あの日のこと Pt2 | 平準司@神戸メンタルサービス カウンセラー養成・個人カウンセリング・心理学の講演、執筆を行っています!

神戸メンタルサービスの平です。

 

この度の熊本大分地方で発生しました地震により被災された皆様に、心よりのお見舞いを申し上げますとともに、できるだけ早くの復興を心よりお祈り致します。

 

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震災3日目以降、日本全国からの救援や支援物資が見たことのない量、トラックに積み込まれ、神戸に向かって運ばれ始めたようなのである。


しかしながら、日本において大都市での本格的な地震災害は、戦後初めてであったので、地方自治体・政府にとっても、戸惑うことばかりであったようである。


とにかく、食料を始め、支援物資をと、送ったところで、どこに集積すればよいのか。どのように配ればよいのか、全くノウハウがない状態なので、交通大渋滞をおこすばかりなのである。


さすがに、神戸市の北の端っこにある私どものエリアには、コンビニの駐車場に、山のようにこれまで見たことがなかったような量のお弁当やおにぎりが積み上げられたり、物資が集まり始めたのである。

しかしながら、神戸市内は政令指定都市の100万人の人口をほこる大都市なので、絶対量が足らないのである。

私から見たら、ものすごい量のトラックが神戸市内に向かって進んでいるように見えても、確かに神戸市内まで30キロ近くある、うちの家の前から、もう大渋滞をおこしているので、いつになれば市内に着くのかもわかったものではない。


また、のちのち神戸市の役所の人から聞いた話なのだが、神戸は世界にほこる港町なので、船での輸送を考えたらしいのだが、港湾設備がほぼ壊滅し、船をつける場所も全くなかったそうである。


それでも、沖から小舟を使ったりいろんなことを考え、できるだけ手を打ったらしいのだが、どうしても絶対量を確保することが、ままならなかったそうである。


担当者は頭をかかえ、どうしたらいいのか、いろんなところに問合せても、返事も来ず、指揮系統もバラバラで八方塞がりの状態であったそうである。


しかしながら、時間は経てば、腹は減る。水も食料も生活物資も薬も全く足らず、どんどん状況はおいつめられてゆくばかりなのである。


担当者は、胃が締め付けられるような毎日を送っていたとき、ちょっとずつ変なことがおこりはじめたのである。

 

ちょっとずつ変なこと?

 

そう、あれほど猛烈に要求されていた物資の要求が弱まってきたらしいのである。

何が起こったか調査してみたところ。

なんと!大阪方面から電車に乗れるところまで乗り、そこから人が歩いて物資を運び始めたのである。また、車では大渋滞に巻き込まれ、全く神戸まで辿りつけないので、バイクに詰めるだけ荷物を積んで、ピストン運行をする人も現れたのである。そして、そのバイクで物資を輸送し始めた人の中に、今まで暴走族と呼ばれ、みんなから疎まれることしかされなかった人たちも混じっていた。


人生で初めて人に感謝されたのである。


人生で初めて人の役に立てたのである。


人生で初めて自分のことをほこれたのである。


その後、その一部の人たちは、今みなさんがご存知のバイク便のシステムを作り上げたのである。


そして、なんとか人が人を助けたいと思い考えた方法は、ただ、アリのように重い荷物を担ぎ、人力で運ぶことであったのである。そして、神戸から受け取りに来る人、神戸に送ろうとする人が出会い、神戸市の市政担当者が、考えもつかなかった方法で、食料が届き始めたのである。

今でもそうなのだが、ある一時期をなんとか凌げれば、日本全国を始め、世界の人たちがなんとかしてあげたいと思っているので、なんとかなりはじめるのである。

 

震災から、2週間も経つと、なんとか峠を超えたようで、なんとか凌げるようにどんどんなってきた。そしてその頃、今までほぼ絶縁だった息子がリュックサックに山のように物資を詰めて実家に帰ってきたり、ものすごく疎遠にしていた、とても冷たい親戚だと思っていた人たちが援助に駆けつけてくれたり、人と人との絆が深まっていくということが起き始めたのである。

私の目から見ると、全てがそうであった訳ではないが、人がとても人に対して、優しくなり始めたり、被災地の人もそうでない人も、人を愛そうという意欲がものすごく高まったように見えたのである。


それは、とても美しい光景であった。


うちは農家で、大量の米があったので、何十個のおにぎりを作り、六甲トンネルを超えて、行ける場所まで車を走らせ、市内の友人にそこまで取りに来てもらい、手渡すと、一個のおにぎりを頬張りながら、彼は残りは全部、誰かにあげるのだと言った。多分、この友人からおにぎりをもらった人は、彼が一個しかおにぎりを食べてないことを誰も知らないであろう。そんな光景が、いっぱいあったのである。


大地震という未曾有の災害に、人は傷つき、心を引き裂かれた。しかし、それと同等、またそれ以上の大きな愛情が、神戸に世界中から降り注ぎ、そして、あの地震から20年、今は、震災記念公園に行かないかぎり、地震の跡形を探すのは難しい。


すべてがすべて素晴らしかったというつもりはないのだが、人と人がつながり愛しあい、人間というものが決して悪いものばかりではないというものを見せてくれた。

 

そして、この地震が私が、今の当社のような会社をつくろうという、大きなきっかけになったことは確かである。


あなたが今、どのような状況であるかは分かりませんが、そんなあなたを多くの存在が、なんとか愛し助けたいと思っているということを、私は地震のあの経験から、信頼できるようになったのです。