感受帯角質に正式な辞令が届いたのは、その日の夜だった。

『レイヴン=ガスファルト 上記の者を地球方面行方不明動物捜索捕獲係に任命し、地球への出動を命ずる』

 すべての準備を終えてから、レイヴンはふう、と息をついた後でそれを正式に受感した。二度、読み返す。それから、自宅の窓の方へ振り返る。

 灯りの下で、子どもたちとラサエルのシルエットが浮遊している。本体洗浄を終え、睡眠の準備をしているところだ。今のうちに、行く。

 子どもたちには、彼らが本体洗浄ブースに入っていく前、最後にキスをした。

「パパは今から仕事で何日か留守にするよ」ちゃんと説明して、見上げてくる大きな瞳たちの上のところを触手の柔らかい部分で触れてやる。

 レイヴンの触手から子どもたちの中に、安心感をもたらす電解質が流れ込み、子どもらはにっこりと微笑んでレイヴンに抱きついてきたのだった。

「パパ、行ってらっしゃい」ケイシが美しく澄み渡った声で言ってくれる。「お仕事がんばってね」

「ばいーん」ナウルも、お兄ちゃんと同じ内容を言っているつもりらしい。「あいーん。ばーん」

 レイヴンは顔をほころばせ、もう一度子どもたちを触手の中に閉じ込めて、それから解放した。「お父さんの言うことをよく聞いて、いい子にしてるんだぞ」

「はい」ケイシが頷く。

「ぱい」ナウルも。

 

 レイヴンを閉じ込めた殻は、雲流を突き抜け電磁界を突破し、宇宙へと飛び出した。すぐに彗星に乗る。それから小惑星に飛び移り、衛星につかまり、スイングバイして再び小惑星へ。こういった移動プロセスは、殻自体の遺伝子の中に組み込まれている。機に乗じろ。言葉で表せば、そんなところだ。

 レイヴン自身は何も操作する必要がないので、彼は殻の中で素粒子化し漂っていた。万一予期せぬトラブルが起こった際、彼の構成物質は殻に好きなだけ使わせてやる。その為目的地に着く頃には、レイヴンの体積が半分ほど減少していることもある。だがそれはそんなに問題ではない。今回の目的地、地球で、レイヴンの体を再構築すればいいだけの話だ。地球の構成物質を拝借して。というか、横領して。

「地球、か……」レイヴンが呟くのは、またしてもその惑星の名だった。

 地球へは、かつて行ったことがある。もちろん仕事でだ。そしてレイヴンはその仕事を終えホーム惑星に還った。もう二度と、こんな所はごめんだと思いながら。実際、自分のような遺伝的特質の者には無理な場所だと、つくづく思ったのだ。

 一体なんだって、自分がまた地球行きに選ばれたんだろう――いや、解っている。行ったことが、あるからだ。そして、何事もなく戻って来ることができたからだ。まったく何の損傷もなく、無傷で。再稼働可能な状態で。それはつまり、レイヴンの本体に物理的損傷がなかった、ということだ。

 しかし、精神的損傷は?

 とはいえ、そもそも物理的損傷と精神的損傷のボーターラインって、どこになるのか? 感受帯角質に飛び込んでくる情報なんか見たくもなくなるほど精神が疲弊しきっている場合、やがて受信そのものが不安定になったり、機能しなくなったりすることもある。その状態は単に「機能障害」と呼ばれているが、これは果たして物理的損傷なのか、精神的損傷なのか?

 前回地球から帰還したばかりのレイヴンには、感受帯角質に届く情報への抵抗あるいは拒否という反応は顕現していなかった。なので(無論判断基準は他にも多数あるが)、物理的損傷なしとの判断が下された。しかしその時点で、もし

『レイヴンすまないが、ただちにもう一度地球へ行って来てくれ給え』

という内容の指令が届いたとしたら、どうだったろう。

 端的にいってレイヴンは、それを見なかったことにしたに違いない。そして何度も、その反応は繰り返されたに違いない。そしてその結果、

『レイヴン・ガスファルトに物理的損傷あり』

という判断が下されたに違いない。感受帯角質への受信不可(ただし一部)という、症状だ。それは果たして、物理的損傷なのか? それとも――

「まじ無理だから!」

と全力で任務を拒否拒絶し地団太を踏む、子ども染みた我侭、頭のこわれたレイヴン=ガスファルト、つまりは精神的損傷、なのだろうか?

 そんな、とりとめもない想いにつらつら身を任せるうち、ふわり、と音もなく光が差し込むのを感じた。レイヴンは好き勝手ただよう素粒子の一部を寄せ集め、視覚野を形成し、それを確認した。

 青白い、光。

 ――ああ。

 視覚野だけの状態であるにもかかわらず、彼は深く息をついた。そして視覚野に捕えられているものが単なる惑星の姿でしかないにも関わらず、彼にはその荒野が、見えていた。

 どこの荒野か、どこにある景色なのかはよくわからない。けれどレイヴンの記憶の中に――というか記憶の片隅に……あるいは記憶の“ギリ外側”に、その荒野は密やかに存在している。それは――地球の景色だ。地球のどこかにある、荒野だ。

 レイヴンは地球が嫌いだった、が、その景色だけはどうしてか、堪らなく懐かしく、恋しく想うのだった。

 場所との相性、というものも、あるのかも知れないな。

 レイヴンはそんな風に思う。

 ぼくはここに再びやって来て、今、安心している――不思議なことに。

 まあ結局は、心を病むほどの要因が今のところ(まだ)自分にふりかかっていないからこそ、こんなに気楽にこの景色を眺められるということだろう。

 それは間違いない。

 しかしそうだとしても、気楽に眺める、というのと、眺めていて安心する、ないし嬉しく思う――というのは、また違うことのようにも思う。

 嬉しく思う。

 そうだ。

 ぼくはこの場所に戻って来られて、嬉しいのだ――まったくもって不思議なことに!

 ぼくは、ここに、戻って来たかったのだろう。

 この場所が、好きなのだ。

 この場所になら、たとえ地球上であっても、いたいのだ。

 ――何かが、いるのかも知れないな。

 ゆるゆると転がっていく枯れ草のかたまりを心の中で見つめながら、そう思う。

 この場所には、ぼくと相性のいい“何か”が、存在しているのかも知れない。

 動物なのか植物なのか、どちらでもないものなのか、わからないが。

 それはたぶん、ぼくを待ってくれていたんだろう――それがおこがましい考えだというなら、ぼくが戻って来ても「とくに差し支えない」とそれは判断してくれているのだろう。

 そんな想いをつらつら浮かべながら、レイヴンは、自発分散の準備に取りかかった。殻の中からレイヴン自身を弾き飛ばし、着地させるのだ。殻の内部にひずみエネルギーが充満していく。目を閉じる。飛ばされてゆく間は、レイヴン自身ではまったく何を為す術もない。ただ弾き飛ばされるまま、放物線を描いて己の着地を待つだけだ。

 ぱちん。

 殻の破裂音とともに、レイヴンは飛ばされた。うすく目を開けると、視界の上部に真っ暗な宇宙と、その下に青く輝く地球の姿が映った。

 音もなく近づいてゆくにつれ、地球周辺を回る人工衛星や宇宙ステーションの数々も視認できてくる。中には、地上に向けて殺傷能力のある光線を放つ機能を有するものもあれば、ミサイルそのものまでがどこかを目指し飛んでいるのも見えた。

 ――人間って、ばかだよな。

 レイヴンは薄れそうになる意識の中で、夢幻を見るようにそう思った。

 ――自らの身を滅ぼすものだけを、こんなに作っている。

 ――ほんの一部の人間だけに必要だという、そんな理由で。

 ――自分たちの作り上げた技術を、うまく制御できていない。そしてそれよりもっとたちの悪いことに、うまく制御できていないことに、気づいてさえいないんだ。

 ――人間って、ばかだよな。

 ――それなのに、必死で繁殖しようとしてる。

 ――滅ぼすだけなのに。

 ――生めよ滅せよ、だ。

 やがて彼は濃密な大気の壁にぶち当たり、少しの間、完全に気を失った。