように「すいません」と囁いた。

 薄く開いたの目に、天井を遮って森下氏の眼鏡の顔がぬうと現れた。

 それから更に、彼の顔を遮って彼の手が現れ、それはの額に当てられた。

 その向こうで森下氏は、別の方の手の人差し指と中指を揃えて唇に当て、ぶつぶつと経を唱え始めた。

「あきみさんのお兄さん」

 俺を呼ぶ。

 俺は、返事をしようとした。

 だがその希望は、かなわなかった。

 俺の唇もご他聞にもれず熱田スペシウムの支配下にあり、つまりはぴくりとも動かすことができなかった。

 眼球を動かすことも、瞬きをすることも、できなかった。

「堺田篤司さんの体から出て、行くべき場所へ行ってください」

 森下氏はう言ってからまた経を唱える。

 少しずつ、を締め付けるものが――というか絞り上げるものが、緩んでくるのがわかった。

 ああ。

 いいぞ。

 この調子だ。

「もうそこは、あきみさんのお兄さんのいる場所じゃありません」

 うん。

 そうだな。

 もう、こんな所にいなくても、いいじゃないか。

 もっと明るくて、広くて、空気のうまい場所が、あるはずだ。

 居心地の好い、場所が。

 どんどん、体が軽くなってくる。

 もう少しだ。

 瞼が震え、は目を閉じた。

 閉じることが、できた。

「あきみさんのお兄さん」森下氏が、またを呼ぶ。

 なんとなく、それが“最後”だという感じが、した。

「楽に、なってください」

 はい。

 そうします。

 次の瞬間、の体はすべての呪縛から解き放たれるかのように、重量と質量を完全に失った。

 

   

「あっくんは」熱田氏は質問を続けた。「今も、あなたを傷つけ続けているの?」

……」森下氏は、また顔をくしゃっとしかめた。

 あたかも、今まさにあっくんに殴られたかのような表情だ。

「今もぶたれたり、しているのね」熱田氏は声をひそめて確認した。

──いえ」森下氏はかすかに首を振り言葉を返した「今は、もう……」

「もう、ぶたれていない」

「はい……でも、時々夢を見たり、します……」

「そう」熱田氏は手に持った数珠を、かりり、と両の掌に挟んで擦り合わせた。「今もそういう状態なのかも知れないわね。かが、助けに来てくれの?」更に訊く。

 突然、森下氏は両手で顔を覆い、俯いたまま肩を震わせ始めた。

 女が泣く時のようなポーズだ。

 ということはつまり、彼に取り憑いている女が泣き出したのだろう。

 熱田氏は熱田スペシウムを当て続けながら答えを待っていた。

「兄さんが」やがて森下氏は震える声で言った。「止めてくれました

「兄さん……お兄さん」熱田氏は復唱して言った。「お兄さんが、止めてくれた」

──」森下氏は顔を覆ったまま肩を震わせて小さく頷いた。

 熱田氏は、震える森下氏を見下ろし、しばらくじっと見ていた。

 森下氏はただ震えて泣くばかりだった。

「お兄さんは」やがて熱田氏が言葉をつないだ。「どう、なったの?」

 私の脳裏にも、森下氏が次にどう返答するのか、予測がついた。

……私の代わりに……あっくんに……」森下氏の声はもはや声とならず、ため息を洩らすように苦しげな囁きとなった。

 熱田氏はまたしばらく森下氏を見下ろしていた。

「あっくんは」やがて、ゆっくりと彼女は言った。「あなたのお兄さんを、手にかけてしまったのね」

違うんです」森下氏は震えながら、なおも顔を両手に埋めたまま、金切り声に近いほど上ずった声で言った。「私の代わりに、兄さんは」

 熱田氏の、熱田スペシウムの腕が一瞬ぐらりと傾いたように、私には見えた。

「あっくんの中に、入ったんです」

 沈黙が、部屋を占領した。

 誰も、何も言わなかった。

 熱田氏は、傾いた腕を――そこからまだ出つづけているのであれば、熱田スペシウムを――森下氏に当て続け、私は機嫌のいい赤ん坊の口ぐらいの大きさに口を開け、森下氏は両手で顔を覆いつくし、皆が黙っていた。

「あっくんの中に、入った

 発するべき言葉はそれに間違いないし、私の脳裏にはそう復唱する熱田氏の声が既に聞えていた。

 だが実際のところ、それは発せられておらず、熱田氏は口を閉ざしたまま森下氏を見つめていた。

 それを見て私も、ぽっかりと開けていた口を閉ざした次第だった。

「どうやって?」

 やっと、発せられた熱田氏の言葉は、そういう質問の言葉だった。

……私の、力で」森下氏は静かに答えた。

あなたの、力で」熱田氏が復唱する。

」無意識のうちに、私自身も呟いていた。

私の特殊な力を使って……兄はあっくんの中入り、彼を止めました」

 森下氏の声は低くなり、冷静さを取り戻したようだった。

 私は衝動的に、自分の周囲を見回した。

 右を。

 左を。

 後ろを。

 もう一度左から、後ろを。

 念のために、真上を。

 その姿は、どこにも見えなかった。

 だが私には、その存在が、目の前の熱田氏や森下氏よりはるかに鮮明に、感じ取られていた。

 

 足だ。

 

 足が、今も私を見ている。

 足が、今もここに、いる。

 存在している。

「お兄さんは、あっくんの身体の中に入ってあっくんのあなたに対する暴力を止めた。そういうこと?」熱田氏はきょろきょろと辺りを見回す私には目もくれず、確認の質問をした。

「はい」森下氏は今度は深く頷いた。

「あなたの代わりに、と言ったわね?」また熱田氏は、確認の質問をした。

「はい」森下氏は再度、頷いた。

本来ならあなた、あっくんの身体の中に入るはずだったの?」

「私は……」森下氏は言い淀んだ。「私は、あっくんから逃げるべきだったんです……でもできなかった、私が、弱いせいで……だから兄さんが、最後の手段だ、と言って……

 会話はそこでまた途切れた。

「ところで」やがて熱田氏は、話を続けた。「あなた自身は、生きているの?」

 森下氏が久しぶりに顔を正面に向け、熱田氏を見た。

 薄ぼんやりとした、眠そうな顔だった。

……はい」小さく、頷く。

「お名前は? ああごめんなさい私は熱田といいます」熱田氏はニッコリと笑って自己紹介をした。

 私は、自分も名乗るべきなのかと考え、森下氏と熱田氏を交互に見た。

 森下氏は、やはり私には目もくれず、熱田氏に向かってかすかに会釈をした。「私は……里野あきみといいます」

「さとの、あきみさんね」熱田氏は頷いた。「あっくん、あなたのもとかれは、本名はなんというの?」

……堺田篤司、です」森下氏は静かに答えた。

「堺田篤司」熱田氏はそう復唱しながら、今度は私に顔を向けた。「この名前に、心当たりはありますか」

 いかにも何かを探ろうとするかのように、彼女は目を細めて私を見つめ、訊いた。

「いえ」私の声はかすれ、横に振ろうとした首も、一センチ程度しか動かなかった。「ありません」

 熱田氏は、しばらく無言で私を見つめ続けた。

 じいい、という擬態語がまさにぴったりな、いわば“目で掘る”ような、見つめ方だった。

 彼女が何を思っているのか、私には無論、皆目見当もつかなかった。

「堺田、篤司」熱田氏は、私を凝視しながらその名をことさらゆっくりと繰り返した。「わからない? 本当に?」

 私は自分の脳内をサーチし、今度ははっきりと、首を左右に数回振った。

「これは、あなたの名前よ」熱田氏は、言った。

 その時私は、何故か自分の携帯を尻ポケットから取り出していた。

 アドレス帳の、さ行のところを開く。

 ああ。

 そうか。

 

「てめえ」

 

 突然、男の野太い声がとどろいた。

 

「妹に何しやがったこら。おい。ええ。なんとか言え。あつし。おら。あつし」

 

 私はぎゅっと目を瞑った。

 その声は、私の脳裏――否、内臓の裏側の辺りに、ずっと、ずうっと、影を潜めていたのだということが、誰に指摘されずとも判った。

 確かに、そう言っていたのだ。

 足は、そう言いながらずっと、私を蹴っていたのだ。

 里野あきみ

 そしてその名前もまた、確かにそこにあった。

 携帯の、アドレス帳の、「さ行」のところ。

 そうだ。

 それは。

 元カノの名前じゃないか。

 私は、安心をおぼえ、久しぶりに笑顔を浮かべた。

「最初に熱田スペシウムを照射した時の様子から、なんとなく思っていたんだけど」熱田氏は静かに話しだした。「霊は“あなたに取り憑いている”のではなく“あなた自身の中に存在する”もしくは“あなた自身がその霊である”のではないかと」

――」

 私は、うすく微笑んだ顔のまま熱田氏を見た。

 けれど彼女が何を言っているのかよくわからず、その為何も答えることができずにいた。

「やはりそうだったのね。その足の霊は、あなた自身の中にあるもの――ただしあなた自身ではなく、どのようにしてかわからないけれど、あなたの中に入り込んだ、あきみさんのお兄さんの、霊」

――」

 あきみの、お兄さん。

 ああ。私は小さくうなずいた。

 あの、いつも怒鳴っていた、柄の悪い兄貴か。

 そうだ、あの兄貴なら、DVなんてお手のものだろう。

 奴が、足だったのだ。

 奴が足で、俺をごつごつ蹴っていやがったのだ。

「やめて……痛いよ」かすれた声で、彼――つまり森下氏――は続けた。

 これが、足の声、なのか?

 私は内心でそう問うた直後に、違う、と内心で答えを出した。

 これは、あの女性の声だ。

 いや、そのものは森下氏のだが、今彼の口から出てくる言葉は恐らく、私が聞いた正体不明の女性のものなのだろうと思われた。

 かすれ、疲弊し、最後の力を振り絞るかのように細くはかなげな、声。

 今にも死にそうな、若い女性の声。

 私を蹴り、踏みつけたあの暴虐の塊である足の声とは、とても思えない。

「大丈夫」熱田氏が穏やかな声で話しかけた。「あなたに、危害は加えないわ。安心して」

 森下氏はうつむき、目を閉じていた。

 唇は少し開き、細かく震えていた。

「ほら。もう、痛くないでしょ?」熱田氏は言いながら、ゆっくりと右腕を体の前に立てようとした。

 私は思わず、ハッと息を呑んだ。

 熱田スペシウムだ。

 熱田氏はちらりと私を見たが、構わず腕を持ち上げ、森下氏に向かって“照射”を始めた。

 私は目をしばたたかせ――何も、本当に“光線”が出ているのが見えるわけではないのでそんなリアクションをする必要もないのだが、そうせずにはいられなかった――、森下氏が床にのたうち回って苦しむさまを想像した。

 だが私の思惑は外れた。

 熱田スペシウムを当てられた森下氏――というか恐らく、今彼に乗りうつっている女性の霊――は、目を閉じたまま、その面に微笑を浮かべたのだ。「あったかい……」あまつさえ、彼女はごく小さな声で、そのように呟いた。

 ええー。

 私は思わず、声に出さずに口元だけで驚愕の言葉を発した。

 あったかい?

 熱田スペシウムが?

 え、気分、悪くならないですか?

「気持ちいい……」女性の霊は、また呟いた。

 どういうことだ?

 熱田氏は人によって、照射する光線の種類を変えているのか?

 そうだとしたら、不公平じゃないか。

 俺にはあんなにけったくそ悪い思いさせた癖に、なんでこの女には気持ちいい光線を当ててんだよ。

 まじ種類変えやがって、ドリンクバーか。光線バーか。

 金返せ。光線ババー。

 無論それは私の心の中だけで叫ばれたものだったが、私は小学生のように唇をとがらせ、眉をしかめていた。

 納得いかねえ。

「少し、お話聞かせてもらえるかしら」熱田氏は、熱田スペシウム体勢のまま話しかけた。

……」森下氏は微笑を閉ざし、少しの間うつむいて無言でいたが、やがて「はい……」と、やはり小さな声で答えた。

「あなたは今、どこにいるの?」熱田氏は、質問した。

「マンションの……部屋です」女は答えた。

 私はうなずいた。

 そんなの、わかりきってるじゃないか。

 ここは私のマンションの部屋の中だ。

「あなたはいつから、そのマンションの部屋にいるの?」

……五年前、から」

 私は目を天井に向けた。

 私がこのマンションに住み始めたのは何年前からだったか。

 少なくとも、五年より最近から、ということなのだろう。

 ええと、五年前というと……

「誰かと、一緒に住んでいたの?」熱田氏のさらなる質問に、私の考察は断ち切られた。

……」女はなかなか返答しなかった。「……いいえ、ずっと一人……

「一人暮らし、していのね」熱田氏は確認し、それからしばらく、森下氏を見つめていた。

 ずっと、熱田スペシウムは照射され続けているようだった。

 森下氏の方も無言で、固まったかのように微動だにせず、うつむき続けていた。

「あっくん、というのは」熱田氏は、穏やかな声で質問を再開した。

 森下氏の肩が、ぴくりと小さく動いた。

「恋人さん?」熱田氏は小首をかしげた。

……」森下氏は顔を真下に向け、唇を噛んだ。

“あっくん”について、よほど語りたくないのだろう。

 さぞかし、その男からひどい暴力を受け続けていたのに違いない。

 私は女性が、気の毒になった。

 そういえば、この女性、名はなんというのだろう?

「大丈夫よ」熱田氏は囁くように言葉を続けた。「この光が出ている間は、あなたに危害が加えられることはないから」

……」森下氏はなおも唇を噛んで黙っていたが、ゆっくりと顔を上げ、元のうつむき角度に戻したあと、小さくうなずいた。「あっくんは……元彼……です」

「もとかれ」熱田氏は復唱した。

 棒読みというかオウム返しというか、この人“元カレ”という言葉の意味、知らないんじゃないかと一瞬思わせるような口ぶりだった。

「あっくんは、あなたに暴力を振るっていたの?」熱田氏は質問を続けた。

 森下氏は、目を閉じたまま、くしゃっと顔をゆがめた。

「大丈夫」再び熱田氏が囁く。「大丈夫だから。私があなたを、守っているから」

 そういえば、足はまったく姿を見せない。

 あっくん――

 私は不謹慎にも、笑いを洩らしそうになった。

 あいつ、「あっくん」って名前だったのか。

 今度私の腰を蹴りにきたら、言ってやろうか。

「あっくん、やめて。痛いよ」

って――

 私はぎゅっと目を瞑り、首を振った。

 ばかな!

 この女性の気持ちを考えろ。

 不謹慎にもほどがある。

 しゃれにならない。

 それはともかく、足がこの場に姿を見せずにいるということは、今熱田氏が、熱田スペシウムによって奴の出現を封じ込めているからなのかと、私は考えを軌道修正した。

 私にとってそうであるのと同様、足にとっても、あの光線は気分の悪いものなのだろうか。

 もしかしたら、男にとっては害になるもので、女にとってはよいものであるとか、そんな性質をもつものなのか。

「私は……あっくんに、何度か殺されかけました」森下氏は静かに話しはじめた。「何かのきっかけで……突然、何かが取り憑いたように人が変わって、狂ったように暴力を振るいだすんです」

「きっかけとは?」熱田氏が、やはり静かに質問する。

「たぶん……嫉妬、だと」

「嫉妬」熱田氏は、女の答えを復唱した。

「はい」

 森下氏は「はぇ」ではなくはっきり「はい」と答えた。

 そのことからも、今話しているのは彼本体ではなく女の霊なのだと推察された。

「あっくんの、私に対する独占欲は……普通じゃなかったと思います」

「そう」熱田氏は超ピンクの唇をすぼめて森下氏を見つめながらうなずいた。「例えば他の男性と、話すだけでも怒るとか?」

「はい」森下氏もこくんとうなずいた。「実の兄と、電話で長話した後も……殴られたことがあります」

「まあ……」熱田氏は、眉をひそめた。彼女にしては珍しい表情だった。「殴られた?」

「はい」

「蹴られたことは?」

 あ。

 私は、顔を上げた。

 核心を突いた、という思いがよぎった。

 そうだ。あっくんは、蹴り専門の人のはずだ。

……」森下氏は、少し唇を開いたまましばらく考え、「……たまに」と答えた。

「たまに」熱田氏はまた復唱した。

 たまに?

 私も心の中で問い返した。

 いつもじゃなくて?

「どうしたの?」

 熱田氏の声が聞える。

……いました」

 森下氏が、消え入りそうな声で、かろうじてという感じで答える。

「いた? 何が?」

 熱田氏が、被せるように再度訊く。

 やはりこの女は、エセ浄霊屋だ。

 私は目を強く閉じたまま思った。

 何が? って。

 霊が、に決まってるじゃないか。

 だって森下氏って、霊媒なんだろ?

 そういう風に紹介したの、あんた自身じゃねえか。

「女の人……が」

「女の人」熱田氏は復唱し、それから矢庭に私の腕を握り締め、ぐいっと強く引いた。「ここに?」

 ここって。

 俺はもはや、場所扱いかよおばさん。

 物扱いですらなく。

 腕を振りほどく力も、残っていなかった。

「DV」森下氏は言葉を継いだ。「受けてた、もしくは受けている、みたいです……ね」

 抑揚のない、声。

 まるで、その言葉を発することが、罪を犯すことであるかのような、できれば言及を避けたいと願っている、そんな風情の、声。

 私は、そっと瞼を持ち上げてみた。

 私の腕を掴んだまま、私には目もくれず森下氏を振り向いている、熱田氏の後頭部。

 女性向けかつらのメーカー名が、ふと脳裏をよぎる。

 その向こうで、怯えた眼差しをこちらに向けている、眼鏡の霊媒男。

 今私が熱田氏の後頭部について抱いた感想も、もしかしたらこの男には“見えた”のだろうか。

 だが特に、彼の表情に変化は見られなかった。

 くすっと笑うことも、失笑も苦笑も、なかった。

 駅の中を通り過ぎてゆく人々は、相変わらず私たちに目もくれない。

 実は私たち三人自体、他の人間たちには“見えない存在”なのかも知れない。

「DV? ドメスティック・バイオレンス?」

 熱田氏が、総称を口にする。

……はぇ」臆病な眼鏡男は小声で答える。「顔中、痣だらけの」森下氏は、かすれた風邪のような声で説明した。「女の人の顔が」

「それは、生き霊?」熱田氏は続けて問うた。「私には、何も見えなかったんだけど」

「わかりません、俺もほんの一瞬だけ見えたんで」 森下氏はうつむきながら答えた。「でもそれが見えた瞬間、この人の大脳辺縁系が、抑制を解かれたというか」ちら、と私を上目遣いで見る。

 熱田氏が、私に振り向く。

 超ピンクの唇が、デフォルメされたマンボウのようにすぼめられていた。

「そういえば、先日おうかがいした時に、女の人の声が聞えたって言ってたわよね」

 私は小さくうなずいた。

 涙が出そうになる。

 ごめんなさい。

 あなたの後頭部を見て、かつらメーカーの名前なんか連想したりして、ごめんなさい。

 理由はわからないが、この女性には抗えない、逆らえない、という想いが、頑強な枷となり私を支配していた。

 そう、私は支配され、抑圧されていた。

 この、熱田氏に――もっといえば、熱田氏の放つ“熱田スペシウム”に。

 一体、熱田スペシウムというのは何なのだろう。

「今も、もしかして?」

「はい」私は、すっかり体力を消耗していたにも関わらず、大人の男らしく、明瞭な発音で返答した。「女の人の声、あの時と同じ声が、聞えました」

「その声に、心当たりはないの?」

「ありません」首を振る。

「足に、蹴られてた人……ですかね」森下氏が、推測を口にした。「その部屋に、昔住んでたとか」

 私は、半分だけ残った魂でもって森下氏を見、そしてさらに半分だけ残った意識のもとで、理解した。

 あいつ……女性を、蹴ったりしていたのか。

 怪しからん奴だな。

「それで、蹴ってた方も蹴られてた方も両方、今この人に取り憑いてるってこと?」熱田氏が訊く。

……すかね」森下氏の声は小さくなる。

 私は、眉をひそめた。

つまり」熱田氏はまた森下氏に振り向き、話をまとめ出した。「今君が見た女の人は、前にこの人のお宅にうかがった時聞こえたという声の主。でも霊的な存在としては感知できなかった、そして痣だらけの顔。この人は足に顔や体をめった蹴りされた、けど痣にはならなかった」

「代替受害、すかね」

「あるいは」熱田氏はもう一度私の顔を見ながら超ピンク色の唇で言った。「その女の人がこの人を蹴ったのかしら」

──」

 ごつごつして太い筋の盛り上がった足の姿が浮かぶ。

「あっくん、やめて」

 今にもこと切れそうな、か細い声。

 非整合性、という単語が光のようによぎる。

 いや、もしかすると女性であってもそんな足であんな猛撃を喰らわす人もいるのかも知れないが、あのか細い声とあの蹴りとが同一人物のものであるとはとても考え難い。

「そんな馬鹿な、って言いたそうね」熱田氏は私を見たままニヤリと笑った。

 私は返事をする力も頷く力もなくただ茫然と立ちすくんでいた。

「じゃあ、ともかくその部屋に、行ってみましょう」

 私たちは、ようやくホームへと向かいはじめた。

 ついに足と、対話できるのだろうか。

 森下氏を介して。

 

          ◇◆◇

 

 部屋のドアを開ける。

 今日は、何も聞えてこなかった。

「いる?」

「いや」

 熱田氏が短く問い、森下氏が短く答える。

「え」しかし森下氏のリアクションには、まだ続きがあった。「ここ、って……」

 熱田氏がうなずく。「きれいでしょ」

 私には、専門家(エセでないと仮定して)たちの話の内容は正確にはわからなかったが、推察するに、足の霊だの女の霊だの、他の地縛霊だのが何もいないという、先日熱田氏が言っていたのと同じことなのだろう。

 きれいでしょ、というのが必ずしも、私の掃除がゆきとどいている、という意味でないことだけは確かだった。

 私たちはリビングに入った。

「あのね」出し抜けに熱田氏が私の箪笥に近づいてゆき、その上に置いてあったものを手に取った。「これを、貸して欲しいんだけど。いいかしら」

 振り向いた彼女が手にしていたのは、私が前に買ってきたコウロだった。

 足を成仏させんと試みるため、会社帰りに仏壇屋で買ってきた、線香を立てる器具だ。

「あ、どうぞ」私は特段感銘を受けるでもなく、軽くうなずいた。

「ありがとう」熱田氏はニッコリと笑う。「前におうかがいした時から、いい香炉だなーと思って、目をつけてたのよ」

 そうなのか。

 私には理解の及ばない“世界”の話ということになるのだろうが、専門家に――エセでないとして――所有物を褒められるというのは、やはり嬉しいような、くすぐったいような気持ちにさせた。

 熱田氏はハンドバッグから、お茶の葉のような、かりかりと乾燥した草の入った袋を取り出し、その草を、何回かに分けて香炉の中につまみ入れた。

 香炉の中に入っていた灰は、足の成仏に失敗した後、処分してあった。

 その後は文字通り、宝の持ち腐れという状態だったのだ。

 熱田氏は、香炉をリビングのほぼど真ん中の床の上に、両手で大切そうに置いた。

 我々三人は、それを取り囲む形で床の上に正座した。

 正座は好きではないが、とても胡坐を掻く雰囲気ではなかった。

 熱田氏は続いて、ハンドバッグから蝋燭と、それに点火するための器具を取り出した。

 チャッカマンだった。

 私は不躾にも、口を少し開けてその器具を凝視してしまった。

 熱田氏は特に表情を変えることなく、コチ、コチ、と二回トリガーを押して点火し、蝋燭にその炎を移した。

 蝋燭は香炉の中に立てられ、チャッカマンは熱田氏のハンドバッグの中に収められた。

 そんなんで、いいのか。

 私の脳裏にそういった問いがよぎったが、そんなんで、いいのだろうと思うことにした。

 なにしろ専門家のやることだから――エセでないとして――

「それでは、始めましょう」熱田氏が、別人のように静かな声で宣言した。

 チャッカマンと交代で取り出されたらしい長い数珠が、そのふくよかな手に握られていた。

 彼女はその数珠を右手にぐるぐると二重巻きして合掌し、両手をすり合わせた。

 カリカリカリ、と、数珠球が心地よい音を立てる。

 森下氏が、ささやくように経を唱え始めた。

 彼の手に数珠はなかったが、その両手の指は、彼のやる気のない喋り方とうって変わって、ぴしりとまっすぐに伸ばされ、ぴったりと合わせられていた。

 見る者の背筋を、思わずしゃんと伸ばさせるような、見事な合掌、というか綺麗な合掌だった。

 無論私も、うなだれて合掌した。

 だが目は閉じず、薄目を開けて香炉から立ち上る蝋燭の炎のゆらめきを見つめていた。

 足は、出てくるのか?

 森下氏の口を借りて、ついに奴が話し出すのか?

 心臓が、文字通りばくばくと鳴っていた。

 

「あっくん、やめて」

 

 私は顔を上げ、森下氏を見た。

 彼は眉をしかめ、口を引き歪め、苦しそうに、悲しそうに、か細い声で

「痛いよ……あっくん」

 そう言った。

 ついに“それ”は、現実世界で語りだしたのだ。