井伊直弼公の茶号を宗観という
・・・・・・ (>_<)
一期は人間の一生、一会はただの一度の出会いです。
これほど「一」の粛然としたたたずまいを感じる語は、
他に類例を見ません。
大河ドラマ「八重の桜」でも井伊直弼公が茶を煎じるシーンがあったけど、実際にも石州不昧流を嗜む優れた茶人という側面もお持ちだったようだ
日本史の教科としての弊害で、井伊直弼といえば安政の大獄のイメージばかりが先行しているのかもしれないけれど、歴史は本来、多面的に語られるべきもの
そもそも
今に伝わる「一期一会」の言葉が世に広まったのは、「茶湯一会集」という書物によるものらしい
またこの 言葉 自体は、利休の門人による書物が初出になるようだ (利休の言葉を弟子が伝えたもの) 、利休自身は書物には残さなかったようだから
そして、
抑 (そもそも) 茶湯の交會は一期一會といひて、
たとへば、幾度おなじ主客交會するとも、
今日の會 (え) にふたゝびかへらざる事を思へば、
実に我一世一度の會 (え) なり。
と、
ここまでは予備知識 (?) として、以前より知っていた
さて、
一期一会
である
禅者としては、他者との出会いだけでなく、
自分が真実の自己に邂逅することの困難さとうけとめます。
「一期一会」禅語百選 / 松原泰道
あぁ そうか...
自分自身のこころの奥底深くにある本来の自分を普段は意識することは滅多にない、ないのだけれど、、
それでもそんな瞬間は 確かに ある、ふと何故だかわからないけれど涙がこぼれ落ちる瞬間はあるのだ、目に見える形であれ、あるいはまた、目には見えない こころの中 にだけ流れる形であれ、、確かに、、
それは他者との出会いと別箇のものではないから「一」です。
と、禅者は続ける
拝読していて、世の中がまた違って見えたよ...
これまで見聞きし、思考し、経験もしてきたことの全てが、この一冊を読み、その一語一語を咀嚼するためにあったのかもしれない、、と 思わずにはいられないほどに、、
さるにより、主人は萬事に心を配り、
聊 (いささか) も麁末 (そまつ) なきやう、
深切實意を盡し、客にも此會に又
逢ひがたき事を辨 (わきま) へ、
亭主の趣向何一つもおろかならぬを感心し、
實意を以て交るべきなり。
是を一期一會といふ。
茶湯一会集 / 井伊宗観
ふ〜...
_φ(..) と、
不定期に
つづく...