振り返り(悔しい)-誤診の上の処方 | るいの徒然なブログ

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精神科に通院したのが、23歳の時。
厳密にいうと、その前から、クリニックに通院していた。
病院に本格的に、関わるようになったのは、甲状腺の病気が発覚し、某大学病院に入院したことであった。

私の生い立ちは、日本の統計学的にはありえないような環境(某精神科医の話)で育った。
一族からの虐待、暴行(性的・身体的)が当たり前。
私の価格=3000円(払えば何をしてもよいというのが、実家の掟、しかし、払われたことはない)
結果、不登校、摂食障害。しかし、母親は、ネグレクト。
高校の時、校長から、「出席日数があまりにも少ないので卒業ができない」との手紙が送付のため
無理やり車にて登校させられるが、教室に入ると、過呼吸、嘔吐に襲われ、すぐに、保健室へ。
一応、大学へ進学したが、父親の勤務する学校で、すべて監視。
サークル、バイト、一切禁止。しかし、生活費は、ほぼなし。
もちろん、授業もすべて父親が決め、父親の授業を受けさせられた。
試験前になれば、父の授業を受けている学生から「試験問題しっているんだろ」と脅迫。
最終的には、0.02の差で、主席を譲り卒業。
外ずらだけ良い父だったので、学部の特に女子には、「あいつ(私)に逆らうと、パパ、あの子、嫌いだから、単位落として~、と言われるから、気をつけな」と言われ、一方、先生の娘ということで、大学に残ろうとする学生は、私に興味がないのに、なぜか、関係を強要し、結果的には、今、大学で教鞭をとっている。
今、考えると、私の選択は、間違っていたが、学部卒業とともに、他の大学に編入した。
父親の学校と比べるとまったくメジャーであるし、レベルもかなり上だ。
父親は、自分の後継者として考えていたので、私が他の学校を受ける話を訴えると、「お前なんかに、受かるわけがない」といつもの暴言。
その時、すでに12月。願書もぎりぎり。それまで、実は、就活もしていた。しかし、親が関与し就活がばれると、監禁された。
高校、大学受験もそうだった。
「お前に受かるわけがない」
しかし、合格しても、入学できなかった。
いつも、一族から、馬鹿にされ、「何をしても馬鹿だから、わからない」と言われていたが、私は辛く、悲しい気持ちを誰にも言えなかったし、現実に起きていることを受け入れることは、できなかった。
物心つくころから、「死にたかった」。希死念慮が強かった。
一応、他大の編入に合格。奇跡としか言えない。まったく関係ない学部の編入試験の勉強は、約一か月のみ。あれだけ反対していた父親が、大学名が有名というだけで、利用しだした。
入学するも、やはりレベルが違い、学生とも馴染めず、後期の授業が始まると、まず、板書ができなくなった自分に気がついた。過呼吸、不眠、だるさ、手の震え。とにかく、体調がつらかった。一応、学校の臨床心理士に相談して、近くの精神科を紹介された。かなり待たされる上、
何の薬を出されているのかさえわからなかったが、今思いだすと、たぶん抗鬱薬だと思うが、かなりの量を出され服用すれば、失神、記憶の欠落。結果、不登校に。
どんどん悪化する状態を見かねて、相談した臨床心理士から、最終的には、内科への通院を促され、某大学病院に初診で、即入院。私は、かなり前から「バセドウ」であった。当時の内科の主治医いわく
「このような状態で、本当に辛かっただろうに、なぜ、家族は気が付かなかったのかわからない」と言われた。
最初は、内科病棟に入った。不眠のため、寝る前に筋肉注射を打っていた。
しかし、父親との電話のやり取りで、心が折れてしまった私は、リストカットを生まれて初めてしてしまった。今、思いだすと、本当に馬鹿なことをしたし、自分の弱さに対して頭にくる。しかし、その時の私は、本当に辛かったことは事実であった。しかし、そんな簡単な過ちで、私は、薬の売人のだらけの精神科に本格的にかかわることになってしまった。本来なら、関わるべきでなかったし、知らなくてよかった世界に、入ってしまい、本当に悔しい。

それから約15年間。私は、きちんとした診断が出されなかった。
入院も10回以上してきた。理由は。「抑うつ状態」のみ。
薬を飲むと、なぜか、おかしくて、楽しくて、過食はするは、買い物依存になるは、奇行に走った。自分でも、薬を飲みだしてから、生活がどんどん悪化していったし、人格も変わっていく自分が正直怖かったし、しかし、それをどの医師に問い正しても、「とても良い薬です。あなたの話す副作用は、統計的には、ありえないので、病気のせいでしょう」と言われる。私は、つい、「病気のせいなら、なぜ、診断がだせないのか。私は、PTSDではないのか。」と反論すると、
「そういう攻撃的なところは、ボーダーだよね。あとさ、そうやって、自分で診断をするあたりも心が病んだ族に多い傾向、つまり、こだわるところかなあ。君みたいのは、本当に厄介なんだよね。」と皮肉そうに笑い、一方的に多量に薬を出すのみ。
私には、約一か月眠れなかったことがあった。当時の薬は、お薬手帳が没収されたので詳しいことはわからないが、就寝前の薬(睡眠薬など)が10種類以上だされていた。しかし、まったく眠れなくて、当時の主治医に話すと、「あのさあ、医者も人間なんだから、完璧を望まれたら困るんだよね。」さすがに、私も、キレたので、「出している薬がどのように効いているのか、副作用などきちんと把握しているのですか」と吐くと、主治医曰く「そんなの、わかる訳ないよ。たくさん出しているんだから、わからなくなるって同僚の精神科医はみな言っていてねえ、大変なんだよね。まあ、あんたらは、薬が欲しいっているから、出しているのに、期待ばっかりして、医者だって大変なんだよ」と反論してきた。

実は、一年前、元夫のDVで精神的に悪化し、某大学病院に精神科に入院した。
その当時のお薬手帳があるので、当時の薬は下記の通りである。
ロナセン 4mg/6t
レキソタン 5mg/3t
トピナ 50mg/3t
プルゼニド 12mg/2t
アローゼン 0.5g
マイスリー 10mg/1t
サイレース 1mg/1t
リボトリール 0.5mg/1t
アキネトン 1mg/2t
ウインタミン 12.5mg/2t
レスタス 2mg/2t
ロキソニン 60mg/3t
セルシン 2mg/3t
ハルシオン 0.25mg/1t

以上。
わかる方なら、精神科医が私をどのように見ていたか、気が付くと思う。
つまり、私は、それまで、「人格障害」という枠組みで考えられていたが、本格的に「統合失調症」と診断されたのは初めてで、退院後、デイケアに通うことになったが、結果、デイケアに半日を3日間通っただけで、精神的に耐え切れず、断念。
入院し、いつもの質問、「何か聞こえたり、見えたりしますか」「誰かから、吹き込まれたりしますか」。経験上、「幻覚・幻聴の確認」であるのがわかるから、「いいえ」と伝える。しかし、私のフラッシュバックについて触れてきて、「いないのに見えるんですね」と担当医が聞いてくるので、「フラッシュバックは幻覚なのですか」と話すと、担当医「はい、幻覚です」断言。
デイケアに行くように指示され、見学に行くたびにデイケアの職員が、「おひとりですか。いやあ、びっくりですし、あなたは、本当に統合失調症なの」と言われ、私は、まだ担当医から統合の話は聞いていなかったので、「いえ、人格障害ですが」と話すと、「人格障害の方は、こちらでは難しいかと」と断られた。それを、病院に帰り担当医に話すと、「あんた馬鹿だよ。なんで人格障害なんて話したのか。あんたは、統合なんだから、もうあきらめたら」と怒鳴られ、ショックだったが、納得できず、「人格障害はどうしたのですか」という私の問いには、「もう落ち着いたんだから、あんたは、精神病だから、障害者なんだよ、一生」と担当医に吐かれた。
ロナセンが出され、私は、アカシジアに悩まされ、アキネトンが処方され、過食に悩まされ、トピナが処方された。しかし、副作用も、奇行も、悪化するのみ。
悪化の中、外泊中に家族がインフルエンザになったという理由のみで、強制退院。

あれから、一年。
今の薬の以下。
デパス 1mg/3t
ベタナミン 10mg/2t
レスタス 50mg/1t
ロヒプノール 2mg/1t

以上。
今の主治医には、「来年あたりには、薬は必要なくなる」と言われ、本当にびっくりしている。
一年前には、「薬物中毒」だから、薬はやめられないと宣告された私だった。

精神科に関わったため、私は、女性として一番幸せであることを、断念せざる負えなくなった。
つまり、「堕胎」を経験した。
精神薬を飲んでしまったので、出産に対しては、かなりリスクが高い。

精神科に通い、希死念慮が強くなると、精神科医は必ずお約束をしようとする。
「絶対に自ら死のうとしないと約束してください」。
私は、これほど安直で無責任な約束はないと思う。きっと、もし、この患者が自殺しても、主治医としては、「約束を破った患者が悪い」と言う材料にするだけだろう。

いまだに、発作的に体中が痒くなったり、体の震えに悩まされている。
これは、「離脱」、「薬害」、「バセドウ」なのか、わからなくなる。

無駄に使ったお金、時間、心の傷。
いくら嘆いても、かえってこない。
「悔しい」この気持ちを、なんとか、世の中に訴えたい。
もう、わたしのような犠牲者を増やしたくないから。