夜が明け、次の日。



ホテルを10時にチェックアウトした僕と妹、姪2人の計4名で、母を迎えに行きました。





いずれ退所するであろう施設へ、一体どのような顔で向かえば良いのかと、妹と2人で戸惑いましたが、施設の方々は僕達を笑顔で迎えてくださいました。








母と会うのは、僕が仕事を訳あって休職し、休暇のために帰省していた2017年の3月以来、1年4ヶ月振りでした。




















小学生からパチスロに夢中だった僕を、見守ってくれた母。




中学3年の頃、初めて会う僕の友人に向かって「よぉ!久しぶり!灰皿要るか?」と笑いながら冗談を言う、お茶目な母。




高校2年の時、僕がモスバーガーでアルバイトをしていることを周囲に誇らしげに自慢していた母。




母子家庭で仕事が忙しいにも関わらず、独学で介護福祉士の資格を取った、真面目で勤勉で聡明な母。




傷付きやすく、ホームヘルパーの利用者の突然の死を、いつも悲しんでいた優しい母。




並んで大海物語2を打ち、魚群にチャンスボタン連打で興奮する母。




こんな息子の上京を応援し、家を出る日に涙を堪えながら見送ってくれた母。



























あの頃の母の面影は、どこにもありませんでした。



2017年の休職の際、下の妹に母と食事に行くことを話すと「もう昔のお母さんちゃうで」と言われ、実際に会ったときのことは、一生忘れられません。














髪は殆ど白髪で、痩せ細り、手すりがないと階段を登れないほど筋力が低下し、ヨタヨタと歩く母。



呂律が回らず、話しにくそうなのに、強がるように話す声。



とても1964年生まれの人には見えませんでした。















「よぉ、久しぶり。」





でも、聞こえてきたその声は、間違いなく僕を産んでくれた母の声でした。













それからも僕は、何も変わらず現実から目を背け、ギャンブルをし続けていました。



母の歩き方も呂律も2年前と変わりませんが、少し明るくなったような印象を受けました。









関東と関西。



なかなか会えない孫との再会を、本当に喜んでくれていました。



妹を誘って良かった、と思いました。








そして、新しく住む候補となっている施設(マンションの一室)へと向かい、母を見てくださっているケースワーカーさん、施設の担当の方と会って挨拶を交わし、引っ越すための説明を受けました。



今までと違い、マンションの一室での生活となるため、これまでの集団生活から解放される、とのことでした。







未来の生活を想像したのか、和室を眺める母の目はとても嬉しそうで、施設内のルールを説明される度にメモを取る姿が印象的でした。





今回はあくまで下見ということでしたが、母は「ここに決めたい」というようなことを言っていたと思います。





担当の方と話をして「とりあえずは2泊ほど体験入所してみましょう。」ということになりました。















そこで僕は、引っ越すにはお金がかかることを知らされました。



そして、それを「身元引き受け人」である僕が負担することになっている、ということも。











僕も一人暮らしをする身。




今思えば、お金がかかるのはごく当たり前のことです。



少し考えればわかったはずでした。









先方の話を聞きながら計算したところ、先払いの家賃2ヶ月分と引っ越し業者に頼む荷物の運搬費用の合計で、おおよそ14万円ほどかかることになりそうでした。















正直、何も考えずに大阪まで来ていました。



ただ、母が引っ越す新しい施設をいっしょに見て、後はケースワーカーさんや、担当の方、お金は生活保護費に任せれば良いんだ、という甘い考えでいました。










消費者金融の限度額を思い出し、金策を頭の中で巡らせながら、母を連れてファミレスに向かい、皆で昼食を摂りました。



母も妹も姪っ子達も、久々の再会と団欒を楽しんでいました。














僕は手元で舟券を買っていました。








お金が必要だ、と思いました。


なんとかしなくては、と思いました。












大丈夫。昨日のレースは全部見たから、エンジンとか傾向はだいたいわかってる。絶対勝てる。






しかし皆の前で、母の前で、この場で「ギャンブルしている」とは口が裂けても言えず、仕事の連絡だ、と嘘をつきました。








そして、35,000円負けました。




昨日の勢いはどこにもなく、ほぼストレート負けでした。






昨日の勝ちが吹き飛び、一気にマイナス域に転落しました。






そんな中、「普段何もできないから」と自嘲気味に、ファミレスでの飲食費用を強引に出そうとする母。








その数千円が、母にとってどれだけ大金なのか。






元気な母、おばあちゃんを精一杯している姿から、どこか強がっているような、見栄を張っているような雰囲気を感じ、居た堪れなくなりました。



ふと「あぁ、僕はこの人の子や」と思いました。



そして、母をこの状況へ追いやったのは誰なのか、を考えてしまい、複雑でした。











食事の後、母を施設に送り、和歌山へと移動し、ホテルに荷物をおきました。



夜は父と下の妹と合流し、夕飯を共にしました。








当時の写真がスマートフォンに残っていますが、絶望を隠し、死んだ目をして笑っている僕が写っていました。



その夜、父や家族とどんな話をしたのか、覚えていません。












ホテルに帰り、妹達と別れました。



時刻は21時半くらいだったと思います。









僕は踵を返すようにして、ホテルから出ました。











「1時間弱あれば、少しは取り返せる!」





なんの根拠もなくそう考えました。



小雨の降る中を駆け足で急ぎ、マルハンでディスクアップを打って、3千円くらい負けました。













パチスロを創るために故郷を離れた僕が、最後にパチスロに触れた地がその故郷になるとは、なんとも皮肉なことです。
















大丈夫、まだ明日がある。





まだ、そう考えていました。




明日はSG「オーシャンカップ」3日目。




帰りの車の中で、舟券は堂々と買える。






2日分のデータを詰め込んだ僕には、今日までの負けを取り返せる根拠のない自信がありました。




↓続き↓