挨拶しない自由・挨拶しない人 1 | tadahiのブログ

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挨拶しない自由・挨拶しない人

 

 「挨拶しない自由」という発言から、月々さんという若者が非難されているようです。話題になっていたので、私なりの考えお綴ってみました。思った以上に長文になってしまいました。

 

月々さんの投稿から1

アベプラさんの取材にて「挨拶する/しない」の議論でぼくが喋った内容は以下の通り。

 ①挨拶するかしないかは相手が決めることであって相手の課題。これは『嫌われる勇気』の「課題の分離」の考え。自分ができるのは自分が挨拶するか、しないかの2択。他人が挨拶するかしないかは他人が決めること。

大きな問題のように綴っていますが、行動を起こすのは個人であって、他人が個人の行動をコントロールできないという、当たり前のことを言っているに過ぎないと思います。本来は、挨拶の意味を考えるべきでしょう。

私論:コミュニケーションには、相互の関わりが必要であり、一方的なコミュニケーションは存在しません。従って、相手が挨拶しないということは、自分を敵とみなしているか、少なくとも仲間と認識しないということになり、関わりたくないという相手からのメッセージと取るのが一般的です。挨拶の判断を相手が決めることは間違いないのですが、それを行ったら、最悪の場合敵と見なされるというリスクがあります。つまり、嫌われる勇気などという生やさしいものではなく、コミュニティーから阻害されるということにつながると思います。「課題の分離」ということで、挨拶しないということは、相手の課題であり、こちらの抱える課題ではない、と言いたいのかもしれません。相互の問題と考えないで、個々の問題という意味であれば、挨拶は1人の問題ではなく、相互の問題です。挨拶しない自由を行使した人と行使された人の課題は異なっても、課題同士は関連があります。挨拶しない自由を行使した人は、コミュニケーションが取れず、コミュニティーから阻害を受けます。行使された方は、相手から拒否されたと考えるのが普通であり、無視するか、制裁するかの判断となるでしょう。少なくとも、同じ仲間とは認識しないと思います。

 

②挨拶しない自由がある。靖国参拝しない自由、「いただきます」を言わない自由も。ただ、ぼく個人は挨拶するし、毎週神社に行ってるし、食事をするときは命をいただくことに感謝の気持ちを込める。でも、それを他人に押し付けようとは思わない。

私論:ヒトが個別で生活し、生きていく動物であれば、このような自由は存在するでしょうし、押し付ける必要はありません。しかし、社会生活を基盤とするヒトの群れでは、挨拶も群れの一員としての儀式となります。これを怠れば、コミュニティーの一員として認められなくなり、阻害、排除されることになります。今の日本の社会は大きなコミュニティーになっているので、このような些細な儀式を無視しても、社会的抹殺、阻害、という事態にはならないでしょうが、友人や会社など小さコミュニティーでこの儀式を怠れば、友達関係はなくなり、会社でも阻害されるのは当然でしょう。どんなに大きなコミュニティーとなったとしても、その中には、小さな社会は存在するので、そこでの儀式を無視することは、小さなコミュニティからの排斥につながるでしょう。挨拶するかしないかの自由は存在します。それは、善悪が存在しないことと同じ理由からです。唐突に、「善悪は存在しない」というと違和感があるかもしれません。しかし、ヒトの社会を無視し、宇宙的な視点に立てば、善悪など存在しません。全て、ヒトの社会が作り上げてきたものであり、ヒトの社会で定められた善悪でしかありません。従って、絶対悪だと思われる、例えば殺人に関しても、社会的制裁を覚悟して行えば、善だと主張しても間違っていないと思います。同じように、社会的制裁を受ける覚悟であれば、挨拶しない自由を行使しても問題はなく、個人の自由だと思います。批判するのは、批判自体が社会的制裁であり、あるいは、社会的制裁を受けることを心配した親切な人が批判しているだけだと思います。私のような非人間であれば、心配や諭すこともなく、挨拶しない自由を使ってみれば。どんな制裁が来るか楽しみだね、としか言わないでしょう。