前回のブログから1ヶ月
悲しみと試練が続いた、だいぶしんどいひと月でした。
書き残したいふたつのこと
どちらもすごくちゃんと書きたい大きなできごと
今月はそのうちのひとつを残します
2021年9月17日
祖父が祖母の元へ旅立ちました。
大好きな大好きな祖母が亡くなって約2年
きっとわたしの想像を絶するほどの大きな喪失感があったはず。
でも祖父はすごくすごく頑張って、「最期まで祖母が一番心配していた祖父のこれから」を一生懸命に生きた。
病との闘いを強いられた時間も長かったけど、それでも「大好きな祖母と一緒に生きたかった未来」を祖母の分まで頑張って生きた。
特に祖母が亡くなってからの時間、懸命に生きる祖父をすぐ近くでずっと見てきた。
祖父母にとって初孫だったわたしを、とても可愛がってくれた。
年に数回遠く離れた松山から母とともにやってくるわたしと弟を、いつも手厚い「おもてなし」で熱烈歓迎してくれた。
"おじいちゃんち"で目覚める朝、祖父が「のんびり」「ボーッと」なんてしていた記憶はほとんどない。
早朝から庭仕事をして洗濯をしてゴルフの素振りをしてモーニングティーを飲みながら朝刊を隅々まで読む。その後みんなの朝食を準備してくれた頃にわたしたちはようやく「おはよう」。
頻繁に会えるわけでないこともあり、そんな "完璧なおじいちゃん" との久しぶりの再会は、いつもどこか嬉しさと楽しみに加えて若干の 緊張 もあったような気がする。
たくさん考えて準備してくれたプラン
田舎から遊びにくるわたしたちを、都会の色々なところに連れて行ってくれた。
祖母の車椅子を幸せそうに押す姿、いまもしっかりはっきり思い出す。
再会の 緊張 が解けてきた頃にはまた しばしの別れ。
再会のときと別れのとき、すごくおっきくて分厚いおじいちゃんの手と、力いっぱい握手をするのがお決まりだった。
子どもの手には強すぎるほどの力でギュッと握られるときが、おじいちゃんの優しさとわたしたちへの愛、そしてママがまた遠い松山に帰っていくことが寂しいんだなと伝わる瞬間だった。
大学進学で埼玉に来ることが決まったとき、とにかく喜んでくれた。
張り切っていくつものマンションを見て回り、わたしの "一人暮らしデビュー" の場所を選んでくれたのは祖父だった。
それなのに・・・
大学生活を謳歌するあまり、あんなに埼玉に来ることを喜んでくれたのに・・・祖父母に会いに行くことは決して多くなかった。。
卒業後、新聞社で働き始めたわたしの小さな記事を読むために迷わず購読紙を増やして、いつも過剰に褒めてくれた祖父。
体のことを常に気にかけてくれて、どんなに長くて面白くない話でもにこにことても嬉しそうに聞いてくれた祖父。
「結婚はいつですか?」「お相手はお元気?」
冗談なのか、、、いやきっと本気でドストレートに聞いてくる祖母をフォローするかのように「あなたが健康で好きな道を邁進することがわたしたちの最大の悦びです」といつも言ってくれた祖父。
祖父がわたしを温かく見守り、優しく想ってくれていたことがわかる、たくさんの思い出。
振り返るとどんどん思い出してキリがない。
それなのに・・・
もっとたくさん会いに行けばよかった
もっといっぱい話を聞いてもらえばよかった
もっと「大好き」を伝えてくればよかった
気づくのが遅かったけど、まだ遅すぎることはない
そんな風に自分に言い訳をしながら、、、
祖母が亡くなってからの約2年、たくさんの時間を祖父と過ごした。
十分とは言えないけど、それでも少しは感謝を伝えられたと思いたい。
祖父との最期のとき
わたしはこれ以上大きな耳を持つ人を見たことがない、おっきくて立派な祖父の耳にむかって、大事なこと、しっかりと伝えた。
聞こえたよね
母が松山に嫁ぐことを許してくれて、ありがとう。
おじいちゃんの 最初の孫 で幸せでした。
たえこのおじいちゃんで、ありがとう。
大好きな祖父が喜び、いつも応援してくれたこの仕事をわたしが元気に楽しく続けること
それがきっと祖父がいちばん望んでくれること
おばあちゃんと一緒に、見守っててね。
別れのときの、わたしたちの「お決まり」。
すごくおっきくて分厚いおじいちゃんの手と、力いっぱい握手した。
体はだいぶ細くなったけど、最期に握った手は、あのときと同じだった。
♡
追伸
ドストレートなおばあちゃんの、おそらく募り続けているわたしへの心配
しっかりフォローしといてね!♡
もうひとつの できごと
それはわたしの最愛の相棒ごりんが、これまで一緒に生きてきた5年とちょっとで一番の辛く苦しい時間を過ごしていること。
それはもちろんわたしにとっても辛く苦しい日々。
これについてはきっと来月「だった」と書けることを信じて、一緒にこの試練を乗り越えます。
よかったらこちらも読んでね。