アルバム「J・BOY」収録。
「8月という月は日本人にとって特別な月だと、そんな風に思ってます。
人の人生とか、死とか、戦争とか平和とか、そういった事を考える、
そんな特別な月だと思います。」
(スカパーViewsic 『SHOGO HAMADA STILL ON THE ROAD vol2. LET SUMMER ROCK!'99・ HIROSHIMA』より)
この曲が省吾さんの数多いプロテスト・ソングの中で異彩を放つのは、
被害者でもあり加害者でもあるという視点に立っているから。
僕ら、広島に育ってるでしょう?
広島ってマツダの東洋工業があるんです。
人工の60%ぐらいは、その自動車産業に携わっているんですよ。
そして車はどんどんアメリカや東南アジアに輸出されるわけですね。
で、広島でしょう。
原水禁とか原水協というのがあって、毎年8月6日に広島の祈念式典をやると、いつもグシャグシャになるんです。
必ず被害者の立場で原爆を落とされた記念の街、
広島から世界に平和を訴えようと。
それは悪いことじゃないけど、
なんか凄く違う視点で僕は育ってきたんです。
それは「八月の歌」1曲にしか出てこないんだけど。
僕の中では、ある種の核になってます。
あの歌の主人公は、ほとんどの人のイメージは、
若い整備士のようなイメージでしょうけど、違うんですよ。
僕の中では親父と同じくらいの年老いた整備士なんです。
それで、自分達が戦後がむしゃらに働いてきてやってきたことは、
何だったんだろう?っというものなんです。
(浜田省吾事典アルバム解説より)
(アルバム)「J.BOY」の中の「J.BOY」とか「AMERICA」であるとか「八月の歌」であるとかっていうのは、
「J.BOY」の「J」=JAPAN、日本っていうものをクローズ・アップして作った方の歌ですね。
戦後の日本。それがその後の「FATHER'S SON」に繋がっていくんだけど。
いつもずっと子供の頃から感じていたことー原爆記念日が来るたびに、広島が騒がしくなってーいつも被害者の立場から戦争を語る事への疑問みたいなものについて歌いたかった。
それは僕らの大きなテーマだと。
広島の平和祈念コンサートで歌ったんですが、
あの歌は8月6日に広島で歌うべき歌なんですよね。
その機会が無かっただけで、何処で歌うかっていったら、
まさに8月6日に広島で歌うべき歌だと僕はずっと思っていたんです。
全ての歌がそうではないけれど・・・
作者には、ある歌は必ずこの場でこの人に向かって歌いたいというのが、最初からあるんです。
ラブ・ソングの場合なら、この人の前でこの時に言いたかったけど話せなかったという、はっきりとした場所があるし。
「八月の歌」のような曲は対象となる人は具体的にはいないけど、
歌うべき時と場所があるんですよね。
ソング・ライターっていうのは、
必ずそういうのがどこかにあると思います。
歌というのは非常に個人的なものだからね。
(省吾さん談)
そう考えると前述の「LET SUMMER ROCK!'99」(広島国営備北丘陵公園)で披露されたのは、8月7日と一日違いとはいえ、
歌うべき時、歌うべき場所だったに違いない。
後に歌詩集「ソングライターの旅」に収録された際には、
「八月の歌 1974」とタイトルが変更された。
これは1974年に当時の首相田中角栄がアジアを訪問した時に、
インドネシアで反日の暴動が起こったこと(マラリ事件)を背景にした歌であるという事を明確にする為の変更だそうである。