私の作家人生に、大きな影響を与えた人物の一人として、有名な脚本家市川森一さんの名前をあげねばならない。市川先生についても今回、まさに初めて書くことになる。
(上海にて中国の作家と・・。私は二日酔いのようである)
1999年(平成11年)6月偉大な脚本家岩間芳樹先生が急逝された。当時、日本放送作家協会の理事であった私は、茫然としてしまったが、2000年になると周囲の推薦もあり、市川森一さんが理事になられ、選挙の結果、理事長の職を継いでくださった。
そういう放送作家の「組織としての話」はともかく、まずは経歴を紹介すると、
市川 森一(いちかわ しんいち)1941年(昭和16年)4月17日 ~ 2011年(平成23年)12月10日。日本の脚本家、劇作家、小説家、コメンテーター。日本放送作家協会の会長を務めた。長崎県諫早市出身。
代表作は『傷だらけの天使』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『コメットさん』『露玉の首飾り』『傷だらけの天使』『黄金の日日』『淋しいのはお前だけじゃない』『風の盆から』 など多数。
(今やブームの足立区。市民講座での講演)
とにかく脚本家としては、ものすごい数のTVドラマを書かれた。。
悲しい話だが英国あたりでは「映画シナリオを3本書けば立派な家が建つ」と言われるが、日本では書いても書いても、ギャラが限られているから、悠々自適というわけにはいかない。
それこそ一生書いていないと、いけないのである。市川先生は、ともかく多作の人であった。
私が身近に接するようになった頃も「おいね 父の名はシーボルト」「風の盆から」「精霊流し」小説「蝶々さん」などを発表している。
それでいて大家ぶったところが全くなく、気さくで、良い兄貴分として接していただいた。
市川さんはデビューが「快獣ブースカ」である。そういう子供向け番組がスタートであったことを、隠すどころか、誇りにされていて、ブースカのおもちゃが自宅に飾ってあった。
私がその頃感じていた印象を言うと、敬虔なキリスト者としての自戒を持った人であり、その一方でちょっとエッチなギャグも言うおじさんでもあり、多弁なおばさんぽいところもあった。
ザ・ワイドという日テレのワイドショーで派手なミッソーニのセーターを着て、コメントしていたから、ミッソーニの似合うおじさんでもあった。
(2006年釜山での船上パーティーで挨拶される市川森一先生)
長崎県諫早の出身で、地元長崎の広報大使みたいな役割も引き受けられていたので、週に一度は飛行機に乗り長崎に行っていたし、実際諫早の市民講座などもやられ、私もご指名を受け講師に出かけたりした。
組織としての日本放送作家協会においては、私はさまざまな企画を実行・推進する係だった。市川先生は自分のネームバリューを活かし、行政などに働きかけて、足立区の市民講座や、放送台本の図書館(現在で言う、日本脚本コンソーシアムの実現)に努力された。
そして2006年ころから、日本と韓国、中国の脚本家が、年に一度集まり意見を交わす「東アジアドラマ作家会議」を運営、推進していく事業にも乗り出した。
ちょうど「冬のソナタ」が大ブームで、「チャングムの誓い」がヒットし始めていたころであり、韓国の放送作家協会とは常に交流していた。また韓国に国際文化交流の財団があって積極的に様々なイベントを仕掛けてくれた。
(2004年頃、ソウルから韓国各地へ)
私は皆さんとご一緒に、ソウルに出かけ、釜山に出かけ、またある年は市川さんや中園ミホさんなどと上海に出かけた。
2008年には日本が主催する形で長崎ハウステンボスに中韓の作家を招いて、大がかりな発表会を催した。
込み入った話がある時には、市川先生のお宅にお邪魔し、二人で話し合い、よく会議をした。
偶然だが、市川ご夫妻と私は美容師さんが同じで、広尾の美容室でもよくお会いした。
そうして親密になっていくのだが、仕事面、すなわち「何をどう書くか」などについてご教授願うということは全くない。お互いが独立独歩の物書きだから、そこは干渉しない。
ただ、ボランティアばかりやっていて、仕事が減ってきたため愚痴を言うと、市川先生は、「私といえど、仕事が減ることはしょっちゅうだ。武士は食わねど高楊枝。突っ張ってじっと待つしかないのです」
とメールで書いてこられた。
そういった個人的な逆境もあれば、組織の中での逆境もままあったが、市川先生は常に励まし応援していただいた。
私自身は2008年をもって放送作家協会の理事を辞したが、それから間もない2011年の暮れに市川先生は急逝されてしまった。70歳だった。またしても大ショックだが、私は当時やや健康を害していて、
青山で行われたご葬儀には出席しなかった。
あのころからもう8年とか10年とか、ひと昔が過ぎた。
岩間芳樹先生、市川森一先生。お二人の先達には「芯の強い人間であれ」というもの書きとしての心を教わったと、私は私なりに理解している。
私は「モータリングの世界」でも、書いているから、クルマやレース専門家のように思われているが、願いとしては「神羅万象の世界」で勝負したい。と思っている。
もう遅いとは思わない。
自分が旨く熟成した時に、美味しいストーリーを紡ぐことができればいい。
お二人の享年を越えつつあるけれど、まだまだ修行は足りていないのである。
精神的にはまだまだ幼く、忙しい。
i市川先生の写真はもっとたくさんあったが、時期的にフイルムからデジタルに移行した時代であり、PCを新規購入するうちに削除散逸してしまった。残念。残る一部を紹介する。
じゃあまたね。
バイバイ。