虚無僧系図 / 吉川英治 | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

  すべての書物が失われても、「臨済録」と「歎異抄」が残れば我慢できる。

 西田幾多郎


お慕い申しあげる


この「慕う」という想いを今いったいどれくらいの人が実感しているのだろうか、

皆無なんじゃないだろうか、、いつ失くしてしまったんだろう、とふと

人と人との距離、男女の心の距離感、好きだとか愛しているだとかではなく、

 

慕う、

 

というこの距離感をこの物語を通じて感じていた、、ラストシーンの情感もいい


「慕う」にはどこか哀しさが似合う...


 「人間は誰でも、自分がいちばん不運だと思っているものです。世の中は、そんな浅いものではない。どんな幸福そうな人間を見ても、ふかく、その人の境遇に入ってみると、誰だって、苦労のないものはありませぬ」



 駆け込み寺の松ヶ岡と、虚無僧寺とは、女と男の、江戸時代に於ける、二つの秘密国だった。

 吉川英治


「鳴門秘帖」と「宮本武蔵」の間に位置する作品かな?

 

時代物はどうしても定期的に読みたくなって、ちょうど実家の本棚にちょこんとあったので手に取ってみた





松ヶ岡とは北鎌倉の東慶寺さんのことで(臨済宗円覚寺派)、中興された釈宗演老師や釈宗演老師に参禅されていた鈴木大拙博士のお墓もあるお寺

 

今でも東慶寺さんの名前はよく見聞きするけれど、、片や虚無僧寺の方はそれほどでもないか、、いやしかし、、、



虚無僧寺

今からさかのぼること1200年ほど、普化宗開祖普化禅師は馬祖道一禅師の孫弟子筋にあたる方のようで、臨済禅師と同世代、「臨済録」にも登場するのだとか


その普化宗が宋より日本に伝えたのは臨済僧心地覚心(法燈円明国師)で、鎌倉は建長寺創建の翌年にあたる建長六年(1254年)のことのよう

心地覚心(無本覚心とも)は紀伊由良は興国寺山内に普化庵を建て居所としたとある


心地覚心は尺八を坐禅の呼吸法として学ばれたようで(なるほど~)、今でも興国寺さんでは行事の際には必ず虚無僧が尺八を奏しているという、、

 

いつか参列してみたいなぁ、、、


 馬祖道一(709年-788年)
 臨済義玄(?-867年)、臨済宗開祖
 普化禅師(生没年不詳)、普化宗開祖


にしても、、興国寺なんだねぇ、、、そんな云われのあるお寺だったとは、


同じく北鎌倉は円覚寺さん(臨済宗円覚寺派大本山)の管長さんが

中学生の時初めて独参された師が目黒絶海老師で、紀伊由良は興国寺の当時のご住職だったそうだ

 

興国寺は他にも、醤油や径山時味噌(金山寺味噌)の日本発祥の地でもあるらしい


東慶寺さんの御朱印(御本尊)





円覚寺境内塔頭如意庵さん





 「──ウウム、これか、永うは眼を当ててもおれぬ。空──一切を空に」





空 (°_°)?最近どこかの省を引責辞任した某大臣が意味不な使い方してたけど??


 ・・・・・・ああ、あれも幸福だ。あれも幸福だ」

 虚無僧系図 / 吉川英治


「哲学の道」もいつか歩いてみたい◎

 

 

松岡山東慶寺

臨済宗円覚寺派

神奈川県鎌倉市 (北鎌倉)