深緑の森-小さな箱庭- -2ページ目

深緑の森-小さな箱庭-

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辺境の地。広く深い森の傍で、百を優に超える屈強な獣達が地を鳴らしていた。聞き手に対して有りの儘を伝えているが、法螺を吹いているかのような気分だ。近くに敵影一つ見当たらない場所で、臨戦態勢を整えた戦士が跋扈している。これから城に攻め入るとでもいうのか。静まり返ったこの地で、どこへ向かって進軍するというのだ。周辺を見回す。そして、獣の群れが対象として定めているものを見付けた。

扉だ。巨大な扉があった。あの扉の向こうから何かが来る。それと戦うために彼らはここに居る。男は長らく敵地に潜伏してきたが、これほどの数のワイスが集まるのを見たことがなかった。対抗手段が乏しければ、一体、一人でもいれば充分に脅威となる。この獣達を相手取ることがどれほど恐ろしいことか、身をもって痛感していた。それ以上は近付くなと警告されたが、言われなくとも身体が動かなかった。自分では数秒と待たず、砂塵の一部になるに違いない。

固唾を呑んで戦況の変化を見守る。それから起きたことを、男は間違いなく伝えた。敵は三人。刀身の青い両刃と片刃の剣を使い、その場に居たワイスを実質、二人で斬り伏せた。不可視の檻で見せた風の渦。難局を打開した後、突如として出現した雷の竜。報告を続ける使者の声を途切れさせたそれらを用いることなく、ただただ舞い狂い、敵の数を減らし続けた。一条の光が獣の角を砕く。気付けば彼らは姿を消していた。獣達が撤退した後、男はすべてが真実であると改めて念を押し、報告を終える。この戦いの記録は二つの国に大きな衝撃を与えた。 「生きていたか、空拳」


黎明の都。


街路灯に照らされた裏路地に、四つの影があった。「エーテルって買えるんだな」 足元に敷き詰められたレンガを眺めながら、フクロウは士騎の言葉に耳を傾ける。「知ってたけどな」 アルジは魔法店の説明をしようと情報を纏めたが、無駄に終わった。「そろそろ行きますよ」 アルジの協力者、ターバン。彼の家は辺鄙なところにあった。黎明の都は傾斜状になっていて、階段の段ごとに建物があるという感じだ。最も高い場所は地面が水平に見える位置にあり、これは要するに 『地下に向かう階段状の街』 士騎達の居た場所は街の中層部分。そこから更に下に降りると、上層部にあるものとは雰囲気の違った建物が並んでいる。なだらかな道を歩き、宿泊施設の前で立ち止まった。アルジは下方を指差す。頑丈そうな橋が架かり、その下を小さな川が流れている。

最下層と思われる場所で、都の全景を目にする。眩しく光彩を放ち、文明都市の趣を披露していた。士騎はその風景に心なしか懐かしさを覚える。異世界で敵と刃を交わす前、庭園であの歪みと向き合った時、彼はほんの一瞬、自分が何者であるか分からなくなった。こちら側に居ることの違和感。戦いにより振り切ったはずのあの感覚は、自分が向こう側と呼んでいたこの地に来たことで、確かなものに変わっていた。故郷に帰ってきた。そう表現する以外にない感情を、この時の士騎は誰にも言えずにいた。

大きな石材が積み重なり、都市の土台となっている。「一応、許可は頂いているみたいですが」 石材の一部に扉がある。これは最下層まで降りなければ見付からないに違いない。「人目に付かない方が色々と都合が良いそうです」 偏屈だが腕は確か。ターバンの人物像がアルジを除く二人の内で少しずつ固まってきた。「さて、ドリトはここで待ってろ。怪しい奴を見付けたらすぐに教えること」 ウィンドリットは承諾した。

最下層に住まう探究者は、彼らを快く迎え入れてくれた。シュノーケルとターバンが合わさったかの様な、変わったマスクを身に付けている。三人が家に入ると、彼はその面妖な仮面を取り外した。「はじめまして」 丁寧な挨拶に畏縮を感じ取れる。「ありがとな」 会話が噛み合っていないとアルジは思ったが、士騎のことだ。特に意味はないだろう。家の内部は横広で、高さも充分にある。見覚えのある物、ない物が、其処等じゅうに散らばっている。彼らはターバンの家で暫しの間、談合した。

「さっそくだが本題に入る。俺は黎明の王様と話し合い、遺跡の通行許可を貰いたい」 目的は当初から分かっていたつもりだが、どう考えても無理難題だと探究者二人は頭を悩ませた。「そもそもですね、王様と謁見するなんて無理なんですよ」 黎明の王、バルバロッサ。歴代の王達は代々この名前を受け継いでいる。現在の王は慎重で聡明な人物として知られ、国民からの信頼も厚い。話し合いの場を設けることさえできればと考えていたが、仮に話し合えたとして、どこの馬の骨とも分からない者の頼みを聞いてくれるだろうか。謁見の方法。幾らこの隊長でも、一国の主が住む城に強行突破はしないだろう。

「で、それも大事なんだが、他にも大切な話があるんだ」 「と、言いますと?」 王に対しての提案、その内容を知る者はいない。アルジは恐る恐る訊いてみたが、答えは予想通り。「教えません」 こういう人なんです、という素振りでターバンに視線を移す。「ターバンは確か以前、宮殿に勤めていたんだよな」 素性は随分と前に話してある。「何か出来ることはありますか」 士騎は腕を組み、暫し無言になった。 「これを貸してくれ」


朧の北西部、竜蹄の闘技場。


空拳が朧を訪れたのは他流試合のため。貿易を潤滑に行う上で、朧が求めてきたのはやはり戦いだった。観客はその剣技を称賛し、白雲の騎士の強さを認めた。そしてその後すぐに、国同士の交流が絶たれてしまう。戦火が広まった結果、他国を排斥したのだ。朧に取り残された白雲の騎士達は各地に散る。身を隠すには人数が多過ぎる。少しでも生き残る可能性を上げるため、騎士達は背水の陣を敷くのに最低限必要な人員で部隊を編成した。三人から四人。戦力のバランスを考慮した結果、空拳のみが一人で行動することとなった。反逆勢力を押さえ込むという理由を盾に、朧の王は貪欲に力を欲する。武人達は騎士達を傘下に置こうと追い回した。身を翻す者が居てもおかしくない逼迫した状況。しかし誰一人、要求を受け入れることはなかった。その結果、一人、また一人と騎士達は倒れていった。戦いの激しさに呼応するように、追っ手の質も上がる。朧とは何と恐ろしい地か。故郷へ戻る手段が見付からない。海沿いの厳戒な警備を掻い潜ったとしても、肝心の船が無い。疲弊と焦りが空拳の枷を外す。激戦の最中、遂に雷の力を使ってしまう。追っ手は騎士ではなく、空拳を捕らえることを目的として歩を進め始めた。最初からこうすればよかった。空の拳を握り締める。盤上の戦いは味方にナイトのみを残し、熾烈を極めてゆく。

雷は武人達だけではなく、反逆勢力をも呼び寄せた。浮動する強い力を引き入れるため、騙し討ちも茶飯事となっていた。派手に振る舞えばそれだけ不利になる。空拳は街を離れ、山間を転々とした。そして漸く戦いに終わりが訪れる。この時、空拳の傍には風を纏う者が居た。他の騎士がどうなったか、白雲の国に影響はなかったのか、憂慮は尽きない。戦火は消えたというのに、朧の王は依然として戦力を集め続けていた。そして漂泊の最中、もう一つの世界の存在を知る。奴らが何をしようとするかを予見した末に、ある結論に辿り着く。

気に入らない。純粋な怒りは、空拳の強い意志へと変貌を遂げる。思い入れなど関わる内に育つ。彼はその後、風使いと共に朧と異界の地を往来し、密かに、奴らに対抗する手段を作り上げた。目論見は途上で破綻する。しかし空拳は諦めなかった。必ず現れる。そう信じていた。

エーテルが人を呼び、導く。運命というものは確かに存在する。士騎と春。この二人が同時に自分の前に現れた時、空拳はそれを初めて実感した。こやつらはいずれ儂を超える。儂を足蹴にして、遥か上空に飛び立つだろう。空拳の予想は的中する。二人は己が描いていた構図を言うまでもなく実現させ、奴らと戦おうとしている。異世界と人間界の橋渡しになる戦士。人でありながら、人ならざる力を持つ。盤上にナイトが二つ。ポーン、ルーク、ビショップ。味方同士で役割を変えながら、二人は着実に仲間を増やしていった。

「師匠、これ味が薄い」 「塩でもなんでも使えばいいじゃろうが!」 「電波、贅沢を言うな」
聖杯はハーピーという怪鳥のみが所在を知る、瑠璃色の宝石を使って作られた。その宝石を浸した水に治せない傷は無いと言われている。無精髭を生やした小男は酒を呷ると、静かに語り始めた。「コルヌイの谷は恐ろしい場所だ。昼間であっても人を寄せ付けない禍々しい瘴気が満ちている。ほんの少しの宝石を得るために、命を捨てる覚悟で谷底に降りなくてはならねぇ」 ゆっくりと酒瓶を引き寄せる。「夜に近付く程、遭遇しやすくなる。見付かるか見付からないかは運頼み。宝石と奴ら両方さ」男は何かを思い出す様に、杯に注がれた酒に視線を落とす。

「あれは撒き餌だと誰かが言っていたな。確かに谷底なら逃げ場は無い」 ある一点を除けば。「あの谷底にはな、洞窟があるんだ」 瘴気の薄い明け方に谷を降り、宝石を探し、その洞窟に身を隠す。「もしハーピーに見付かっても、洞窟までは追ってこねぇ。狭くて入れねぇからな」 青年は黙り込んだ。「小僧、何を企んでいるのか知らねぇが、聖杯をもう一つ作ろうなんて考えるなよ」 彼がギクリとしたのを見て、男は念を押した。「宝石を集めたところで、あれと同じ物なんて作れっこねぇんだ。止めとけ。餌になりてぇのか?」

僕は騎士になりたかった。ヘーゼは田舎だ。生まれ育った僕が言うのもなんだけど、とても退屈で、見所の無い場所だと思う。でも騎士を輩出した村になれば、人の往来も増えるかもしれない。そうしたら都に作物を売りに行く必要もなくなる。騎士になりたかった。この小さな村の誰もなることが出来なかった、立派な騎士に。

「コルヌイの都で大事件だってよ」 「聖杯が盗まれたらしい」 聖杯は都の祭器。二つとない物として祀られている。どんな傷も癒す。しかしその力を被るためには、沢山の対価が必要だ。翌日の早朝、白銀の鎧を着た兵士達が村を訪れた。
「ヘーゼ出身の娘が聖杯を盗んだ容疑で拘束されている」 ヘーゼ出身?まさか 「祭事の巫女を務めている女だ」

友達だった。見送った日を今でも覚えている。巫女になれる者は本当に少ない。誇らしいけど、あの時は寂しさの方が勝っていた。大人になってからも、農耕が落ち着いた頃合いを見計らって会っていた。そんなはずはない。間違いに決まっている。必死に訴えたが聞き入れては貰えなかった。僕が騎士だったら。「重い罪だ。覚悟をしておくように」 こいつ等は、あの子が犯人だと決め付けている。兵士はそれ以上、詳しいことを話してくれなかった。僕は考えた。無実を証明する方法を。

兵士達が戻ったのを確認した後、街道の馬車を乗り継ぎコルヌイに向かった。事実を知った彼女の両親が冷静でいてくれることを祈る。僕は長いこと独りで生きてきた。苦難に屈しそうになる度に誰かに助けられ、いつか父の形見であるこの剣で武勲を立てる日を夢見ながら。青年は腕に覚えがないわけではなかった。しかし本物の戦場を駆る騎士達の敷居は予想以上に高く、立身の機会を得ることも、一介の兵士になることすら叶わなかった。都を守る騎士達は幼い時から訓練を受け、騎士になるためだけに生きてきた様な者ばかり。余所者が受け入れられることはない。

しかし、ただ一人、歴史上で一人だけ、外部の者が騎士として認められたことがあった。谷に巣食う怪鳥の中でも、飛び切りの大物。そいつの爪を持ち帰ったのが、ルブル祭儀長だ。彼は騎士でありながら僧侶でもある。ルブルが都の騎士として活動を始めた時、聖杯は宝石が足らず未完成の状態だった。彼は自ら騎士達を率いて宝石を掻き集め、聖杯を完成させた。団員達はコルヌイの谷で幾度と無くハーピーと戦ったが、ルブルの強さは人のそれではないと感じ、神聖視する様になっていた。聖杯を完成させた功績により、彼は祭儀長の位を得る。

ルブルと死闘を繰り広げた真紅の翼を持つハーピーの伝承は、今でも語り継がれている。「誰かが言っていた。アシズは人間だと」 「奴が親玉であり、他のハーピー共は宝石を探しに谷底に降りた人間の成れの果てなんだと」 真偽はどうであれ、知れば知る程にあの谷がまるで異界の地でもあるかの様に思えてくる。男が嘘を言っていないことは仲間が証明した。彼の話では、商人の間でも奴らの宝石は高額で取り引きされていて、力を使い切った物かどうかを見極めるのが自分達の仕事だという。癒しの力は無尽蔵ではなかった。

「そもそも本物を見たことがない奴が大半でな。信じさせる為には効力を見せる他ないんだ」 痩躯に鍔の広い帽子を被った男は口を平たくすると、小男に白身魚のソテーが乗った皿を渡した。「もっとも、この都では商売にならんがね」 小男は魚を頬張り、咀嚼しながら相槌を打った。それはそうだろう。コルヌイの民なら例え遠目でも一度は聖杯を見たことがあるはず。見ず知らずの商人から高値で宝石を買うほど馬鹿じゃない。「聖杯が盗まれた話だが」 話を振る手間が省けた。彼らは長期間コルヌイを拠点に商売をしているらしい。口振りからしてあの谷に行ったこともありそうだ。

「あれだけ厳重に囲ってあったっていうのに、魔法みてぇに消えたって話だ」 迷っている時間はない。青年は決意を固めた。「祭儀場に入る方法を知りませんか」 酒場の騒々しい音の間を縫うように、目の前の二人がやっと聞こえる程の声で訊く。「疑われているのは僕の友達なんです」 二人は一気に酔いが醒めた様子だ。青年が何をするつもりなのか容易に悟ることができた。手掛かりを得るために違いない。「小僧、止めておけ。手段はあるが、下手したらお前が犯人にされるぞ」 「分かっています。でも見過ごすことは出来ない」 商人の手は広い。幼い頃ヘーゼに訪れた人達も色々なことを知っていた。人に話す危険を覚悟で、駄目元で訊いてみたけど、やはり。手段はある。「入る方法を知っているんですね」 慌てふためく二人に連れられ、酒場を後にした。

「見張りの一人がお得意様でな。そいつが番を任されている時なら、何とかなるかもしれねぇ」 小男はやれやれという素振りをした。「お前のその勇ましさは買うが、ついさっき会ったばかりの俺達を信用できるのか?」 青年は左の腰に帯びた短剣を見た後、小男の問いに答えた。「運頼み、ですね」 「たまげた、参ったわ」 痩躯の男は仰け反った拍子に帽子を落とした。「報酬は何が良いでしょうか」 「小僧、農夫だろう。畑にジャガイモはあるか?」 青年は頷いた。充分だ。二人は声を揃えた。

翌晩。人通りも少なくなった頃、青年は宿を出た。聖杯が無いために見張りは少なく、一人が黙認すれば造作も無く侵入できる状況だった。大聖堂には樫製の長椅子が縦列していて、聖水を求める者、祈りを捧げに来る者が座るようになっている。杯は聖堂奥にある部屋に置かれ、巫女が水を聖杯に流し込むことで聖水に変える。部屋まで移動する際、巫女が人を連れることは無い。盗まれた日も例外ではなく、青年の友人である女性が聖水を運び、水を求める者に渡していた。しかし朝から数えて五人目の希求者の水を受け取った後に部屋を訪れると、台座に置かれているはずの杯は姿を消していた。兵士は聖堂内の人々に動きがあればすぐに分かる場所に立っており、巫女の他に部屋に近付く者はいなかったそうだ。杯の置かれた部屋は扉が一つあるだけの密室。彼女が疑われるのは当然と言える。

青年は静まり返った聖堂内を隈なく調べた。調べ尽した後なのだろう。証拠は疎か、手掛かりになりそうな物は何一つ見付からない。直に見張りの交代時間だ。希望を絶たれた彼は力無く、樫製の長椅子に座った。前から四列目の左端。祈りに来る時はいつもここだ。向かって左奥には杯の置かれた部屋の扉が見える。上部には石製の屋根が迫り出ており、八本の柱がそれを支えている。彼の目には水を汲みにいく友達の姿が映っていた。青年は顔を伏せ、椅子の肘掛けを左手で強く握り締めた。手の平に痛みを感じ、払い除ける。するとそこには小さな蔓があった。

幸運か悲運か。青年はこの蔓に見覚えがあった。偶然は時として必然や宿命であるかの如く重なることがある。この日が満月で、青年の座った場所が聖杯の置かれた部屋の見えるその席でなければ、蔓を手にすることはなかった。彼は商人達の言葉を聞くや否や村へ戻ると言い始めた。馬車は走っていないと止めたが、戻ると言って聞かなかった。優しげな青年から並並ならぬ闘志を感じ取り、商人達は自分達の荷馬で送ることを決めた。二人が青年を引き止めた最大の理由は、その蔓と同じものをコルヌイの谷で見たことがあったからだ。蔓にある棘は灰白色に染まっており、夜更けに強い瘴気を発する。

村の東端にある古びた屋敷。その先には耕せる土もなく、村の者も滅多に近付かない。以前は誰も住んでいなかったが、つい最近になって一人、ここを住まいとする者が現れたそうだ。葉の枯れた垣根に蔓が絡まっている。棘は灰色、先端に薄紫の蕾を付けている。正面扉に鍵は掛かっていない。青年は勢いよく屋敷に飛び込むと、すぐに踏み止まった。そしてその光景を前に大きく深呼吸をする。「お二人は都に戻り、聖杯を見付けたと祭儀長に伝えて下さい」 「お前」 痩躯の男は小男の言葉を遮るように袖を引っ張ると、荷馬のもとに走った。短剣の柄に手を置く。屋敷の中では隙間無く蔓が密集し、侵入者の行く手を阻んでいた。細く頑強な蔓を斬り、進む。聖杯がここにあってくれればそれでいい。僕の最初で、最後の戦いだ。

コルヌイに着いた商人達は兵舎に向かい、戸を叩いて喚き立てた。「ヘーゼにある屋敷で聖杯を見付けた。至急向かってくれ」 兵士が追い返そうとしたが、二人は断固として退かなかった。「ルブルを呼べ」 後方から低く徹る声。まだ星が見える空に、太陽が昇っている。黒服の男は両腕に抱えていた青年を静かに降ろすと、腕に付けた装飾から蔓を伸ばして見せた。その場に居た全員がどよめく。兵士の死角を音も無く移動し、聖杯を手元まで引き寄せる。巫女が聖水を与える間は祈りを捧げることが義務付けられており、人目の隙を突くことは容易い。人智の及ばぬ方法だが、それくらいでなければあの最中に盗みを働くことなど出来ないはず。犯人自ら名乗り出てくることは誰も想定していなかったが、これであの娘の無実が証明された。程なくして近衛兵を引き連れルブル祭儀長がやってくる。

「お前なら気付くと思っていた」 ルブルは押し黙った。「何故取り決めを破った」 対価無く聖水を求めたあの老婆、貴様だったのか。「アシズよ、私はもう完全に人になったのだ。無償の施しでは掟を作ることはできない。囲う檻が錆びるのを早めるだけだ」 アシズと呼ばれた男は目を瞑っている青年を見た。毒素の根源である棘で手に傷を付けた。商人達は青年から鬼気迫るものを感じ取った理由を知り、大聖堂に入るのを止めなかったことを悔やんだ。翼のある獣になることを拒み、人の姿のままで空に還った。「あの屋敷に来たのは、かつてのお前だった。お前であればよかった」 アシズは青年のもとに駆け寄ってきた女性に深々と頭を下げた。「巻き込むつもりはなかった。済まない」 彼女は泣き崩れた。

アシズとルブルは年月を経て智慧と力を手にしたハーピーの血族。彼らは長く生きる中で人の心を取り戻した。人々が谷底の宝石を求める訳を知った二人は、同族を増やさないための方法を模索する。彼らは人間と共存するために一芝居打ち、一方が強大な敵として、一方がそれに立ち向かう剣士として生きることに決めた。芝居と言う名の死闘。戦いを続けた結果、どちらかが敗れるとすれば、それはアシズでなければならなかった。コルヌイに行けば傷を癒せると知れ渡れば、谷底に降りるのは私利私欲で宝石を探すような連中だけになる。アシズとルブルは聖杯の恩恵を無償で与えることを誓い合い、袂を分かつ。しかし十年後、取り決めを守っていることを確かめるため、老婆の姿で門を叩いたアシズは残酷な真実を知る。環境がルブルを支配者に変えてしまったのだ。

青年の姿はルブルの深奥を大きく揺さぶり、自分が知らず知らずの内に金銭を得るためだけに谷を降りる欲深き者達と同様の場所に立っていたことに気付く。己の命一つでルブルを悔い改めさせたその青年は、外部の者としては歴史上で二人目。ヘーゼの騎士としてその名を残した。彼の肖像画は鎧を纏った騎士の姿で硬貨に刻まれる。持っていた短剣には青年の名が与えられ、後世まで大聖堂に飾られ続けた。




初期配置ではダイヤとクローバーが上に並んでいた。ヒントとなる文章には、人間が降りて探していると書かれており、谷底に居る状態から始まっていることを示唆している。このことからパズルの方位は上下が逆であることが分かる。

『人間が降りて探している』 ダイヤ(宝石)とクローバー(人間)が右の窪み(洞窟)へ移動。『見付けりゃ夜明けまで眠って』 ハート(太陽)が左の窪み(東)に移動。ここで断片が赤く輝く。『奴らの羽音が聞こえないうちに登るんだ』 左下にあるスペード(ハーピー)が上に移動。入れ替わるようにして右側に並ぶダイヤ(宝石)、クローバー(人間)の二つが下(地表)まで移動する。『地表が見える頃には』 スペードが祈りを捧げる女性のところまで右に二回動く。太陽と月の昇る方角は同じく東だが、現れた影がどちらも同じ方向を見ていたことで、このパズルは左右共に東であると考えた。推測は見事に的中し、スペードは青く輝く。この時点で断片が移動した回数は合計12回。残すところあと半分。

『君も奴らの仲間入り』 右の窪みにあるスペードの左側にクローバーが移動する。ここまでくれば正解の配置を逆算するのは簡単だった。左から順にクローバー、スペード、ハート、ダイヤ。師匠が最後にハートの断片を動かし終えると、赤壁と天井は光の粒に変わった。挿絵の人物はハーピーになってしまったのだろうか。沖津がぼんやりとそんなことを考えていると、師匠が地球儀を凝視した。「どこか押せば景品が出てきたりしないかのう」 トゥージーの料理を待ちくたびれたランプは材料を盗み食いした。速過ぎて怒る気にもなれへんわ。「しかしお前さんがあの子の父親だったとは」 店主は以前、電波や師匠が雪山で出会った魔女の父親で、物珍しい品を集めるのが趣味である娘に、どうしてもこの地球儀をプレゼントしたかったのだという。それを聞いては沖津も矛を収めるしかなかった。「こんな危ない物を渡せるわけがないが、私はそういうのは最初に言っておくべきと思う」 タコヨリは睡魔と戦っていた。この依頼の解決を機に店主はバスターズの支援者となり、後に彼の娘である魔女の力を借りることになる。「ヘーゼの騎士とコルヌイの巫女。どんな物語だったんだろうな」






「Found Me」






彼は空に還る。

困った時に読むこと。今がその真っ最中だ。素早く本を開く。すると独りでにページが進み、曲線を描いた。これだけの仕掛けを施しておきながら、謎解きの末に何の見返りもない。そんな素晴らしき最悪の結末を思い描きながら、師匠は内容に目を向ける。左のページには走り書きのような筆跡でこう書かれていた。

『ハーピーの 9 谷の底』
0 が降りて探している。見付けりゃ 10 まで眠って、奴らの 5 が聞こえないうちに登るんだ。
地表が見える頃には、君も奴らの仲間入り。

右のページには挿絵と、その下に四つの単語。DAWN、JEWEL、FLAP、HUMAN。直訳すると夜明け、宝石、羽音、人間。文章中にある数字も同じく四つ。この単語が数字の場所に当て嵌まると見てまず間違いないだろう。文章として無理なく読めるようにするなら。「ハーピーの宝石、谷の底。人間が降りて探している。見付けりゃ夜明けまで眠って、奴らの羽音が聞こえないうちに登るんだ。ハーピーというのはこれか」

挿絵には大きな鳥が描かれている。そしてその鳥に腕を伸ばす男。共通点と呼べるものは腕を伸ばすという動作のみで、後は全く関連が無いように思える。DAWN、夜明け、10。この数字に意味はあるのか。沖津は己の閃きに感謝した。「ハートの色が変わったのを見ただろう」 師匠の言葉を聞くよりも早く、沖津はメモ用紙に新たな情報を書き足す。「太陽か」
ハートが赤く輝いたのは、夜が明ける現象を表していた。ただ一つの確実と思える考えから、謎解きは速度を上げる。

タコヨリにも閃きが訪れた。「記録にあるハートの動き方を見てくれ」 色の変わった場所は左の窪み。騎士に最も近い場所。「太陽の昇る方角と合致しているんだ」 四つの断片それぞれに対応する単語が文章中に散りばめられている。先程の変化から一つは特定できた。残りは三つ。「気付いてしまえば簡単じゃ」 師匠は記号の名前を英字で書いた。HEART、CLOVER、DIAMOND、SPADE。「勿体付ける暇なんて無いぞ」 師匠はタコヨリの迫力に後押しされ、もう一度、今度は単語をすべて小文字で書いた。heart、clover、diamond、spade。「10は英字でXじゃ」 「こんな子供騙しに悩まされるとはな」

「単語に数字が隠されておる」 「Sが5を変化させた文字に見えた途端、消去法により残りは9と0の二つ。クローバーに9と思われる英字は見当たらん」 「待て、5は英字でVだ」 「固定観念に捉われてはいかん」 これが答えと師匠が言い切ることのできる要素が他にもあった。「クローバーの記号、なんとなく人間に見えんか?」

人間が谷底に降り、ハーピーの宝石を探す。見付けりゃ夜が明けるまで眠って、羽音がする前に上に登る。この文章は恐らく断片の動き方を暗示している。人間がクローバー、宝石がダイヤ。「羽音はスペード。鳥の羽根に似ているように見える。しかしそれと同時に、別の何かを表す記号ではないかと考えたんじゃ」 「ハートは太陽、ならば、恐らくこれは月」
色がね、変わるんですよ。店主の言葉が過る。「スペードにもハートと同じ現象が起きる」 「ご名答。こんぺいとう。流石じゃな」 空理空論の類ではなく確証がある。記号の意味するものが一つではないという考え自体は間違っていなかったんだ。「とするとハートにも何か別の」 「それこそ聖杯かもしれんな」 残された時間は計算するまでもない。次が最後。言葉にするまでもなかった。

失敗は許されない。しかし間違うことが出来ないのであれば、天井が地に辿り着くまでの時間を存分に謎解きに使うことが出来る。「そういえば店主はどこに行った」 思い返せば気付いた時には既に三人だけが閉じ込められていた。「あっちで寝た振りをしておるよ」 赤壁のお陰でよくは見えないが、帳場と思われる机の傍に背もたれ付きの長椅子が置かれている。「足が生えているな」 タコヨリは苦笑した。二人の声を聞くと、空を仰いでいた一足の革靴が動く。拾える可能性はとことんまで拾う。この店主、まだ何か隠していそうな気がしてならない。「俺にまだ言っていないことがあるだろう」 沖津は威圧するように言った。当たり前のことだ。お遊びで騒いでいるわけではない。

返事はなかった。タコヨリはヒントの書かれたページを見た時から、使われている紙の材質が気になっていた。触れてみるとよく分かる。羊皮紙だとは思うが、このざらつきは。土が纏まり形を成す様に、希望の名を持つ陶器が出来上がった。
「炙り出しかのう」 当たらずと雖も遠からずだ。「トゥージー、悪いがこの部屋の灯りを消してくれ」

店内が暗闇に包まれる。騎士の姿が闇に呑み込まれると、祈りを捧げる女性の白い影が現れた。師匠と沖津はほんの少し悔しさを感じた。先を越された。そしてこれは間違いなく大正解だ。耳を澄ますと騎士の発していた金属音とは比べ物にならないほど小さく、女性の啜り泣く声が聞こえる。組まれた両手からは鎖の様なものが短く垂れ下がり、その先に球状の影。硬貨のペンダントだろうか。暗がりで白く燃える本。挿絵の下、四つの単語すべてに重なる様に、一つの数字が浮かび上がった。

6。「この数字が何であるか、直感で言おうじゃないか」 三人の答えは同じだった。断片の移動する回数。謎が謎としての位を失い、彼らと等しい場所へ降り立つ。「コーヒーでも淹れるかのう」 師匠の冗談粧した言葉にも、今は素直に笑うことが出来る。






「青空のナミダ」