日本のことば | Tempo rubato

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アニメーター・演出家 平松禎史のブログ

 

ここ数年、「古事記」についていろいろと調べていました。

 

例によって趣味と実益といいますか、作品作りと無関係ではありません。

実る時があるのかまったくわかりませんが、古くて新しいことを知っていくのは楽しいものです。

 

 

「古事記」と言えば「日本書紀」と同時期に編纂されたとされる日本で初めての歴史書で、数々の神話が収められた日本文化の基礎と言えるものです。

長いことそんなイメージで捉えていたのですが、一石を投じたのは岡田英弘氏の著書でした。

 

岡田氏は「古事記」を偽書であると断じています。

 

その理由は、太安万侶の子孫が平安期に先祖の名誉のためという個人的な理由で編んだもので歴史書とは言い難い、つまり偽書である、ということ。

 

これは聖徳太子不在説のようなものだろうか?と驚きました。

 

その後、紆余曲折を経て、三浦佑之氏の「現代語訳 古事記」と「古事記講義」を読みました。

三浦氏の著作には惹かれるものがありまして、これの他、編者としてまとめた「古事記を読む」(他の執筆者は関和彦、岡部隆志、平林章仁など)や、「古事記再発見」、関連して「昔話にみる悪と欲望-継子・少年英雄・隣のじい-」などを読んでいます。(現在読書中含む)

 

 

三浦氏は、政治的見解を慎重に避けながら「古事記」をこのように位置づけています。(ボクの意訳です。)

 

「日本書紀」編纂を命じた天武天皇の時代以前から

口伝による逸話や神話、当時の書式による文書が存在した。

それをまとめて序文をつけたのが「古事記」で、

書物としてまとめられたのは平安期のことだろう。

 

 

岡田英弘氏は歴史家として偽書と評価していますが、三浦氏は文学の見地から、国家的な事業としての編纂ではない口伝を中心とした日本古来の文化をまとめたものが「古事記」なのではないか、と考えているのだろうと思われます。

序文をふくめた書物化は平安期だとしても、おさめられた逸話や神話は七世紀より前にさかのぼるものだ、と。

この考え方には賛同できました。

 

聖徳太子不在説というのは、単に「いなかった」ということではなくて、聖徳太子の事績と言われているものは複数の人物によるもので、後年、聖徳太子という人物を設定して(あるいはそのうちの一人を代表として)事績としてまとめた、ということだと理解しています。

「古事記」が「日本書紀」より後にまとめられたとして、あつかわれている逸話・神話が否定されるものではないのと同様、事績はおおむね史実だろうと思います。

 

国家事業として作られた「日本書紀」と各国の風土記

その思惑とは別に存在した「古事記」。

 

両者の比較はとても興味深いものです。

 

「日本書紀」が国家建設、つまり白村江の戦いに敗れ、大陸の文字文化を積極導入し律令や戸籍を輸入し、天子に代わる天皇を中心とする国づくりを肯定するものにしぼられているのに対して、「古事記」には国家の枠を外れたもの、天皇の威厳を示すにはいささ不都合な逸話までも収録されていることなど、もっと前(天皇が記される前)の時代から政治的思惑とは別に生まれているものだということが、両氏の主張から浮かび上がりました。

 

そこから導かれるのは「古事記」を国家の概念や政治の方向性で論じることはその出自、性格にそぐわないのでないか、ということ。

 

たとえば、本居宣長のように…といえば当たらないかもしれないが…そこかから明治維新という革命に活用されたことを軸とし日本文化の基礎と見ることは、「古事記」への理解を歪めているのではないか、ということも浮かび上がってきます。

 

『舟を編む』

「古事記講義」などの著者三浦佑之氏は『舟を編む』の三浦しをんさんのお父様だとあとで知り驚きました。

ネタバレになりそうなんで書きませんが、お父様の基本的なお考えとの関連で「なるほど!」と腑に落ちるものがありました。

世代を超えて継承されているのだなと胸に迫るものがありまして、かなり時間をかけてしまいましたがズシリと重みのある仕事になりました。

 

『舟を編む』の仕事を機に、これまでネットに頼ってた辞書検索を改めて、中型辞書を買いました。

いくつか調べて「大辞林」を。
「あ」から「ん」の辞書部分だけで二七五四ページ、厚みは7.5センチほどあります。
片手で持ち上げるにはちょっとコツを要する重みです。

 

物語の中で登場人物が辞書を手にとる場面が何度も出てきます。

同じような辞書で実際にその重みや手触りを感じなければ正確な描写ができないと思ったのも買った理由です。

 

『舟を編む』の制作スタジオには数社の中型辞書やまるでコンクリブロックのような大型辞書もそろえられていました。

 

変化と継承

ことばの問題に関連して読んだ本は、以前もブログで書いた高島俊男氏の「漢字と日本人」があります。

いまは、氏の旧著から「お言葉ですが…」のシリーズを買ってポチポチ読んでいます。


軽めのエッセイ集ですが、これはおもしろいですよ。

ことばに対する先入観がはがれ落ちます。

 

まず、漢字をたくさん使えば頭良さそうに見える、というイメージがガラガラと崩れます。

 

やまとことばにはそもそも漢字はありません。

日本語は元々声であらわす言語で文字を持たなかったからです。

漢語を輸入して漢字に当てはめていったところから日本語は変質していった。

やまとことばが停止したのです。

その代わり「かな・カナ」が発明されました。

 

声であらわすことを基準にすれば、

漢字を使わないと意味がわからないことば以外は「かな・カナ」で表現すれば十分なのです。

 

「日本語の乱れ」なんてものは見方次第で千数百年前からあったと言えるわけですね。

特に、明治時代に作られた何万という熟語は多くの同音異義語を生み出してしまい、漢字を見なければ意味がわからないという不都合が生じてしまいました。

声であらわす日本語の基本からすれば「乱れ」です。

 

一方で、熟語の開発で科学や医学、哲学など外来文化を日本語で思考することが可能になった利点がありますが、事程左様にものごとには「功・罪」があるものなんですよね。

 

ですから、若い人が日本語を開発していくことをいちいちとがめないほうが良いのかな?なんて思います。

 

しかしながら、そこには守らないといけない境界があると思います。

 

英語化も避けられないのでしょうが、唯々諾々と流されて良いはずはありません。

日本文化とは何か、その基準、はじまりまでさかのぼり、先人の経験を学び、取り入れて良いもの良くないものの判断の手がかりにする必要があるでしょう。

 

しかして、基準ってどこにあるんでしょう?

「こうだ」と言えることってあるんでしょうか?

 

ボクにはわかりません。

 

だからこそ、学ぶんです。

 

 

『三橋貴明の「新」日本経済新聞』

http://www.mitsuhashitakaaki.net/

…への寄稿を一部改訂して再掲しました。

 


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