神宮外苑再開発反対の矛盾 | tadahiのブログ

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神宮外苑再開発反対の矛盾

 

 神宮外苑の再開発に対して、共産党や朝日新聞、毎日新聞、東京新聞など、左派系は反対しています。また、有名人として、村上春樹、坂本龍一、サザン桑田、さらに、米国人のロッシェル・カップなる樹木伐採に反対する人などが参加しているようです、彼らの主張は、樹木を斬るなということのようです。共産党などは「森が消える」などという過激な事を言っています。そんなことが本当に起こっているのでしょうか。

 この再開発計画を見てみると、神宮外苑のみの再開発であり、神宮の森と言われる内苑は対象外のようです。では、外苑には森がないかといえば、田舎者が森と認識するような樹木群はなく、市街地型公園に植えられている樹木程度のように見えます。都会の人たちが、外苑の樹木を見て森と感じるとしたら、いかに自然から遠ざかっているかということだと思います。庭の植木が広がった程度を森と呼んではいけないと田舎者は思ってしまいます。従って、都会の人たちと、私のような田舎者では、自然に関する感じ方が大きく違うのだと思います。

再開発の内容を見ていくと、開発計画では、「神宮外苑いちょう並木をはじめとする歴史的な景観や緑地等の保全など、地区資源を活用した風格ある緑の環境づくりを推進する」となっていて、計画通りであれば、緑化に心掛けているように感じます。もう少し詳しく見ていくと、外苑全体の再開発前には、1904本の樹木があり、工事によって743本の樹木を伐採するようです。そうなると残りは1161本となり、4割近くの樹木が伐採されることになるようです。ただ、837本の新たな樹木を植えるということなので、全体として5%程度の樹木が増えそうです。つまり、樹木数から見れば、変わらない、微増ということになりそうです。これで「森が消える」というのは、大袈裟すぎると思います。そうであれば、他に問題がないのでしょうか。

この事業計画には、不明な点があります。この再開発では、3棟の高層ビルが建てられるそうです。そのうちの2棟は、公園内に立つということのようですが、その詳細は都の説明が不足していて、一部非公開ともなっていて、その点に疑惑を指摘する人もいるようです。都と開発業者の裏取引があり、利権がらみの不正があると疑われても仕方がないような隠し方のような報道もあります。むしろこの点の方が、再開発反対の動機になりそうですが、このような話は、あまり表には出てきません。蓮舫議員も「森が消える」などとコメントしていますので、問題の本質が歪められているような気がします。この点を調べてみると、反対している主体は、共産党主体の左派の人たちであり、活動家に近い人たちのようです。このような人たちの手法は、本来の問題点を無視して、一般人が同意しそうなものを根拠にでっち上げ、反対のための反対を進めていくのが、常套手段です。今回の問題も、本来は公園に高層ビルが立つことであり、その進め方に問題があると思います。しかし、それを訴えてもインパクトが薄いため、開発で伐採される樹木に着眼し、自然破壊だ、「森がなくなる」というより強いインパクトのある言葉にしたのだと思います。しかし、実際には、公園の再開発であり、緑化はわずかに推進されることになります。つまり、主張は全くの的ハズレであり、根拠のないものだということが分かります。そして、事の本質を確認もしないで、この言葉に触発され、信用したお人好しの無知な善人である周辺住民が、裁判所に申し立てを行っています。高裁では、「緊急の必要がみとめられない」として住民側の特別抗告を却下する決定をしています。普通の裁判官であれば、住民の「樹木伐採で良好な景観を享受する権利が侵害される」という主張は、客観的に現実を見れば、通らないと判断するでしょう。つまり、「森が消える」という主張は根拠がなく、従って、この主張で生じる権利を侵害することはないと判断すると思います。森は消えないのだから、良好な景観が著しく失われるとは思えないという判断だと思います。主張が間違っていたということでしょう。

これは左派活動家の思惑が外れたと考えるべきでしょうか。残念ながら、どんな結果になろうとも、左派にとっては問題ありません。大切なのは、自分たちの主張を地域住民が聞いて行動を起こしたことが大切であり、活動家にとっては運動が成功したことになります。裁判所の結果については、裁判所も都の力に負けた、権力に服従した組織だ、と陰謀論でも吐いていればいいでしょう。そして、それも住民は信じてくれると思います。東京都と業者間で何かしらの取引があったとしても、それを隠すためにも、樹木伐採の是非を問題にしておけば、カモフラージュできるというメリットがあるので、東京都としても放置している方が得策と考えているのかもしれません。左派の活動家は、問題があってもそれを主張する時に、人の目をひくことを主眼とするために、的外れな主張をしてしまっていると思います。これでは、何もよくなることはなく、問題も明確になるどころか、より隠蔽されることになり、何がしたいのか理解できません。

この神宮外苑は明治神宮の所有となっています。神社は今、全国的に経済困窮状態にあり、経営難と言われています。賽銭だけで維持できるなどというのは、夢物語であり、事業を起こさないと存亡の危機となっているようです。神社の事業としては、神社の樹木伐採による資金調達も古くから行われています。私の実家の家の一部も神社の森から伐採され、売りに出された材木で建てられています。出雲大社では、遷宮時には、境内の樹木を伐採して、建材にしています。しかし、過去には切りすぎのため、樹木が不足し、それ以来、植林を行うようになったといいます。神社では、定期的に樹木を伐採していたということです。日本は、樹木文化があり、樹木は環境付属物ではなく、資源でした。樹木の伐採、植林再生は、古代から続けられていて、今でも日常的に行われていることです。それに反対する人は、日本の文化を理解していな人であり、その部分に関しては、歪んだ常識を持っていると思います。そして、明治神宮は、神宮内苑を維持するために、神宮外苑からの収益に頼っていて、ここに高層ビルが立ち、収益を得られることは、神宮内苑、明治神宮の存続のとって大きな利益となるようです。つまり、外苑内の高層ビル建設は、明治神宮側も希望しているということではないでしょうか。

このように考えていくと、神宮外苑の再開発時の樹木伐採は、神社的にも、緑化の面からも何の問題もないと思います。問題があるとすれば、事業の進め方と都の隠蔽体質、業者との癒着疑惑だと思います。そこで、「森が消える」という間違ったプロパガンダで運動しても、本来の問題は薄れ、隠されるばかりだと思います。

私のような田舎者から、この問題を考えると、違和感の強い点がいくつかあります。まず、初めに書いたように、神宮外苑の樹木を「森」と感じる点です。田舎には、自然を利用した公園があり、ここでの樹木は「森」と呼ぶにふさわしい規模です。しかし、外苑は、どう見ても森には見えず、市街地の少し規模の大きな公園の樹木にしか見えません。このような市街地公園に植えられている樹木を「森」とは呼びません。そして、公園の樹木であれば、伐採、植林は当たり前であり、倒木しそうな樹木は、危険なので伐採し、代わりに新しい樹木を植え替えるというのは、よく見かける光景です。次に気になるのは、東京に「森」を求める気持ちです。地方都市でも一等地に森はそれほど多くはありません。神社の森がせいぜいでしょう。そして、東京には、神社の森は比較的多く、神宮内苑は、十分な大きさです。さらに、外苑にも「森」を要求することは、贅沢すぎであり、我が儘に感じてしまいます。東京なのだから、緑が少なくて当たりまえであり、そんなに緑が欲しいなら田舎に住めば、と思ってしまいます。だからと言って、東京に緑は不要と言っているのではありません。ただ、内苑に十分な森があるのに、神宮外苑にそこまでこだわるのは不思議であり、工事で失われた樹木は、工事後に復活するという状況に反対する意味が理解できません。100年間手付かずの自然が欲しいのであれば、やはり田舎に移住することをお勧めします。有り余る緑の中で都会の人が暮らすと、ノイローゼになり、緑はもうたくさんと言って、都会に逃げ帰る人もいるといます。本来「森」は怖いものであり、癒しはほんの一部分でしかないことがわかると思います。

神宮外苑から森が消えるという主張は、大きなミスリードであり、活動家のプロパガンダであり、その扇動に乗ったものだと思います。そして、東京に森を求めるのは、贅沢すぎる要求であり、田舎者からすれば、我が儘に写ってしまいます。「綺麗になって、緑も増えるし、東京なんだから、高層ビルぐらいたってもいいんじゃないの」というのが、田舎者の私の本音です。