「ん」オリュクスは走りながら、一瞬上を見上げた。

「オリュクス! ここだ、ぼくだよレイヴンだ!」レイヴンは叫んだ。

 だがオリュクスはすぐに前を向き、そのまま走り抜けた。立ち止まりもせず、それどころか一ミリパーセクたりとも速度を落としすらせず。

「オリュクス?」レイヴンは愕然としながらその動物の背を追視した。「待つんだ、君!」

 オリュクスの背はみるみる小さくなってゆく。

「オリュクス!」レイヴンはもう一度叫び、そしてようやく今どのような状況であり自分は何をするべきであるのかについて気づきを得た。

 オリュクスを、追いかけなければ。

 オリュクスは、立ち止まらなかったんだ。

 全速力で浮揚推進を開始する。

 だけど、何故彼は立ち止まらなかったんだ?

 ぼくがここにいることがわからなかったのか?

 けれど彼はぼくの呼びかけに反応し、上を見上げてきた。

 彼の生物反応感知帯に、ぼくの存在は検知されたはずだ。ぼくの声は聞こえ、ぼくの姿も見えたに違いない。

 なのに、何故彼は立ち止まらなかったんだ!

「オリュクス──!」叫びながらレイヴンは浮揚推進を続けた。

 やがてアードウルフが最初に走るのをやめ、オリュクスはけらけらと笑いながらその横を走り抜けた。

 次にツチブタが走るのをやめ、同じくオリュクスはけらけらと笑いながらその横を走り抜けた。

 そして最後にイボイノシシが──すでにがなる力も残っていないようだった──立ち止まったかと思うと地に倒れ伏し、オリュクスはその横を走り抜けたがその時だけ笑っていなかった。

 オリュクスは、ついにそこで立ち止まったのだ。

 レイヴンは遥か後方からそれを確認し、彼自身もきりもみ状態となって地上に落下しそうだったが歯を食いしばって飛び続け、ついに追いついた。オリュクスに。

 オリュクスは、世にもつまらなそうな顔をしてたたずんでいた。

「オリュクス!」レイヴンは最後の力を振り絞って呼んだ。「さあ、一緒に帰ろう。コスも、キオスもここにいるよ」収容籠を前面に押し出し、オリュクスにこれからするべきことを示す。「さあ、この光を見て──」

「いやだよ」オリュクスは言った。

「そう、いやだとも。こんな光──えっ?」レイヴンは何を言われたのか一瞬わからなかったが、見るとオリュクスは首を振りながら後ずさりしていた。「オリュクス?」

「ぼく、走っていけるよ」オリュクスは誇らしげに姿勢を正して言った。「走って帰る」

「いや、君」レイヴンは相変わらず何を言われているのかよくわからなかったが、差し向きオリュクスの希望に沿うことは不可能だということを伝えなければならなかった。「帰るっていうのは、どこかその辺の穴倉とか草陰とか木の洞とかにではなくて、ぼくらの故郷、星に帰るんだ。宇宙を渡っていくんだよ、この地球から出て」

「うん」オリュクスは素直に頷く。「ぼく、走って宇宙を渡っていく」

「できるわけないじゃん」コスが収容籠の中から叫んだかと思うと大笑いしはじめた。「馬鹿だな」

「できるさ。ぼくは君とは違う」オリュクスは一ミリたりとも臆さない。

「無理だよ、実際のところ」キオスも困ったように説得しようとする。「遺伝子分解してもらって、収容籠に入りなよ。早く帰ろう」

「遺伝子分解したら、走れる? その中で」オリュクスは疑り深げに目を細めて訊く。

「それは」レイヴンは咳払いした。「できない」

「じゃあいやだ」

「少しの間だけだ。すぐに星に着くから。すぐにまた、故郷の星で思い切り走れるさ」

「ほら、レイヴンを困らせるなよ」コスが溜息をつく。

「そう、レイヴンは地球から早く出たいんだよ」キオスも言う。

「あ」レイヴンは思わず肩をすくめた。「いや、そんなことは、その」

「ふうん」オリュクスはその時はじめて、自分を迎えに来た小さな生命体のことに興味を示した。「レイヴンは、地球が嫌いなのか」

「いや、君、そんな、それはぼくはその」レイヴは慌てふためいた。

「わかったよ」しかしそれは意外な効果をもたらしたのだ。「少しの間だけ、走るのを我慢するよ。早く帰ろう」

「え」レイヴンはきょとんとしたが、オリュクスは自分からさっさと光を浴び、収納機構に身を任せ、籠の中に吸い込まれていった。

 突然のように、静けさが訪れた。

──ああ」

 レイヴンはやっとのことで状況を理解し、ほう、と息をついて、上空へ昇り始めた。

 ──帰ろう。うん。

 三頭の動物たちは無事、レイヴンにより発見された。後は元来た道を逆に辿り、殻に任せて帰路に着くのみだ。

 さよなら、地球。

 今回は、なんだかあっという間だったな。レイヴンはそんな風に思う。それに、前来た時よりもずっと楽に仕事ができたし、拍子抜けするほどスムーズに事が運んだ。

 人間に出会うこともなく。ああ、なんてラッキーだったことだろう!

 早く帰ろう。子どもたちは元気でいるだろうか。もちろんそうだ。パートナーのラサエルにはまず感謝と、無限の愛を込めて抱きしめ、今回の土産話をたっぷり聞かせてあげよう。驚くかも知れないな、地球へ行ったはずのぼくがこんなに無傷で──多少疲れてはいるが──特別療養を必要としない状態のままでいるなんて!

 さあ、もうすぐ対流圏を抜ける──

 

「レイヴン」

 

 誰かが呼んだ。

「え?」レイヴンは収容籠を見た。

 

「レイヴン、助けて」

 

 まただ。

──」レイヴンは収容籠を見ていた視線を、恐る恐る声の聞こえてきた方に向けた。

 彼の隣、収容籠のある方とは逆側に。

「助けて、レイヴン。ぼくはまだここにいるよ」

 そしてそこには何者もいない。

「ぼくだけじゃない。マルティ、マルティコラスもいる。他にもまだいると思う」

──誰だい?」レイヴンはひとまず上昇するのを止め、かすれた声でそう訊くしかなかった。

「探しに来てよ、レイヴン」声は質問に答えず、そう繰り返すのみだ。

「誰なんだ? どこにいる?」レイヴンはぐるりと周囲を見渡した。

 誰もいない。

 そしてそれきり、声は聞こえなくなった。

 呼びかけても返事はない。

「どうするの? レイヴン」コスが訊ねる。「地球に来たのは、ぼくたちだけじゃなかったってこと?」

──ぼくには何の情報も与えられていないけどなあ」レイヴンは困惑した。「しかし……」

「マルティコラスもいるって言ってたよね」キオスが確認する。「探しに行くの?」

「けど、どこへ?」レイヴンはさらなる困惑を覚えた。「一体何者なんだ──誰の声だったか、わかるかい?」動物たちに訊く。

「いや」

「わからない」

「悪い奴なのかな」それぞれが答えたり意見を述べたりする。

「悪い奴って」

「どうして」

「わかんないけど」

「レイヴンをだまそうとしてるってこと?」

「ええっ、ひどいよ」

「帰らせないようにしようとしてるんじゃないの」

「でもマルティもいるっていうのが本当ならどうする?」

「そうだよ、マルティがいるなら一緒に帰らなきゃ」

「ううん……」どうするべきか。レイヴンは想い悩むあまり、きりもみ状態になって遥か彼方の地上まで落下しそうだった。「マルティコラス、か……」

 その動物の名は、今回の任務の中には含まれていないものだった。

 しかし今、臨機応変に立ち回る能力を、レイヴンは問われているのかも知れなかった。

 あるいは、ガセ情報をそれと見抜き無視して本来の任務完遂のみに徹する不動の精神力を、かも知れない。

 どっちにする──?

 どっちにすればいいのか判断つきかねる内にも、レイヴンは再び地球の大地へ向かい降下していた。それが自分の、どういう類いの能力による行動であるのかすらわからぬままに。

 

 

 

 

「ん」オリュクスは走りながら、一瞬上を見上げた。

「オリュクス! ここだ、ぼくだよレイヴンだ!」レイヴンは叫んだ。

 だがオリュクスはすぐに前を向き、そのまま走り抜けた。立ち止まりもせず、それどころか一ミリパーセクたりとも速度を落としすらせず。

「オリュクス?」レイヴンは愕然としながらその動物の背を追視した。「待つんだ、君!」

 オリュクスの背はみるみる小さくなってゆく。

「オリュクス!」レイヴンはもう一度叫び、そしてようやく今どのような状況であり自分は何をするべきであるのかについて気づきを得た。

 オリュクスを、追いかけなければ。

 オリュクスは、立ち止まらなかったんだ。

 全速力で浮揚推進を開始する。

 だけど、何故彼は立ち止まらなかったんだ?

 ぼくがここにいることがわからなかったのか?

 けれど彼はぼくの呼びかけに反応し、上を見上げてきた。

 彼の生物反応感知帯に、ぼくの存在は検知されたはずだ。ぼくの声は聞こえ、ぼくの姿も見えたに違いない。

 なのに、何故彼は立ち止まらなかったんだ!

「オリュクス──!」叫びながらレイヴンは浮揚推進を続けた。

 やがてアードウルフが最初に走るのをやめ、オリュクスはけらけらと笑いながらその横を走り抜けた。

 次にツチブタが走るのをやめ、同じくオリュクスはけらけらと笑いながらその横を走り抜けた。

 そして最後にイボイノシシが──すでにがなる力も残っていないようだった──立ち止まったかと思うと地に倒れ伏し、オリュクスはその横を走り抜けたがその時だけ笑っていなかった。

 オリュクスは、ついにそこで立ち止まったのだ。

 レイヴンは遥か後方からそれを確認し、彼自身もきりもみ状態となって地上に落下しそうだったが歯を食いしばって飛び続け、ついに追いついた。オリュクスに。

 オリュクスは、世にもつまらなそうな顔をしてたたずんでいた。

「オリュクス!」レイヴンは最後の力を振り絞って呼んだ。「さあ、一緒に帰ろう。コスも、キオスもここにいるよ」収容籠を前面に押し出し、オリュクスにこれからするべきことを示す。「さあ、この光を見て──」

「いやだよ」オリュクスは言った。

「そう、いやだとも。こんな光──えっ?」レイヴンは何を言われたのか一瞬わからなかったが、見るとオリュクスは首を振りながら後ずさりしていた。「オリュクス?」

「ぼく、走っていけるよ」オリュクスは誇らしげに姿勢を正して言った。「走って帰る」

「いや、君」レイヴンは相変わらず何を言われているのかよくわからなかったが、差し向きオリュクスの希望に沿うことは不可能だということを伝えなければならなかった。「帰るっていうのは、どこかその辺の穴倉とか草陰とか木の洞とかにではなくて、ぼくらの故郷、星に帰るんだ。宇宙を渡っていくんだよ、この地球から出て」

「うん」オリュクスは素直に頷く。「ぼく、走って宇宙を渡っていく」

「できるわけないじゃん」コスが収容籠の中から叫んだかと思うと大笑いしはじめた。「馬鹿だな」

「できるさ。ぼくは君とは違う」オリュクスは一ミリたりとも臆さない。

「無理だよ、実際のところ」キオスも困ったように説得しようとする。「遺伝子分解してもらって、収容籠に入りなよ。早く帰ろう」

「遺伝子分解したら、走れる? その中で」オリュクスは疑り深げに目を細めて訊く。

「それは」レイヴンは咳払いした。「できない」

「じゃあいやだ」

「少しの間だけだ。すぐに星に着くから。すぐにまた、故郷の星で思い切り走れるさ」

「ほら、レイヴンを困らせるなよ」コスが溜息をつく。

「そう、レイヴンは地球から早く出たいんだよ」キオスも言う。

「あ」レイヴンは思わず肩をすくめた。「いや、そんなことは、その」

「ふうん」オリュクスはその時はじめて、自分を迎えに来た小さな生命体のことに興味を示した。「レイヴンは、地球が嫌いなのか」

「いや、君、そんな、それはぼくはその」レイヴは慌てふためいた。

「わかったよ」しかしそれは意外な効果をもたらしたのだ。「少しの間だけ、走るのを我慢するよ。早く帰ろう」

「え」レイヴンはきょとんとしたが、オリュクスは自分からさっさと光を浴び、収納機構に身を任せ、籠の中に吸い込まれていった。

 突然のように、静けさが訪れた。

──ああ」

 レイヴンはやっとのことで状況を理解し、ほう、と息をついて、上空へ昇り始めた。

 ──帰ろう。うん。

 三頭の動物たちは無事、レイヴンにより発見された。後は元来た道を逆に辿り、殻に任せて帰路に着くのみだ。

 さよなら、地球。

 今回は、なんだかあっという間だったな。レイヴンはそんな風に思う。それに、前来た時よりもずっと楽に仕事ができたし、拍子抜けするほどスムーズに事が運んだ。

 人間に出会うこともなく。ああ、なんてラッキーだったことだろう!

 早く帰ろう。子どもたちは元気でいるだろうか。もちろんそうだ。パートナーのラサエルにはまず感謝と、無限の愛を込めて抱きしめ、今回の土産話をたっぷり聞かせてあげよう。驚くかも知れないな、地球へ行ったはずのぼくがこんなに無傷で──多少疲れてはいるが──特別療養を必要としない状態のままでいるなんて!

 さあ、もうすぐ対流圏を抜ける──

 

「レイヴン」

 

 誰かが呼んだ。

「え?」レイヴンは収容籠を見た。

 

「レイヴン、助けて」

 

 まただ。

──」レイヴンは収容籠を見ていた視線を、恐る恐る声の聞こえてきた方に向けた。

 彼の隣、収容籠のある方とは逆側に。

「助けて、レイヴン。ぼくはまだここにいるよ」

 そしてそこには何者もいない。

「ぼくだけじゃない。マルティ、マルティコラスもいる。他にもまだいると思う」

──誰だい?」レイヴンはひとまず上昇するのを止め、かすれた声でそう訊くしかなかった。

「探しに来てよ、レイヴン」声は質問に答えず、そう繰り返すのみだ。

「誰なんだ? どこにいる?」レイヴンはぐるりと周囲を見渡した。

 誰もいない。

 そしてそれきり、声は聞こえなくなった。

 呼びかけても返事はない。

「どうするの? レイヴン」コスが訊ねる。「地球に来たのは、ぼくたちだけじゃなかったってこと?」

──ぼくには何の情報も与えられていないけどなあ」レイヴンは困惑した。「しかし……」

「マルティコラスもいるって言ってたよね」キオスが確認する。「探しに行くの?」

「けど、どこへ?」レイヴンはさらなる困惑を覚えた。「一体何者なんだ──誰の声だったか、わかるかい?」動物たちに訊く。

「いや」

「わからない」

「悪い奴なのかな」それぞれが答えたり意見を述べたりする。

「悪い奴って」

「どうして」

「わかんないけど」

「レイヴンをだまそうとしてるってこと?」

「ええっ、ひどいよ」

「帰らせないようにしようとしてるんじゃないの」

「でもマルティもいるっていうのが本当ならどうする?」

「そうだよ、マルティがいるなら一緒に帰らなきゃ」

「ううん……」どうするべきか。レイヴンは想い悩むあまり、きりもみ状態になって遥か彼方の地上まで落下しそうだった。「マルティコラス、か……」

 その動物の名は、今回の任務の中には含まれていないものだった。

 しかし今、臨機応変に立ち回る能力を、レイヴンは問われているのかも知れなかった。

 あるいは、ガセ情報をそれと見抜き無視して本来の任務完遂のみに徹する不動の精神力を、かも知れない。

 どっちにする──?

 どっちにすればいいのか判断つきかねる内にも、レイヴンは再び地球の大地へ向かい降下していた。それが自分の、どういう類いの能力による行動であるのかすらわからぬままに。

 

 

 

 

「レイヴン」

 キオスの呼ぶ声にはっと我を覚えたレイヴンだった。「あ、ああ」

「あのチンパンジーは……どうするの?」キオスは、どこかおずおずとしながらそう訊ねてきた。

「え」レイヴンは一瞬、どのチンパンジーのことなのかわからなかったのだが、すぐにはっと記憶を取り戻した。「あ、ああ」地上を見下ろす。

 黒焦げの無残な姿になったチンパンジーはそのままそこにいた。

──ぼくたちには、何もできないな……」レイヴンはしかし、そのように答えるしかできなかった。

──」キオスにも、レイヴンがそう答えるだろうことと、そう答える理由もわかっていたのだろう。「ひどいよね」しかし彼はそう呟いた。

──ああ」レイヴンも認めるしかなかった。自分も含めて『ひどい』ことは確かだ。

「ギルドってさ」コスも、何かの感情を押し殺しているような低い声で話しかけてきた。「人間みたいだよね」

「え」レイヴンは一瞬、どうしてそんな風に思うのかわからずにいたが、すぐにその意図を汲むことができた。「そう、だね……」小さく頷く。

「自分たちは他の動物たちよりも格上で偉いんだって思ってる」キオスはそう続けた。「ていうか、ギルドは多分、人間でさえも見下しているんだろうね」

 レイヴンははっとした。確かにそうだ。ギルドは、他のすべての生物を下に見ている。だから保護してDNAを保存するという名目で、その実かたっぱしから倉庫にぶちこんでほったらかすようなことを、悪びれもせずやってのけるんだ──さっきも言っていたが、宇宙への関与度? を知るためとかなんとかほざきながら──それは彼らにとっては大事で必要な研究なのだろうが、果たして他の生物たちにとってはどうなんだ?

「レイヴン」突然キオスが叫び、レイヴンははっと思考を中断した。「何か来る」

「えっ」慌てて周囲の大気の動きを走査する。

 

 どどどどどど

 

 事実、何かが走って来る。かなりのスピードだ。チーターか?

 レイヴンは忘れていたことを思い出した。チーターか!

「ちょお、どけええ」その時、怒鳴り声がとどろいた。「うおおおおお」

 怒鳴り声というか、がなり声だ。しかし誰に向けなっているのか? ひとまずレイヴンたちは空中に浮揚したままの状態なので、危険性はないだろうことは確かだ。

 しかし──

 

 どどどどどど

 

 チーターの走り方ではないように、レイヴンには感じられた。恐らくチーターであれば、もっと速く、気づかぬうちに近くまで来ているはずだ。じゃあこれは──

「うひいいいい」その時その動物はレイヴンたちの真下を通り過ぎていった。

「イボイノシシだ」コスが言う。「どこに行くんだろ」

「くそおおお、どけええええ。うおおおおお」イボイノシシのがなり声は、あっという間に遠ざかっていった。

「なんだったんだ……」

「すごく慌てていたね」

「また誰かを怒らせたのかな」

 レイヴンとキオスとコスが同時に呟いた時、

「待ちなさああい」

 再び叫び声が聞こえて来た。レイヴンたちがはっと声のした方を見ると、ツチブタがイボイノシシを追って走って来たのだ。「今日という今日は許さないからねえ

「どうしたんですか?」レイヴンは思い切って叫んだ。

──」ツチブタは走りながら上を見上げたが、走るスピードは落とさなかった。「あいつ、いっつもうちの巣ばっかり乗っ取ろうとするのよ」走りながら叫び返すが、その声はあっという間に遠ざかっていった。

「ははは」コスが笑う。「いつもの喧嘩だな」

「いつも?」レイヴンが驚いて訊き返す。「イボイノシシはいつもツチブタの巣を乗っ取っているのかい?」

「あの二頭の間でだけ、なぜかいつも乗っ取ったり追い回されたりしてるんだよね」キオスも説明する。「他のツチブタの巣もあるのに、どうしてかあの一頭が作る巣だけ狙うんだ、あのイボイノシシ」

「ええっ」レイヴンは再度驚いた。「一体なんで」

「待ちやがれっ待ちやがれってんだっ待ちやがってくれってんだっ」その時また叫び声が聞こえてきた。

 レイヴンたちが声も挙げずにその方を見ると、今度はアードウルフが叫びながら走って来た。「待ちやがりくださってくれってんだっお待ちになってくださりやがれってんだっ」走りながら叫びながら、どういう言い方がよりよい効果を発揮するのか考察に余念がない様子だった。

「あの、大丈夫?」レイヴンはついそんな風に声かけをした後で、よけいな心配をする自分に少し後悔した。

「どうぞお待ちに」アードウルフは考察を続けながら上を見上げた。「かのツチブタ氏、われの発見せしシロアリの巣をすべからく壊滅せしめたり。われ怒り追撃せん」小難しく説明する声もすぐに遠ざかっていった。

「シロアリの巣って」レイヴンは、自分をキオスの元に導いてくれた──といっても過言ではない──シロアリの『囮』を思い出した。

「ああ、ツチブタもアードウルフもシロアリが好物なんだよね」コスが納得の声で言う。

「うん。でもツチブタさんはいつもシロアリ塚を壊しちゃうんだよね。アードウルフさんは壊さないで、通いで捕食するみたいだけど」キオスも補足説明をする。

「餌場争いかあ」コスが溜息を吐く。「巣争いに、餌場争い……大変だなあ」

「ぼくたちも元の星に帰ったら、そんな風にいろいろ争わなきゃいけなくなるんだろうね」キオスが小さく笑う。「生存競争だ」

 あのシロアリは大丈夫だろうか──レイヴンはつらつらと、そんなことを想っていた。

「あははははは」突然、大きな笑い声が聞こえてきた

 レイヴンとコスとキオスは、はっと息を呑んだ。

「楽しい! あはははは、待て待てえ──」本当に心底楽しそうな叫び声はみるみる近づいて来る。「ぼくが一番速いぞお! すぐに追いつくからなー!」

「オリュクス!」レイヴンは叫んだ。

 

 

 

 

「攻撃……?」レイヴンは衝撃を覚えながらも心の片隅で、こいつは法螺を吹いているのではないか、と勘繰りもしていた。「君たちを、ということは、ギルドを?」

「そう」ルルーは頷きながら地上でいまだ震えている傷ついたチンパンジーを見下ろし、次の瞬間その赤い目から鋭い光線を迸らせ件のチンパンジーに照射した。チンパンジーは黒こげの様相になり地上に倒れ伏して、完全に動かなくなった。

「あっ」叫んだのはレイヴンだけでなく、コスもキオスもだった。

「うん」ルルーは頼みもしないのに、今自分が何をしたか説明した。「あいつはもう死ぬだろうから、無傷のDNAだけ回収しとくよ。参考までに」

──」おい。レイヴンはすんでのところでそう怒鳴るのを抑えた。「参考って……何のための?」いかにも参考までに知りたいという姿勢を見せて質問する。

「そりゃ決まってるさ」ルルーは少し吹き出しながら答える。「宇宙への関与度調査だよ」

「関与度──」レイヴンは茫然と呟いた。

「そう。こいつの遺伝子がどの分子をどれだけ使って何を生みだし、環境に如何なる影響を及ぼしたか。さらにその環境から如何なるフィードバックを受け如何様に進化していったか。まあざっくりいえばそんなところかな」

「へえ」レイヴンはそっと頷くことしかできずにいた。「そうか、それがギルドの」

「彼の幸福追及の権利は?」溜らず口を挟んだのはコスだった。「彼は宇宙である前に一個のチンパンジーだろ」

「そうだ、その通りだ」キオスも同調する。「ギルドは傲慢だ」

「あれ」ルルーは真顔になった。「我々に楯突くのは地球の動物だけじゃないようだね」

「いや、違う」レイヴンは咄嗟に触手を最大限に伸ばし収容籠を庇った。「攻撃するつもりなんか一切ない。ただ彼らの、そう──哲学というものがあるんだ、それを述べただけだよ」

 ルルーはじっとレイヴンを見ていたがしばらく答えずにいた。

「よく、言って聞かせとくから……今日のところは、ね」レイヴンはルルーの赤い目からいまにもあの光線が照射されるのではないかと思うと伸ばした触手が震えるのだったが、それでも広げたまま動かさずにいた。

「あ」突如ルルーは上空を見上げた。「そうだこうしちゃいられない。私は先遣隊としての任務を遂行しなければ」そう言ったかと思うと出し抜けにブレードをくるくる回転させ空高く昇って行きはじめた。「君らの無事を祈るよ、レイヴン。そして哲学動物たち」

「あ」レイヴンは拍子抜けしながらも「ありがとう」と挨拶したが『またいつか』とは続けなかった。

 

 

 

 レイヴンはその後、チンパンジーの群れに声をかける機会を見つけられないまま、彼らが群れの仲間の一頭の元へ向かい、その対象に対し金切声を挙げながらよってたかって叩いたり引っ掻いたり噛みついたりし始めるのを傍で眺めることしかできなかった。

「レイヴン」キオスが叫ぶ。「大変だよ。やめさせなきゃ」

「あいつらの言う『さばく』って、こういうことなのか」コスも戦慄を覚えたように茫然と呟く。

 レイヴンは二人の声のおかげではっと我に返ることができたが、しかし彼には声を挙げることができなかった。

 生態系のルールだ。

 地球、我々から見れば他星の動物たちにおける、ずっと昔から続いてきたであろうしきたり、掟、種の保存を継続するための、法則。

 彼らがつくり上げてきた、やり方がこれなのだ。

 暴力の対象になっているチンパンジーが何をしでかしたのか、どういった理由で子の者たちはそのをいたぶるのか、レイヴンには──彼ら以外のすべての生き物には、理解し得ないのだろう。

「レイヴン」キオスが泣きながら叫ぶ。

「いじめだな」コスが汚らわしそうに呟く。

 確かに、卑劣だ。倫理に悖る行為だ。我々の倫理に。だが彼らに取ってはそれが正規であり、正義なのだ。我々には──ぼくにはどうする術もありはしないんだ──

 

「へいへい、この馬鹿猿どもが」

 

 その時、上空からそう叫ぶ声が聞こえ、その直後、仲間をリンチにかけていたチパンジーたちが何らかの力を受け周囲に吹っ飛んだ。

 暴力を受けていたチンパンジーはその場に蹲り、頭を抱えて震えていた。体はひどく傷つけられ出血し、重症のように見えた──あるいは重体なのかも知れない。

 レイヴンはただ茫然と上空を見上げていた。

 ──半月……?

 彼の脳裡に最初に浮かんだ言葉は、それだった。見上げる空には、たった一つの太陽は存在しているが、この惑星に付随するたった一つの月は見えていなかった。だからもう半月になっているのかどうかわからなかった。

 ──もう、あいつらが来る時期だというのか? いや、いささか早いのでは? カンジダの奴の勘違いか? それともレッパン部隊とやらの情報に齟齬があった?

 めくるめく想いにただ茫然と身を任せるレイヴンだったが、上空から降りてきた『そいつ』は、頼みもしないのに彼に気づいたようだった。

「あれ、君はだれだっけ?」頼みもしないのに気さくに声をかけてくる。

──」レイヴンは最初の一瞬こそ無視して立ち去ろうかと思ったのだが、考え直してもう一度上空を見上げた。「どうも。レイヴンだよ」こうなったらこいつらを、こちらの利得のために利用してやろうじゃないか。使える者はギルドでも使えってことだ。

「ああ、ホコリの一匹か」ギルドの者は声を高めて陽気に話しかけた。「君たち逃亡動物強制連行屋だよね。任務ご苦労様」

これはまた、全然ねぎらってくれているように聞こえないな。不思議だ」レイヴンは微笑みながらカウンターを食らわした。「君は、かのギルド所属員だよね?」

「そうだ。私のコードはルルー」ギルドの者は誇らしげに名乗った。それから地球産植物の実の形を模したらしい機体のてっぺんで、地球産植物の葉の形を模したらしいブレードをくるくる回したり、止めたり、逆向きに回したり、また止めたり、速度を変えたりブレードそのものの位置角度を変えたりして、実に巧みにレイヴンの真ん前まで降りてきた。

 チンパンジーの群れはとうに四散し、傷つきよろめいていた個体までもがさらなる恐怖に恐れおののき少しでも遠くへ逃げようと必死でもがいていた。

 レイヴンはさすがにその個体を保護すべきだろうかという想いをほんの僅かながら抱いたが、それはもしかしたらギルドとの対話を少しでも避けたいと望む本心の現れにすぎなのかも知れなかった。

「ねえ、レイヴン」ギルド員──コードはルルーといったか──はじっとレイヴンを見つめた。地球産植物の実型の機体に二つ並んでついている、赤く光る目で。

 ──この機体が本体なんだっけ、それともこの中に本体が隠れてるんだっけ……

 レイヴンは目を会わせないようにしながら「何だい、ルルー?」と応えた。

「君はさ、何か知らないかな?」ルルーはなおもレイヴンを無遠慮に見つめ続けている。

 ──ああやっぱりこの機体は作り物だ。これが本体なら、こんなに不躾にこんな近くで人の顔をまじまじと凝視したりしない。こいつは機械で、生物じゃない。

 レイヴンが冷や汗を大量に掻きつつ思っていると、ルルーは声をひそめて言った。

「この星の動物たちが、我々に対して攻撃をしかけようと目論んでいるというようなことについて」

 

 

 

 オリュクスは素早い。疾風のように素早く、水のように無駄のない動きで流れるように走る。

 彼はとにかく元気で、いつもご機嫌で、とにかく自分の体を動かすのが好きな動物だ。自分の体が動くということが、嬉しくて楽しくて仕方がないという雰囲気を醸し出しながら生きている。今もきっとそうだ。

「チーター?」レイヴンはふとそう思った。

 何がチーターなのかというと、オリュクスが今一緒にいる──そんな恐ろしい話を避けるならば、わりかし近くにいる生き物、それがチーターなのではないか。レイヴンはそう思ったのだ。

 チーターのわりかし近くで、恐らく「ぼくの方が速い」てなことを思ったりしつつ、ふんと鼻息荒く密かに競ったりしているのではなかろうか。

 いや、実際どちらが速いのだろう? レイヴンはまたふと考えたが、答えはすぐに目の前に現れた。チーターだ。彼の方が速いに決まっている。何故ならチーターは速いだけでなく、オリュクスの体長の、ざっと三~四倍は長いからだ。

 オリュクスは負けるだろう──そしてその後どうする? レイヴンはふう──、と長い溜息を吐いた。オリュクスは、そうきっと彼は、もう一度挑むだろう。そしてまた負ける。だがもう一度。さらにもう一度。ついでにもう一度。いや待てといわんばかりにもう一度。

 そう、オリュクスは疲れを知らない。眠る直前まで走っている。

 だがチーターは恐らくそうではない。疲れもするだろうし、腹も減るだろう。そして……そう、彼はとっくの昔にこっそり自分と張り合おうとする生意気なチビの存在に気づいており、疲労が蓄積するのに比例して、そいつへの苛立ちも増してゆくのだ。そういえば腹も減った、なら今夜のおかずは──

「やめろ!」レイヴンは我知らず叫び声を挙げ、収容籠の中のコスとキオスに衝撃を与えてしまった。彼はしばらくの間浮揚推進しつつ動物たちに平謝りしなければならなかった。

 チーターか……

 レイヴンは気が重かった。無論、チーターが怖いわけではない。彼らに会って、何か知らないか情報を聞き出すのは、これまでに会った他の動物、ゾウやシロアリやハダカデバネズミたちと何ら変わらず問題なく遂行できるミッションだ。

 しかしそれでも、何故かレイヴンは気が重くなるのだった。

 

「あいつの腹の中は真っ黒だからな」

 

 しばらく進むと、誰かの声が聞こえてきた。

 レイヴンははっと身構えたが、停止はせずその声のする方へ引き続き浮揚推進していく。

「確かに」誰か別の声が答えて言う。

「それもただの黒じゃないぞ。どす黒いんだ」

「ふむふむ」

「確かに」

「つまりあいつの腹の中は、真っどす黒いんだ」

「すごいな」

「確かに」

 数頭が集まって何か話し込んでいるようだ。

「そんな奴、いてもらっちゃ困ると思わないか」

「うーん」

「どうかな」

「確かに」

「俺、なんか許せないんだよね。ああいう、なんていうの、勝手気ままな奴」

「自由だよね」

「確かに」

「自由っていうか、わがままだよな」

「ああ」

「確かに」

 会話はすこぶる早口で行われ、聞いていると体がちりちりと煙を上げはじめそうだった。レイヴンは空咳と生あくびを数回ずつ繰り返し、深呼吸をして自分を落ち着かせた。

 大丈夫。あいつらは、人間じゃあない。

「チンパンジーだ」コスが言う。「レイヴン、大丈夫?」

「何か聞きに行くの?」キオスも心配そうに続ける。「無理しない方がいいよ」

「ははは、大丈夫さ。ありがとう」レイヴンは完全なる空元気のもと笑って見せた。「チーターの居場所を訊くなら、チンパンジーしかいないかなと思ってね」

「まあ、チーターは速いもんね」コスは納得したように頷く。「彼らの動きを目で追いかけていられるのは、チンパンジーぐらいのものだろうからね」

「でも、レイヴンはチンパンジーが嫌いなんでしょ?」キオスはなおも心配そうだ。

「チンパンジーがっていうより」コスが間髪入れずに訂正する。「人間が、だよね」

「ははは」レイヴンはやはり乾いた笑い声を挙げた。「厳密に言えばね。そう、彼らはチンパンジー、ぼくにとってはギリギリセーフのゲノム所有者だ」

「彼らは一歩間違えれば人間になっちゃうんだね」コスが、チンパンジーの方を心配しているような声で言う。

「いやあ、決してそんなことにはならないさ。彼らは彼ら、ヒトはヒト。はっきりと区分けされている」レイヴンは言いながらも、自分の体が冷たくなっているのを知った。

 大丈夫だ。深呼吸する。

「それで我々はどうするべきであるか」チンパンジーの一頭が他の者たちを見回して言う。「決をろう」

「さばく」

「さばく」

「あいつをさばく」

「うん。さばく」

「そうだな」

「それしかない」

「確かに」

 レイヴンはかけようとした声を呑み込んだ。

 この者たちは、人間じゃない。

 チンパンジーだ。

 しかるに今、この者たちが話す内容とは。

「人間とどこが違うんだ?」レイヴンは我知らず問いかけた。

 

 

 

「なんか聞こえる?」

「なんか言ってるわ」

「どこ?」

「どいて」

「ちょっと尻尾引っ張らないで」

「やめて」

「どいて」

 ハダカデバネズミたちは何やらもめている様子だった。

「あの、ここです」レイヴンは辛抱強く声を張り上げつづけた。「あなた方に危害は加えません。どうか穏便に、話を聞いてください」

「なんか言ってるわ」

「どいて」

「尻尾引っ張らないで」

「なに?」

「どこ?」

「あの、あなた方より少し大きくて、歯も大きくて毛が生えてて、尻尾が長くて滑るように速く走る生き物を見かけませんでしたか?」レイヴンは、オリュクスの特徴を叫び伝えた。

「なんかいろいろ言ってるわ」

「あれこれ言われてもわかんないわ」

「無理よ」

「わかりやすい人生を用意して欲しいわ」

「ええと、あの」いったい何をどう言えば対話が成立するのだろう。レイヴンは焦燥の極みに立たされた。

 

「いったい何事ですか。ずいぶんと騒々しいけれど」

 

 その時、凛と張りのある声が響いた。

 ハダカデバネズミたちは静かになり、レイヴンははっと目を見開いた、だがどの者がその声を響かせたのかわからなかった。

「女王だわ」

「女王が来た」

「まあどうしてこんな所に女王が来るのかしら」

 一瞬静まり返ったハダカデバネズミたちだが、喧噪はすぐに復活した。

「ねえ、女王っていつまでいるのかしら」

「さあ、わかんない」

「私次の女王になりたいんだけど」

「私もよ」

「私も」

「みんなそうよ」

「あなたたち、私が通りますよ。失礼」凛と張りのある声が再び響き、続けて、

「ぢゅー」

「ぎゅー」

「ぐー」

「みちゅー」

「むちゅー」

「げちゅー」

という、なにか押しつぶされたような声が続いた。

「な、なんだ」レイヴンはすっかり困惑したが、何かが自分の今いる場所へ近づいて来ようとしているらしいことだけは判った。

「ぎぐー」その声を最後に潰されたような声は途絶え、その直後、さっき砂煙の上がった穴から一匹のハダカデバネズミがぬっと顔を出した。

「あっ」レイヴンは驚いたが「こ、こんにちは。ぼくはレイヴンです」と挨拶した。

「あらこんにちは、レイヴン」そのハダカデバネズミは、初めてレイヴンと対話をしてくれた。凛と張りのある声の主だ。「私たちに何かご用?」

「あ」レイヴンが返事をしようとした時、彼女の周囲の土がばらばらと崩れ、穴が広がって彼女の周囲に何匹ものハダカデバネズミがひしめき合いながら顔を覗かせた。「うわ」レイヴンは返事の代わりに吃驚した声を上げてしまったのだった。

「何か言ってるわ」

「なに」

「レイヴンって言ったわ」

「レイヴンってなに?」

「食べ物かしら」

「よく見えないわ」

「女王が邪魔だわ」

「女王は何してるの」

「どうして女王がこんな所にいるの」

「あなたたち」女王、と呼ばれたのだと思われるその凛と張りのある声の主が、首をふるふると左右に振りながら大きな声を上げた。「私の部屋を掃除して。それからおやつと、今日の夕飯の準備をして運んでおいて。赤ちゃんの分もね。さあ行って」

「わかったわ」

「いいものを手に入れましょ」

「一度にたくさん言われても無理だわ」

「複雑だわ」

「わかりやすい人生を用意して欲しいわ」ハダカデバネズミたちは女王を残して全員穴の奥へ引っ込んだ。

 ほう、と思わず安堵の息をつくレイヴンだった。

「ごめんなさいね」女王はレイヴンに微笑みかけた。「それで、あなたは私たちにんなご用なの?」

「あ、実はぼくたちは仲間を探しているんです」レイヴンはもう一度、オリュクスの形態的特徴を女王に伝えた。「見かけたことはありませんか?」

「私は、ないわ」女王は思い巡らせながらゆっくりと答えた。「他の子たちには、もししたらあるかも知れないけれど」

「あ」レイヴンは少しだけ希望を取り戻した。「あの、皆さんに確認していただくことって、できます……?」だが質問の言葉を発しながら、彼には女王がなんと答えるか予測できてしまい、その口調は弱々しくなっていった。

「できないわ」女王は小さな肩をすくめて予測通りに答えた。「あの子たち、たとえあなたの仲間を見かけていたとしても、それを私に話したりしないわ」

「ど」レイヴンは戸惑いながら質問した。「どうしてですか?」

「忙しいからよ」女王はもう一度肩をすくめた。「掃除や食餌の支度やいろんな仕事があるから。余計な話をしている暇がないの」

「で、でも」レイヴンは、さっきの喧噪は余計なではないのか、と思ったがそれは口に出さず「女王が訊ねたことには皆、きちんと答えなければならないのではと訊いた。

「女王?」女王は首を傾げた。「誰が?」

「え」レイヴンは目をぱちくりさせた。「あなた、女王でしょう?」

「私?」女王は首をふるふると振った。「いいえ、私はただの出産担当よ」

「しゅ」レイヴンの頭はこんがらかった。「え? でも皆あなたのことを女王って」

「あの子たちまだ出産してないから、そう思っているだけなのよ」

「出産、していないから?」

「ええ。私もそうだったんだと思うわ出産するまでは出産できるのは女王だけで、その女王が死ぬまで交代はできない。だから」

──」

「女王が死んだら、次は自分が女王になるんだって」

──」レイヴンは無意識のうちに後ずさりし始めていた。「あなたは、皆から尊敬されてはいないんですか」

「尊敬?」女王はもう一度首を傾げた。「私が、どうして?」

「だって……女王、と呼ばれているからには」

「出産したら、皆気づくのよ」女王は少しずつ遠ざかるレイヴンを特に追いかけもせず、ただ見送りながら頷いた。「これは出産という仕事を担当する役目なんだって。別に女王ではないんだって。私もそうだったわ」

「ああ……なるほど」レイヴンは、自分の声が相手に届いているかどうか自信がなかったが、最後には理解しましたという態度を見せた上で辞そうと願っていた。「わかりました。どうもありがとう」

「でもねレイヴン」女王は最後に言った。「出産担当って、すごいわよ。女王なんかより、ずっと楽しい」そしてにっこりと笑った。「気をつけてね。さよなら」

「あ」レイヴンは最後に頭をごつんと殴られたような感覚を受けた。「さよなら、お元気で」

 女王が地下に引っ込む前になんとかそう告げたが、女王がそれを聞いたかどうはわからなかった。

 

 

 リーダーのゾウは立派な牙を備える巨大な体躯の持ち主だった。その前足を持ち上げ、キオスの上に下ろされるだけで、この小さな動物はぺしゃんこになるだろう──杞憂にすぎないとわかってはいるが。

「あら、どうしたの? 眠れないの?」リーダーは、とても穏やかな表情と口ぶりでキオスに話しかけてきた。

「あの、リーダー……ぼく、元いた星からお迎えが来たので、帰ります」

「まあ」リーダーは目を丸く見開いた。「そうなのね……でもよかったわね。寂しくなるけれど、またいつか会えると嬉しいわ。気をつけてね」そう言い、長い鼻を持ち上げてキオスにそっと触れる。

 レイヴンはいくらか緊張したが、キオスにはまったく怖れる素振りも見られず、静かに撫でられるままになっていた。

「仲間に入れてくれて、ありがとうございました」キオスはお礼を言った。「ぼくは一人にならずにすんで、本当に助かりました。いつかまた、会えたらぼくも嬉しいです。きっといつか、また」

 リーダーは鼻を動かしながら静かに頷き、そしてキオスから鼻を離した。「元気でね。さようなら」

「はい。さようなら」

 そうしてキオスはリーダーに背を向け歩き出した。

「行くのかい、牙のない子」別のゾウが声をかけてきた。

「あ──」

 キオスはその方を見たが、その時再び彼が悲しみの分子を放出させるのをレイヴンは感知した。

「あのう、ごめんなさい、ぼくは」

「いいさ」そのゾウはキオスの言葉を遮った。「気をつけて行くんだよ」

──」キオスは泣き出すのを堪えているようだった。「あなたのこと、忘れません」声を震わせながら彼は言った。「あなたが教えてくれたこと、牙の話、宗教のこと、この群れのこと、葉っぱや草のこと、全部」そしてやっぱり彼は泣き出した。「忘れません」

「うん」このゾウもまた鼻を揺らめかしてキオスの頭に触れた。「いい子だ。私もずっと覚えているよ。元気でな」

 そしてキオスはそのゾウに、そして群れに背を向け歩き出した。

 大きなネコ科の目が光るのを感知したたところで、レイヴンは彼を収容籠に取り込み、保護した。

 

          ◇◆◇

 

 ここまで、考えようによっては空恐ろしいほどに仕事は順調に進んだ。

 空恐ろしいほどに。そう。

 なにしろ地球時間で三日と明けず、三頭中二頭までの動物を保護することができたのだ。コス、そしてキオス。残るはオリュクスだけだ。

 そしてレイヴンには、今地平線から登ってこようとするたった一つの太陽よりも明らかに見えている真実があった。無論、オリュクスを見つけるのは人生最大の難関の一つになるだろうことだ。

 オリュクスの居場所をどうやって探す? 彼の好みそうな場所──彼の大きさ──地球産の動物で彼に似た形態のもの──レイヴンは浮揚推進しながら考えを巡らせた。

 コスもキオスも、オリュクスの居場所について心当たりはないという。それはそうだろう、何しろ彼らはここへ、一緒に連れ立ってやって来たわけではないのだろうから

 それは彼らにとって大変に不運なことで、誰かわからないが狡猾で悪辣なやり方でこの純粋な動物たちを連れ去り、宇宙を渡り、気まぐれにこの星へ降り立ち『捨てて』行ったのだ。一体そんな行いに何の意味があるのだろう。あるいは何のメリットが? 

 そう、レイヴンは幾度も問う。何のために? 何が目的で? そして幾度問うても回答はない。

 コスもキオスも、自分が元いた所から連れ去られた時のことをよく覚えていないという。なぜならその時彼らは、まだ成長しきっていない子どもだったからだ。楽しく遊びながら自分の生まれた環境における生存方法を学んでいる最中、突然さらわれたのだ。

 ギルド。

 レイヴンの脳裡にその名が浮かぶ。

 カンジダは、たった一つの月が半月になる頃、奴らがやって来ると言った。タイム・クルセイダーズだったか? 御大層な名前だ。まるで彼らが、動物たちの救世主みたいに聞こえるじゃないか。

 しかし彼らがコスやキオスらをさらったという確証はない。彼らに好んで遭いたくはないのだが、それでも会って、問い質すべきだろうか──

 たった一つの太陽が完全に姿を現した。

 レイヴンは一旦地上に降り立った。周囲に、虎視眈々たる食肉目の存在は感知されない。

 ふう、と息をつき、改めて考えを巡らせる。オリュクスのいそうな場所──

 

「こっちよ」

 

 突然鋭く叫ぶ声が響き、大勢の走る足音が続いた。

 レイヴンが浮揚すると同時に、鋭い歯がかちっと噛み合わされる音がし、そしてその歯が砂の表面に現れた。

 危ない! 喰われるところだった!

 レイヴンはぞっとするやらほっするやらだったが、収容籠の無事を真っ先に確認することだけは反射的に済ませていた。

「いなくなったわ」

「何だったの」

「根っこ?」

「違う根っこじゃない」

「なに、豆みたいなやつ?」

「たぶんそうだと思ったんだけど」

「どこに行ったの」

「わかんない」

「じゃ行きましょ」

「なんだったの」

「わかんない」

 大勢の声が一斉に喋ったかと思うと、歯が見えた箇所から小さな砂煙が上がり、そしてまた突然静寂が訪れた。

「何だったんだ」レイヴンはやっと言葉を発した。「って、こっちが言いたいよ」

「ハダカデバネズミだね」収容籠の中からキオスが言う。

「うん。ハダカデバネネズミのワーカーたちだ」コスも続く。

「ハダカデバネズミ?」レイヴンは復唱した。「地下に棲んでいる?」訊き返しながら地上に戻る。

「うん」キオスが頷く。

「餌を探してるんじゃないかな」コスも続く。

「餌──まさかぼくたちを食べようと?」レイヴンは再びぞっとした。先日ライオンに喰われたばかりだが、今度はハダカデバネズミの餌食になるところだったのか!

「彼女たちは植物しか食べないよ」キオスが肩をすくめる。

「でもネズミは雑食だし、シロアリなんかも食べるから、もしかしたら」コスが首を振る。

「こっちよ」その時再び鋭い叫び声が聞こえた。

「ちょっ」レイヴンは慌てて再び浮揚し、同時に再び二本の歯が現れた。「す、すいません」レイヴンは再び彼女らが引っ込まない内に──というか再び彼女らの喧噪が始まらない内に、声をかけた。「ぼくたちは怪しい者ではありません」

「なに、芋茎?」

「豆みたいなの?」

「あら果物じゃなくて?」にも関わらず喧噪は始まった。

「あの、ぼくたちは仲間を探しているんです」レイヴンは声を限りに叫んだ。

 

 キオスは群れの仲間といっしょに水を飲んでいた。正確にいうと、水を飲む振りをしていた。具体的にいうと、水に鼻先をつけ、を吸い上げているように見せかけた。

 すべて芝居だ。実際のところキオスは、他のサバンナゾウのように鼻で水を吸い上げたりすることはできない。それどころか、水を液体の状態で体に取り込むことすら、できない──というか、したことがないのだ。

 元いた星では、水が液体として存在していなかった。場所によってガスとして漂うか、氷の粒や結晶となって漂うかのどちらかで、彼ら動物は水分を皮膚から常時吸収していたのだ。差し詰め地球の動物が大気を吸い込むのと同じように。

 草や木の葉を食べるといきおい液体の水をも取り込むことにはなるが、もうそれだけで『お腹いっぱい』だ。液体の水をこんなに大量に摂取するとは、すごいことだとキオスは目を見張るのだった。彼らの細胞は、そんなに水を蓄えておけるものなのか?

 実際キオスは地球に来てから、やたら頻尿になった。それもまた群れの仲間から『ちょっといびつな子』とみなされる要因になっている。仲間の振りをするため一生懸命草葉を食べた結果がこれだ。なかなか難しいものだ。

「また会ったね」話しかけられた。

 その方を見ると、さきほどリーダーがやって来る前に話していたサバンナゾウだった。

「こんにちは」キオスは挨拶をした。

「体が乾いてるんじゃないか」サバンナゾウはそう言うとキオスの背中に鼻で水をかけてくれた。

「あ、どうも、ありがとう」キオスはそれが親切心からの行動だと今ではわかっているので、お礼を言った。「あの、そういえばさっきのことだけど」

「ん?」すべての水を出し切ったサバンナゾウは、鼻をくるんと巻きながら訊いた。「さっきのことって?」

「あの……最近、牙のない子が増えているって話」

「ああ」サバンナゾウは鼻をしゅるん、と伸ばした。

「ひどい目に遭わされたからだって、言ってたけど……」キオスは遠慮がちに訊ねた。「いったい、何があったの?」

「うん」サバンナゾウは鼻を下に垂らしてゆらゆらと揺らした。少しの間彼はそうしていたが、やがて静かな声で「宗教というものを、知っているかい?」と質問してきた。

「宗教?」キオスには初めて聞くものだった。「ううん、知らない……それは何?」

「それはね」サバンナゾウは鼻を持ち上げ、キオスの頭に触れた。「正しいものをたくさん作っているところなんだ」

「正しいものを?」キオスは訊き返した。それはどこまでも彼にとって初めて聞く話だった。「正しいものって、何?」

「それはね」ソバンナゾウは大きな耳をばふんとはためかせた。「食べ物だったり、飲み物だったり、体を飾るものだったり、昔話だったり、歌だったり、いろんなものがある。たとえば我々が食べる草や葉っぱにも、形や色が少しずつ違うものがいくつかあるだろう? あと水にも、少し味の違う水だなと思うことがある」

──ああ」キオスは用心深く頷いた。正直なところ、まだ彼はそんなに多種類の葉や草を食べ分けてもいないし、味の違いがわかるほど大量の水を飲んだわけでもない。というか液体の水はほとんど飲んだことがない。

「それで、自分は一体何を食べればいいんだろう、何を飲めばいいんだろう、何を身につければ、何の話を聞けば、何の歌を聴いて歌えばいいんだろうと、自分ではわからなくなってしまう者たちがいるんだ」

「どこに?」

「どこにでもさ」サバンナゾウはキオスの頭から鼻先を離して空に向けた。「西にも東にも。北にも南にも。宗教は、そんな者たちに『ここに正しいものがあるよ』と呼びかけるんだ」

「へえ」宗教というのは、動物なのだろうか──キオスはそう思った。

「迷っていた者は皆、正しいものを手に入れることで安心する。ほっとして、穏やかで幸せな気持ちで生きていけるようになる」

「ふうん」キオスはがんばって鼻を少しだけ揺らした。「宗教って、ゾウなの?」

──」サバンナゾウはすぐに答えなかった。空に向けていた鼻をまた下に垂らしたが、それはゆらゆらとせず、静かに垂れ下がった。

 キオスは焦燥を覚えた。自分の不用意なひと言が、サバンナゾウを傷つけるか悲しませるかしたのではないか、そう思った。「あの、ごめ」

「宗教はゾウではないのだが」サバンナゾウは低く答えた。「何故か、ゾウの牙を正しいものだと決めつけているよ」

「あ」キオスは目をしばたたかせた。「そうなんだ。それって、すごいことなんじゃないの?」

「すごいこと、そうだな」サバンナゾウはもう一度鼻でキオスの頭に触れた。「そのため、牙を持つゾウたちが一斉に殺されたよ」

「えっ」キオスは今こそ頭の上から信じがたいほどの衝撃を受け、地に足がめり込むような感覚に襲われた。「そん、な」

「そう、ひどい目に遭った。そういうことさ」サバンゾウは遠くを見ながら静かに言った。「だから牙の生えない子どもが今、多くなっているんだ──そういう遺伝形質を持つ子たちが、生き延びているのさ」

 

 夜になっても、キオスはどこか心が剥がれてしまったかのようにぼんやりしていた。

 頭の中に、今まで知らなかったこと、今日初めて知ったこと──そしてそれらのことから受けた、とてつもなく大きな衝撃が、そうと気づかぬまま彼をすっぽり覆っていた。

 宗教は、サバンナゾウの牙を正しいものとみなして──それでその牙を手に入れるためにたくさんのサバンナゾウを殺して──それはサバンナゾウを正しいものとみなしていることなのか? でもどうして?

 ぼくたちのいた星には、ぼくたちをそっと守ってくれたり世話を焼いたりしてくれる、小さな存在がいる。もし彼らがぼくらを、何か手に入れるためと言って殺したりしたら、どうする──? まさか! そんなこと、考えたこともない! だって彼らは、彼らはぼくたちを、ぼくたちを──

 

「キオス!」

 

 叫び声を聞いたのはそのときだった。キオスは大きく息を吸い込み声のした方を見た。

「ああ、無事でよかった!」声の主は続けて叫ぶ。「よく耐えたね、君、よく頑張ったな!」

──レイヴン」キオスは茫然とその名を呼んだかと思うと、突然悲しみを励起する分子を大量に放出しはじめた。つまり彼は、泣き出したのだ。

「えっ」レイヴンは驚愕した。「キ、キオス? どうした? 一体どうしたっていうんだ」

「レイヴン、レイヴン」キオスはしゃくり上げた。「ぼく、うう、レイヴン」

──キオス」レイヴンはまず自分を落ち着かせ、それから保護対象の体にそっと触手をつけた。何があったのか──いやもちろん何かがあったのだろうけれど、今すぐあれこれ聞き出そうとなんてしてはいけない。ともかくもキオスと出会うことができた事を喜び、そっと見守っていてやろう。そうするだけだ。ぼくにできるのは──

 しばらくキオスは泣き続けていたが、やがて気持ちは静まった様子で、震えることもなくなった。

「レイヴン」改めて彼は呼んだ。「来てくれて、ありがとう」

「なんの、これしき」レイヴンは微笑んだ。「むしろ遅くなってしまって、申し訳ない」

「でもぼくがここにいるって事、どうやって知ったの?」

「それは」レイヴンは少しだけ言い淀んだが「シロアリに教えてもらった」と事実を述べた。

「シロアリに? すごいな」キオスは驚いた。

「ああ。彼は最初、ぼくが自分を食いに来たと思ったらしい」

「ええっ」キオスは再び驚いた後「あはははは」と笑い出した。

 レイヴンはほっとした。「『君はネズミか?』って訊かれたよ」

「あはははは、レイヴンがネズミ? シロアリを食う? 想像できないよ」

「まあ彼もすぐに、そんな馬鹿な、と気づいてくれたようだったけれどね」

「うふふふ」キオスはもう少し笑った後「じゃあぼくは、ここから去ることになるんだね」と確認した。

「ああ、そうだね」レイヴンは大きく頷いた。

「リーダーに、挨拶してきてもいい?」

「リーダー? この群れの?」レイヴンは再びいささか驚いた。「親交があるのかい?」

「うん。リーダーのおかげでぼくはここにかくまってもらえた」キオスも大きく頷く。

「そうか。わかったよ、行っておいで」見送る素振り見せながら、レイヴンはそっと、キオスの背中に触手を貼り付けついて行くことにした。

 キオスによくしてくれた相手だからそんなことはないと思うが、万が一にもキオスに何らかの危害が加えられそうになったら、直ちにキオスを遺伝子分解して収容籠に入れ、後ろも見ずに飛び立つつもりだ。まあそんなことにはならないと信じているが──

 

「よく食べるわね」不意にキオスは背後から声をかけられた。

 振り向くと、立派な牙を持ったひときわ大柄なサバンナゾウがそこにいた。

「リーダー」今まで話していたバンナゾウがキオスの代わりに呼び返し、気を遣ってかもぐもぐと口を動かしつつその場から立ち去った。

「こんにちは」キオスはぺこりと頭を下げた。

「乳は飲まないの?」リーダーはそう質問した。

──」キオスは一瞬きょとんとしてしまったが、自分がこの群れの中においては『子ども』なのだということをすぐに思い出し「あ、いえ、飲みません。ぼくは草や葉っぱを食べます」と答えた。

「そう」リーダーの鼻もまたよく動く鼻だ。それは今、まるで独自に何かを考えてでもいるかのように、くるん、くるんと回転していた。

 キオスは次第に緊張が高まるのを感じた。何を思っているのだろう──この鼻は──じゃなくて、このサバンナゾウの群れのリーダーは。

「あなたは、どこから来たの?」ついにその問いが出た。

──え」キオスは一瞬、なにを言われているのかわからない振りをしようかと思った、だがそれはできないとすぐに悟った。

 あなたはどこから来たのか──それは鋭い問いかけだが、同時にこの群れのリーダーから向けられる、最大級の誠実さの表れだ。

──ぼくは、他の星から来ました」キオスはおずおずと答えた。

「星? 星って」リーダーはぶんと鼻を振り上げながら空を仰いだ。「あの、夜に見える星?」

「はい、そうです」キオスも頷き、一緒に空を見上げた。ちょうど太陽が地平に向かって下降し始めたところだ

「へえ」リーダーはまたキオスに視線を戻した。鼻がゆらゆらと揺れる──かと思うと不意にそれはキオスの方へ伸びて来て、キオスの頭にちょんちょんと触れた。「じゃあ、私たちとは違う種族なのね?」

──」降参だ。「はい」頷いたまま顔も上げられず、キオスはうつむいたままリーダーの鼻に頭を撫でられつづけた。

「まあ、どうりで」リーダーは溜息交じりに言った。「誰に聞いても、あたを産んだ憶えはないって答えるわけだわ」

──」

「乳も飲まないし」

──」

 どうなるのだろう。キオスの拍動は最高潮に高まった。どう、されるのだろう。サバンナゾウは草食のはずだから、まさかぼくを叩きのめして食らいつくなんてことはないのだろうけど──少なくとも、もう群れにはいさせてもらえないんだろうな。追放だ。ぼくは一人ぼっちで、また必死に捕食者の目につかないよう逃げ惑い息を潜める生活に戻らなくちゃならないんだ──

「まあ、大きくなるまではここにいたらいいわ」リーダーの言葉はそんなキオスに生きる道を示してくれた。黄金に輝く道を。

「えっ、いいんですか? ゾウでもないのに?」キオスは思わず叫んだ。

「大きくなるまではね」リーダーはキオスから鼻を離してウインクした。「私たちは基本的には雌と子どもの群れだから」

「はい」キオスは大きく頷いた。自分は恐らく、このリーダーが考えているほど『大きく』はならない。だが今しばらくは、ここにかくまってもらおう。お言葉に甘えて。

 そして次にリーダーが怪しく思うようになるまでには、なんとか元いた星につれて帰ってもえらえることを、信じて祈ろう。

 きっと、来てくれるはずだ。あの小さい存在の誰かが。

 

          ◇◆◇

 

 コスの無事を確かめることができた後、レイヴンは再び地上を目指して下降した。

 上空から見下ろした時に見つけた、フェアリーサークルがヒントになったの。はるか遠くにまで広がる草の上、見事なほどに一定の間隔で開けられた、穴たち。

 空からではなく、地下から当たりをつけよう。

 何故ならキオスは恐らくゾウの群れと共にいると思われ、そのゾウの足の下には彼らの食生活を支える存在がいるからだ。

 サバンナの植生を潤す存在。それはシロアリだ。

 レイヴンはシロアリと交渉したことがなかった。彼らがどういうスタンスで組織を運営し、活動し、何を目指し何を是とするものなのか、有力な情報は持ち合わせていなかった。

 なのでこれはある意味『賭け』だった。

 草の生えているところ、その下に彼の巣がある。レイヴンは砂──彼にとってはまさに岩石群──をかいくぐり、迷宮を目指した。

「侵入者発見!」

 たちまちアラートが鳴り響く。

BZQ六三〇八五一、未確認生物の侵入あり!」

「近傍区域担当者はただちにスクランブル体制始動!」

「囮、現地へ!」

 ほんの数回瞬きする間に、何か見えない動きがそこかしこで走り始めた。

 一体何の騒ぎだ──侵入者? 未確認生物? って──ぼくのことか?

 レイヴンが困惑と混迷の中視点を定められもせず狼狽えていると、突然一匹のシロアリが目の前に飛び出して来た。

 それはまさに、地下迷宮の闇の中から突如として姿を現したのだった。まるで廃墟にて出くわす亡霊のように。

「うぎゃあああッ!」レイヴンの恐怖の叫びはカンジダに出くわした時の比ではなく、それはもしかすると彼の寿命を何パーセントか削り取ったかも知れない。「わあああッひいい──ッ!」

──」シロアリは無言でレイヴンを見下ろし、無表情にその悲鳴を聞いた。

「あう、えう、おう、あひひひ」だがそのおかげでレイヴンのパニックも急速に沈静化することができたのだ。「あの、えと」

「君は」シロアリは呼びかけた。「ネズミの仲間か」

「えっ」レイヴンは吃驚して我が身を顧みた。「ネ、ネズミでは、ないよ」

「ならば、我々を捕食する目的でここに来たのではないということか」

「捕食? 食べるってこと? 君たちを? まさか! とんでもない」

「承知した」シロアリはレイヴンの答えを聞くとただちに回答を寄越した。「改めて問う。君は何者か」

──レイヴン」

「レイヴン」シロアリは復唱した。「ここへ何をしに来たのか」

「あのですね」レイヴンは今こそ目的を果たすべき時が来たとばかりに身を乗り出した。「あなた方が作っているフェアリーサークルのどこかに、ゾウの群れがいると思うんですが。ぼくはゾウ──仲間を探しているんです。あなた方ならゾウの居場所がわかるんじゃないかと思って」

「ゾウ」シロアリは復唱した。そしてレイヴンをじっと見る。

「きょ」レイヴンはひるまぬよう、だが喧嘩腰にならぬよう、コミュニケーションバランスに細心の注意をはらいながら依頼した。「協力、願えませんか」

 シロアリはさらにレイヴンをじっと見た。

 何か対価を支払えと言ってくるだろうか──レイヴンは今さらながら、自分の準備不足と、それにも関わらずこんな所へ潜り込んだ自分自身の無鉄砲さにげんなりした。

「いた」シロアリは突如回答した。「ARM一九〇三八二に、サバンナゾウの群れがいる。それがここから一番近い」シロアリはすらすらと位置情報を開示してきた。

「えっほんと?」レイヴンは信じられない気持ちに包まれた。「あ、ありがとう──でもあの、それはここから、どっち方面に行けばいいのかな。もしよければ、案内をお願いすることは可能──」

「こっちだ」シロアリは突如くるりと向きを変え、すたすたと歩き出した。

「あっ」レイヴンは慌てて浮揚推進し追った。「ありがとう、重ね重ね申し訳ない」

 シロアリからの回答はなかった。

 しばらくの間、右に左にてきぱきと曲がりつつ先へ進むシロアリの後ろを黙ってついて行ったが、ふと思うことがありレイヴンは声をかけてみた。「あの、君はぼくのことをネズミだと思っていたの?」

「思っていた」シロアリは歩をゆるめることもなく即座に回答した。

「それで、ぼくを、その──排除しようとしてやって来たの?」シロアリは一体、捕食者であるネズミに対してどんな撃退法を持っているのか? レイヴンはふと、そんなことに興味を覚えたのだった。

「排除しようとしたのではない」シロアリは否定した。「囮になるためにやって来た」

「囮?」レイヴンは浮揚推進しながら素っ頓狂な声を挙げた。「囮って、まさか」

「一人がネズミに捕食される間、他の者は退避する」

「そんな、じゃあ君は自ら喰われる覚悟で、ぼくの前に来たの?」

「我々の法則だ」シロアリは答えると同時に突如止まった。「着いた」

──え」レイヴンも慌てて推進を停止した。「ここ……この、上?」見上げる。薄暗いが、遥か上よりほんのり光が差し込んでくるのがわかる。

 再び視線を下ろした時、もうそこにシロアリはいなかった。

「あれっ」レイヴンは最後まで困惑し通しだったが「あの、ありがとうね。また、いつかよければ会いましょう」と叫んだ。

 回答は聞こえて来なかった。

 ──法則か。

 レイヴンは首を振り、ともかくも地上に向けて飛び上がった。