さようならHONDA F1 (その1) | F1っぅ放送作家 高桐 唯詩のブログ

F1っぅ放送作家 高桐 唯詩のブログ

70年代から業界で働き、F1総集編26年。ル・マン、パリ~ダカ、ツール・ド・フランスなど冒険好き。現場経験多数。基本は詩人だがレース関係が長いので、クルマ関係者だと思われている。
ちょっとおしゃれで、インテリジェントな、時々泣ける話を目指します。

10月2日に本田技研工業がF1活動の終了を発表してから3週余り過ぎた。オートスポーツやF1速報。他のメディアでもさまざまな人々の意見が発表されていたが、私は私なりの見解がある。
病気療養中で雑誌には相手にしてもらえないので、この私的ブログで意見を述べておきたい。

 

 

        【HONDA依存症から、さよなら】


日本人だけとは言わないが、日本人は何かに依存していないと生きられない。縄文時代なら酋長に依存。弥生から米作が始まると、長く米の取れ高に依存。戦国時代、武士は一升飯を食べて走った。まさにコメ依存。
江戸時代は徳川幕府と城主に依存。明治から昭和20年までは天皇及び軍隊に依存。
戦後は終身雇用の会社依存と軍事的にはアメリカ依存だ。

 

さて、話はHONDAが2021年でF1活動を終了する。(撤退、休止ではなく終了)に関して、多くの先輩諸氏がコメントを寄せているので私も表明しようと、つらつら考えるに、およそF1に関しては1964年の第一期以来、HONDAの専売特許のようなものであり、その頃は福井前社長くらいの年かさの青年たちが魅了され憧れて入社した。

1983年からの第2期は団塊世代の技術者たちが活躍し、セナ、プロスト、マンセルなど役者も多く、(ユーザーとしての)大衆も拍手喝采。私なども大いに仕事をし、楽しませていただいた。


第1期、第2期のHONDAの活躍で「F1イコールHONDAの構図」は完成し、日本人の脳裏に完全に刷り込まれた。


「F1をやりたいからHONDAに入った」「F1をやっているからHONDAが好き」みんながHONDAに恋した良き時代である。

 

           (川本さんと第一次F1)

 

     (セナのおかげもありHONDA F1は大いに盛り上がった)

 

やがて2000年からの第3期が始まり、かなりの迷走があり、2009年にブラウンGPとなって消滅、
2015年再びマクラーレンと組んでやり直し、現在に至ったわけだが、
日本においては、「HONDAはF1を続けるもの」と刷り込まれているから、およそF1に関して日本人は「HONDA依存症」であり、株主でもユーザーでもないのに、「HONDAはけしからん」「どうして辞めるんだ」と非難ごうごうになってしまう。

 

本田技研がF1をやるかやめるかは会社の都合であって、一度も辞めず続けるべきというのはどうであろう。
カーボン・ニュートラルは並大抵の技術では達成できないから、F1とは両立できない。それがHONDAの都合であり、
企業として生き残るために、F1から去ることを選んだ。

 

F1のパドックにHONDA Racingの旗がないのは寂しい。が、HONDAだけに「勝利と、日本人ドライバーの育成と、日本のプライド」をお仕着せて、「俺は許さん」「世間は黙っていない」というのはやめにしたいと私は思う。

 


F1は一部分アメリカ流の投資とリターンの時代になり、かつての伝統は失われつつある。

次世代のF1はどうすればいいのか?F1をもっと魅力的にするには日本人はどうふるまうか?
FIAに要人を送り込めず、取り締まりばかりの官僚機構にも大いに問題はあるが、HONDAがいなくなってもF1に切り込んでいく「そういう人や社会を醸成してこなかった国ニッポン」のままでは、モーターレーシングを作っていく立場になりえない。楽しみを味わえない。名誉ある地位にも立てない。
いつまでも大人の国になれないような気がする。私の考え方は間違っているのだろうか?
HONDA依存症から脱して、HONDAが居なくても、日本人が活躍できるF1の領域を考えなくてはならない。

もう手遅れなのか?いやそうではない。次の世代の人々が、もう一度考えるべきことだろう。

 

   

             (片山右京はHONDAに頼らずF1にたどり着いた)

 

 

一方、ここに出してきたのは日本のF1の先達といえる森脇基恭さん著による「世界一の考え方」である。2014年頃F1速報に連載され、私が森脇さんのコメントを取材しつつ、リライト作業したので、森脇さんの頭脳と、私の頭脳を通過した文章でまとめられている。

 

              (この本は勉強になります)

 

この本に描かれているのは、F1に参加している人間は各分野で「世界一」になりたくて闘っている。
ということで、ドライバーも世界一を目指す。技術者も世界一のタイトルを目指す。
もしかするとビジネスマンも世界一を目指し、PRなどの分野でも世界一を目指すという世界なのだ。
世界一の座を目指すことで、ドライバーは磨かれ、技術はより進化し、その結果、より良い製品が生まれ、人類の幸福に寄与する。

 

だからF1で働きたかったら、勉強しなさい。自分を律して頑張りなさい。理想を追い求めなさい。
そう訴えかけた本であるが、今回のHONDAのF1終了は「なんだかなぁ~。ちっちゃいな~」という印象をまざまざと感じることも事実である。

 

森脇さんは、レースがやりたくて本田技研に就職し、第一次F1でHONDAが撤退すると、「レースが出来ないのなら会社を辞める」と言って、イギリスのレース会社に転職した筋金入りの技術者である。

 

まさにサムライ。その生き方は今も変わっていない。厳しい世界に身を置いて、自分を律する。こういう生き方を学べるのがレースの世界であり、簡単に辞めると言って、厳しさから逃れるのは、私に言わせれば美的な人生とは言わない。「腰砕け」と言いたい。

 

カーボン・ニュートラル達成のため、F1を止める大義名分が正しいか、間違いか?それは今すぐはわからない。50年後にわかることなのかもしれない。

 

最後になるがまとめておこう。

 

私たちはF1に関して、これ以上のHONDA依存はやめて、自由なF1を考えよう。さらばHONDA F1 ありがとう。

 

その上で、世界一を目指す仕事とは何なのか? より研ぎ澄まされた頭で考えよう。

 

 

長いF1放送作家生活だからまだ続編が書けそう。

また近いうちにね。

 

じゃあまた。

 

バイバイ。