瑞鹿山円覚寺23 (そういうもんだ) | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

ほー、三月から抽選ではなくなったようだ、少しづつだがかつての日常にもどりつつあるなぁ... さては白山でもそろそろ再開か? とはいえまだ読経の時間はないようだけど、、

 

 

で、いつもの場所に、懐かしい一角に

 

いつも決まった場所に座って拝聴していたよ

 

 

「そういうもんだ」

 

管長さんの先日のブログの題「そういうもんだ」をみて思い出していた

かつて関東にいたころは、月に三、四五度とお参りをしていた (何せ毎週のように坐禅会はあるし、最初のころは法話に、途中からは坐禅会がそれに加わり、、

 

鎌倉にお参りをするようになる以前にも好きな作家さんの講演があれば出かけてもいた、いやー さすがは東京、名古屋とは違いその機会は格段に多い

 

なかでも京極夏彦さんの講演には幾度となく足を運び、あるときなどは開演前にエレベータ前でドアが開くのを待っていたら開いた先に京極さんが ((((д ;)))) てなこともあった、あった、

 

にしても

 

いやー実に実に京極さんは話がうまい、おもしろい、色々な方の話を聞いたけれど、一味違っていた、こんなにも構成よく、よどみなく、かつ 言葉 巧みにまとめられた話は滅多に聴けるものではない

 

あるときなどは、、

 

お陰様で本を読む楽しさ、面白さの奥深さをあらためて 多面的に 教えていただいたよ

 

だから、

 

何とかオフとかに足が向かなくなったのは、あるいはまた、古書に興味をもったのは、京極さんのその日の講演「世界の半分は書物の中にある」 (2012/7/7) を拝聴したからに他ならない

 

ちなみに何故 世界の半分 なのか? 

 

それはそれ、不立文字 の世界があるから とは講演のなかで、ここら辺は 「鉄鼠」だねぇ

 

 

「大本山円覚寺百観音霊場」

 

関東にいたころ巡っていた霊場に 大本山円覚寺百観音 がある (*1) 、で、十番札所泥牛庵さんにお参りしたときのことだ

 

まず、石標にある「泥牛庵」の揮毫は一見して朝比奈宗源老師によるもので、あるいはまた、本堂に掲げられた扁額のそれは釈宗演とあり 

 

((((;゚Д゚)))))) 

 

お二方がそろうお寺はそうはないね と、そのことについて御朱印を書いていただいた御住職にたずねたところ話がはずみ、そのときに、今の管長さんの法話もいいよ と勧められもして、、

 

今振り返り考えると

 

御縁 というのは不思議だなぁ、、、

 

いついかなるときにどうつながるかはまったくもってわからない

 

その言葉のままに早々に法話に参加し、そのときの法話なかで管長さんが紹介してくださった詩がまた良かったんだなぁ 、そのときはじめて坂村真民さんを知ったんだな (*2) 

それまでは書的な和のアートに魅せられて巡っていた御朱印も、より仏教的、禅的に、そしてその歴史的興味に移ってゆき、、

 

知識が増えると今まで見えていなかったつながりがわかるようになる、そこからあらたな不思議がみえてくる

 

管長さんの法話も実に魅力的で、いつだったか、落語に例えられてこう話されたことがある、「法話は新作落語、提唱は古典落語」、なるほどな 

 

そもそも何故に落語に例えられたのか? その理由もその後の法話のなかでそれと知れた、管長さんの話される法話はマクロ的にみれば小説にみる連作の形式に似ている

一方でミクロ的にみればその構成は禅の語録の各則の形式に沿ったものだ ということも分かってきた

 

法話、あるいは提唱の折りの冒頭に話される何気ない最近の世の中の話題は、その終わりには、そのときの内容に沿ったものだった とよく気付かされもして、実にそこらあたりの構成が上手いんだなぁ、、いやー 京極さんの講演も上手いと思ったが、なかなかどうして管長さんも実に実に巧みである、それはそれ、大拙博士が書かれているところの「古禅師の心理を、参学の僧達の心中に再現せしめんとするにある。」にある "参学の僧達が法話を聴いている "参拝者に変わっただけなのだ と気付かされる (*3) 

 

そんな巧みな管長さんの法話のなかでも特に今も印象に深く記憶に残っている言葉がある、それが「そういうもんだ」だった

 

その時の法話もその前の法話からつながっている部分があって、その背景を察することでより深い話となっていた

 

法話が終わったあとにいつも唱えるお経は、そのときばかりはあまりにボロ泣きしすぎて声にもならなかった、声を出そうにも出せない、 こころ が震えすぎていたんだろう、、

 

 

瑞鹿山円覚寺

 


山門 (三門)

その楼閣の名を「法 (雲閣」という


佛殿 (大光明宝殿


金澤翔子さんのお父さんのお墓は、山内塔頭の墓所にある


image


方丈内


黄梅院

 

 

 

東日本大震災から十二年

 

ちょうど週末、いつか参列しようと思っていた、日本ならでは というか、鎌倉ならでは というか、祈りのかたちは様々なれどその源は同じというか

 


円覚寺さんでの開催は二度目かな、最初のときは平日だったね




御朱印

この週末も御本尊を (ー人ー

 

 


瑞鹿山円覚寺

臨済宗円覚寺派大本山

神奈川県鎌倉市

 

 

 

 

*1

大本山円覚寺百観音霊場の御朱印は、円覚寺さん総門入ってすぐの御朱印所で第一番と第百番、山内の塔頭で、第二番札所から第六番札所まで、また、鎌倉の円覚寺派のお寺さんで第七番札所から第九番札所までがいただける


 

*2

鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ

怒涛の海を
飛びゆく鳥のように
混沌の世を
生きねばならぬ

鳥は本能的に
暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを
知っている

そのように人も
一寸先は
闇ではなく
光であることを
知らねばならぬ

新しい年を迎えた日の朝
わたしに与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ

鳥は飛ばねばならぬ / 坂村真民 


坂村真民さんは酉年生まれだそうだ、だから鳥に材を取った詩が多いのだとか

そのことも後に法話のなかで知れた


 

*3

老師は何物をも説明しはしない、彼はその講義に於て聴衆の知性に訴える事を拒む、彼の為さんとする所は、寧ろ問題の禅的相見の移り行きを導いた古禅師の心理を、参学の僧達の心中に再現せしめんとするにある。

禅堂生活 / 鈴木大拙

 


佛殿 (大光明宝殿前の水盤

裏の文字を読むと、、どうやら三回忌の折りに奉納されたもののよう



普通は「洗心」とか書かれているけれど、そこは所縁の地、「漱石」とある


もう一対は、夏目漱石の葬儀の導師をされた釈宗演老師が兼務住職をされていた山内の塔頭佛日庵さんの境内に