適応、対処 | のんびり

のんびり

いろいろあるけれど、平穏無事に暮らしたい

弱い陽射しが射し込んでいる

束の間の晴れ間になるのかな

 

なんとなく体調が安定してきたので山に出た

最近、熊さんの話題が多いから少し警戒したりもする

 

5/21になんとなく書き始めた件について再び考えてみた

ぼんやりと分かっていることは状況に合わせて対処するということである

各所で相場の先輩がブログで記されていることを参考に頑張ってみる

 

今回も頭で纏めながらつらつらと書いてみる

 

前回は、対象を「分かる」感性ということについて考えた

それは個人の美意識感性によるArt(絵画・音楽など)が分かる、美しいが分かるという「分かる」とは何か?ということを例にしたがなんかシックリこなかった

 

これは運動能力の「出来る」とはまた違う、「出来る」ということは万人が「分かる」ということが一般的である。そして「出来る」ということは結果も伴う

 

なぜ「出来る」が出てくるか?というと相場には「分かる」と「出来る」という側面があるからとふと思ったのである

 

 

ここで、Artと相場の決定的な違いについて考えた

前回も触れたがそれは目的である

 

Artや「美しい」という感性は、自己満足である。対象を主観で評価して「好み」をチョイスする。そこには自己満足意外に何もない

 

それに対して相場には絶対的な「利益」という目的がある。それは自己満足ではなく、結果を求められることになる

例外的に「配当金・株主優待・会社を応援・社会勉強・持つこと」が目的である場合があるが、それのも本来は副次的であり主目的は利益であると思うのであるが

ここが決定的に違うところだと考える

この違いからArt感性を引き合いに出したのは良くなかったような気がしてきた

 

 

そして相場が「分かる」とはどういうことか?と再び考える

 

相場では「目的=利益」のためにやるべきことがある

 

①ポジションを取り、手仕舞う。すなわち売買である
②利益が出るように①売買をする

 

この2点は必須となり、そのために

③やり方を求めるようになる。手法・取り組み方・思考など

一見、③のやり方が分かれば問題が解決するように思う

しかし、ここが問題になる

相場というものは「目的=利益」と①売買は不変であるが、その方法②③は相場環境が変化すると変わるのである

 

ということを考えると、相場が「分かる」とは先ずはどんな相場環境においても利益が出せる万能手法など無い、ということが分かっていること、と言えるのかな?と

 

 

次に相場環境の変化に対応して②③を変化させることが「出来る」ことが必要である、と考える
大体の人の思考は「今、目の前の相場環境において最大の利益が出せる」ことが「分かる」ことだと勘違いしているように思う
そしてその「分かる」も誰かのやり方・思考を自分で消化しているパターンだろう

一応これで相場が「分かる」ことと「出来る」ことがなんとなく定義できたような気がする

 

 

ここで再びArtを例にすることを試みたい

何かを評価するときに他人の物差しを使う人がいる

誰かの評価或いは高名な評論家・学者の評価を自分に取り込んで「分かった」ように振る舞う人がいる。そこには本来の評価基準であるはずの主観という自分の感性すらない空虚な状況である

 

誰かの評価、誰かのやり方に依存しているとそれが普通になり常態化する
誰かから学んでいるようでいて自分を無くしている
いわゆる学校で学ぶ勉強方法である

 

 

そして相場に戻る

例えば、相場環境が変った時に誰かにどうすれば良いか答えを求めたり、その状況に最適化している手法を探し求めて時代の寵児の話に食いついたり、することがイメージされる

 

それは「分かろう」としているのではなく単に誰かに依存しているだけであると見る事もできる
変化に対処するのではなく、誰かに答えを教えてもらう思考である

 

 

それは「分かっていない」のと「出来ていない」の両方に該当する
結果として、相場を「分かっていない」ということになるのではないか?

 

 

ここで相場への対処を簡潔に纏めてみる

④「相場環境=ファンダメンタルズ(景気不景気の波)・業界や個別企業の状態・市場の状態」を把握する

⑤④に適した売買をする

この④⑤を万能手法がないという大前提で対処していくということになる
大雑把にいうと手法云々よりも先ずは「傾向をみる」ということに尽きるか

「傾向」と「変化(近いのか遠いのか?)」を大雑把に把握して最後にやり方(手法)となる
この優先順位を間違えて認識していると厳しいような気がする

至極簡単である

やることは決まっている
「利益のために売買する」である
そのためには自分の感性で状況を把握して対処していくことが出来るのか?出来ないのか?

 

誰かの「売買のやり方」を盗むだけでは「分かった」ことには決してならない
 

 

言葉の定義として環境・状況に対処する、とした。

対処とは「ある事柄・情勢に対して適当な処置をとること」とある

 
変化に対して適切な処置をする、これはすなわち「適応」ということになると思う
 
これが「対応」となるとまた意味合いが変わってくることを知る
対応の場合は”【自分がない】から、起きた事象や起こした相手に、自らを合わせていく”
適応は”自分という絶対的自己、絶対的な価値を、時代や相手に合わせて創り変えていく”
という大雑把な意味合いがあるようだと読んだ
 
対応も適応もできないと論外である
「対応」は少なくとも環境変化が起きたことを認識してはいるが、自分ではどうしようもない。したがって、その状況に適した「売買方法」を探すという行為をするようなイメージ
 
「適応」は環境の変化に対して、自らの意思と判断で売買を変化させることができる。ような感じ
 
 
自分が主体の相場感性がなくても、時流に最適化した売買方法が知って実行することで変化が起きるまでは利益が出せるという状態が得られることは上げ相場一辺倒の時代には顕著である
しかし、それが永遠に続くのか?というと神のみぞ知るということになる
 
 
今のやり方の主流がある
「私はどんな状況においても粛々と買い続ける」である
信念があり筋が通っているようにも感じるが状況把握と変化に対処・適応できないことを自ら認めているのである
一見正しそうなことは怖い
言葉のトリックだ
 
ダラダラと書いてしまった
一応自分の中ではまとまったように思うが、どうだろうか???