アニ・トレ! -123ページ目

「ありがとうキハ181系」号の旅、本日予約!

 昨年11月6日に特急はまかぜの運用から引退し、12月23日には臨時特急かにカニはまかぜの運用からも引退したキハ181系が、日本旅行のツアー専用列車として2月26日~27日、京都~米子間を走ります。


「ありがとうキハ181系」号 山陰本線 京都←→米子の旅

 本日15時に、このツアーの販売が開始されたため、僕も日本旅行の予約センターに電話して、無事予約することができましたo(^▽^)o


 途中で、撮影や休憩のために停車してくれるとのこと。

 「はまかぜ」も「かにカニはまかぜ」も乗りましたが、やはりキハ181系が走るとなると、国鉄型車両が走るとなると、やっぱり何度も乗りたくなるのです。


 3月のダイヤ改正で、他にも廃止される特急などがあるから、他にも乗りに、撮りに行かないと!

 いえ、もちろんこれまで何度も乗っている電車もあるんですが、廃止されるとなると、再び乗りたくなってしまうんですよ。

 2月~3月の休日は、また忙しくなるなぁ(;^_^A


 ※詳しくはこちら http://www.nta.co.jp/kansai/kokunai/pdf/jr_tour/kiha181.pdf

489系ボンネット急行能登


アニ・トレ!-急行能登①


 2010年3月のダイヤ改正で廃止された489系ボンネット型の急行能登です。

 上野~金沢間を結ぶ急行で、この路線には新幹線がまだ通っていないし直通の昼行特急がないため、まだまだ存続すると思っていたんですが、昨年3月に臨時列車化されてしまいました。

 しかも、ボンネット型の金沢車から新潟車の485系月光型に変更。

 全国で、ボンネット車が活躍する唯一の定期列車だったので、残念でなりません。


アニ・トレ!-能登ヘッドマーク
 この電車と寝台特急北陸のラストランは、どちらも日本旅行でツアーが企画されましたが、発売されると同時に完売。

 また、みどりの窓口へ何度も通いましたが、結局チケットを取ることができず、ラストランには乗車できませんでした。(T_T)


 もっとも、そうなることは予想してましたので、急行能登については1月に乗車しようと東京まで青春18きっぷで向かいました。

 ところが!・・・東京に着いた僕を待ち受けていたのは、急行能登も寝台特急北陸も運休というお知らせ!(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)


アニ・トレ!-能登方向幕
 実は、昨年のこの時期、北陸方面は大雪だったんですよ。

 で、急行能登は寝台特急北陸とともに運休。

 僕は、きっぷを払い戻しして関西に帰るしかありませんでした。

・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。


 しかし、こんなことではあきらめません!雨男の僕は、過去にこんなことを何度も経験しているのです!

 青春18きっぷが使えるうちにと、数日後再び上京!

 リベンジでは無事乗車することができました。


アニ・トレ!-能登、撮影失敗
 ところで、この電車と寝台特急北陸はカメラマン泣かせでしてね、上り下りとも始発駅を22時以降に出発して6時半までに終着駅に到着するため、走行写真は夏場しか写せないんです(>_<)

 ちなみに、無理矢理写すと・・・右のように大失敗(フィルムカメラです)


 寝台特急など、主な列車が廃止されるときは、大体前もって噂が立つものなんですが、能登と北陸に関しては意表を突かれました。

 もし、半年以上前に聞いていれば、夏のうちに撮影したんですが・・・。


 急行能登は、上野駅の16番線に入線。

 このホームには、急行券(特急券)を確認する改札があるため、乗る人だけが間近で撮影できたんですね。

 1号車は女性専用の指定席(レディースカー)。2~3号車が指定席で、4号車がグリーン車。5~9号車が自由席(5号車は指定席になる日もある・・・らしい)。9両編成で運転されていました。


 僕は指定席に乗ったんですが、まだ1月ということもあってか、空いていました。

 それでも高崎までは乗降客がいて、車内に動きがありましたね。


 高崎を出発すると、次は直江津まで営業停車がないので、本格的に寝込みに入るんですが、この電車は消灯しないので目隠しが必須。

 僕は、目隠し・耳栓・ブランケット・首枕を準備して乗り込んだわけですが、やはり座席車ですので眠りは浅かったですね。

 途中、長岡で進行方向が逆になるので座席を反転させてもう一度寝込み直しました。

 もっとも、この時点でぐっすり寝ている人は、座席を反転することもなくそのまま寝てるわけですけどねw


アニ・トレ!-急行能登②
 金沢駅に着いたあとは、しばらくホームに電車が止まっているので、短時間ながら撮影タイム。

 先に到着した寝台特急北陸も停車していたんですが、到着する番線が離れているため、ツーショットは撮れませんでした(>_<)


 今や定期列車で見ることができなくなったボンネット型の489系。

 名列車が次々に去っていくここ数年のJR列車事情には寂しさを感じてしまいます。


 さて、写真です。

 一番上~3番目は、2010年1月19日、JR上野駅で撮影。

 4番目、失敗作は2010年3月1日、JR西川口駅で撮影。

 5番目、2010年1月20日、JR金沢駅で撮影。


 それでは、僕が乗車した2010年1月19日に運転された下り急行能登の編成表を掲載します。


●2010年1月19日の、下り急行能登の編成表

↑上野、金沢

1号車 クハ489-505   指定席(レディースカー)

2号車 モハ488-215   指定席

3号車 モハ489-30    指定席

4号車 サロ489-25    グリーン車

5号車 モハ488-205   自由席

6号車 モハ489-20    自由席+ラウンジ

7号車 モハ488-13    自由席

8号車 モハ489-13    自由席

9号車 クハ489-5     自由席

↓長岡


※9号車を先頭にして上野を出発しますが、長岡で進行方向が逆になるため、長岡→金沢間は1号車が先頭にかわります。





阪神淡路大震災から16年

 1月17日。阪神・淡路大震災から16年が立ちました。

 もうそんなに立ったんだなぁと不思議に思うほど、記憶が鮮明に残っています。


 実は、あまり知られていないことですが、1月16日の夕方6時台だったかな?予兆とも思える小さな地震があったんです。

 ゴゴゴ・・・という地鳴りのあとに、下からドン!と突き上げるような縦揺れでした。

 そのとき、テレビの地震速報はありませんでした。

 「小さな地震だったからかな?」とも思ったんですが、今まで地鳴りを伴う地震を経験したことがなかったため、「変な地震だったなぁ」って親と話していたんです。


 --- ◇ ---


 1月17日、午前5時46分。僕はまだ寝ていました。

 そこへ、ゴ・ゴ・ゴ・ゴ・ゴ・ゴ!!という地鳴り!寝ていても気が付くほど大きな音(震動)だったんです。

 次の瞬間、ドーン!!と下から突き上げる縦揺れがきて、僕は飛び起きたんですが、そのあとは縦に横に、まるでオフロードカーに乗せられているような感じで立つことができませんでした!


 ただ、このとき、神戸にはあまり大きな地震が無く、当時は一種の「安全神話」が広まっていたため、「すぐに揺れは収まるだろう」となめていました。

 ところが、揺れはますます強まり棚の上の物は次々に落ち、台所からはガシャガシャガシャーン!!と食器の落ちる音が聞こえてきたものですから、「これは大変なことになるぞ!」と青ざめました!


 僕の横にあった収納ラックも倒れそうだったので、布団を頭にかぶり、座ったままラックを手で押さえたんです。

 隣の部屋に寝ている親に向かって、「布団をかぶって!」と大声を上げたのを覚えています。


 実は、僕、真っ暗にすると寝られない性格なので、いつもナツメ球を点けて寝ており、周りの状況が見えていたので覚えているんですよ。

 しかし、揺れが続くうちに停電となり、目の前は真っ暗!!

 こうなると、下手に動く方が危ないです。

 僕は、「大丈夫?」とか「わぁ!」とか大声を上げ続けました。

 そうすれば、とりあえず隣の部屋にいる親に、自分が無事でいることを知らせることができると思いましたので・・・。


 どれくらい揺れが続いたのか・・・僕にはすごく長い時間揺れている感じがしました。

 ようやく本震が収まった頃、親から「大丈夫か?」という声が聞こえてきたので、返事をしたんですが、真っ暗だったのでお互いに動くことができません。


 でも、このとき僕は枕元に懐中電灯と殺虫剤をおいて寝るクセがあったんです。

 というのも、古い家なのでね、夏の夜になると「黒光りする虫」が出てくるんですよ。

 で、以前僕は寝ているときに顔の上を這われたことがあるため、それ以来懐中電灯と殺虫剤を、いつも枕元において寝るようになったんです。

 今回は、それが功を奏しましたw


 僕は懐中電灯を点けて着る物を着てスリッパを履き、家族の安否を確認して、とりあえず一つの部屋に集まりました。

 幸い、家族全員が怪我一つ負っていませんでした。


 ラジオで情報を確認。

 蛇口をひねりましたが、水はほとんど出ず、しかも土色に濁ってました。

 近くに住んでいた母方の祖母にもうちに来てもらって、明るくなるのを待つことにしました。


 で、そのとき外に出てみると、南の空が赤く染まっていたんです。あとで分かったことですが、上沢から長田で大火事が起こっていたんですね。

 僕の家の周りに火の手はなかったんですが、ガス臭い臭いがしたので、公衆電話の緊急連絡ボタンで消防署に連絡しようとしました。

 と言っても、なかなかつながらない。

 何度も何度も試して、ようやくつながったと思ったら、消防署も手に負えない状況になっており、返ってくる言葉は、「ガス本管の供給は止まっています。管の中に残っているガスが漏れていると思うので、くれぐれも火を使わないようにしてください。」という言葉だけでした。


 また、外はまだ薄暗く、余震が続いていましたが、時間がたつにつれて近所の人も外の様子を見ようと出てきていたんですよ。

 僕も、親しい人と話をすると、その方はすでに避難所の学校を見てきたらしく、「学校はすでにいっぱいで入れなかったので戻ってきた。」と話されました。


 幸い、僕の家の周りでは全倒壊した家が無く、火事もありませんでしたので、家にいることにしました。


 で、外が明るくなってきた7時頃、早速片付けを始めました。

 ・・・いえ、正確に言うと、体を動かしていないと不安で仕方がなかったんです。

 依然として続く余震。鳴り続ける緊急車両のサイレン。ラジオからも断片的な情報しか入ってこない。完全に頭はハイになってました。


 で、8時を過ぎた頃・・・電気が点きました!

 実は、僕が住んでいる地域、市街地なんですが、結構北の方にあるので配電ルートが神戸市北区からも確保されていたそうです。

 そのため、テレビでは「市街地は全域停電」と報道されていたんですが、僕のいた地域ではその日から電気が復旧しました。

 水は、少し離れたところに清水が湧く場所があったので、そこを利用。

 そういう意味では、とても恵まれた環境だったと言えます。


 その日は、時間がたつのも忘れて片付けに明け暮れました。落ちた瓦を整理したり、屋根に登ってブルーシートを張ったり。

 時間になったら出勤するなんて考えは、これっぽっちも出てきませんでした。


 職場に行ったのは、明くる日の1月18日。

 公共の交通機関は動いてませんから、自転車で行ったんですが、町中はほんとにひどいものでした。職場もぐちゃぐちゃで、片付けないと部屋にも入れない状態。僕を含めて数人しか出勤できない状態でした。


 余震は数週間続いたんですが、僕は初日から3日間、結局一睡もできませんでした。

 余震が怖いのと、横になっても目がぎらぎらして眠くならないんですよ。

 でも、人間ってすごいですね。3日間眠らなくても全然平気だったんですよ、そのときは。

 4日目になると、さすがに体が限界だったのか、夜は眠ることができました。


 この地震の影響は、このあと何年も続いたわけで、僕の家も倒壊は免れたものの、土台と基礎が3センチずれるなど、かなりの被害を受けました。(それでも、被害判定は「一部損壊」でしたが)

 これを直そうとすれば、家全体をやりかえないといけないため、上屋だけを修理し、ずれはそのまま残っています。

 次に同じ規模の地震が起こったら、どうなるか正直分かりません。


 神戸の町は一見復興したように見えます。

 しかし、よく見ると、あちこちに更地ができ、駐車場が増えました。

 また、被災者の中で社会的弱者を中心にして復興住宅に集められたため、地域住民の世代構成がいびつになっている弊害も生まれています。

 町づくりに行政と住民の連携がうまく取れていなかったことが原因でしょう。


 震災対策についてはいろいろ言いたいこともあるんですが、それを書き出すときりがないので・・・

 一言申し上げたいのは、神戸の教訓、その後生かされてますか?ってこと。

 僕は、その後に起こった大災害で、同じ過ちを犯しているように思えてなりません。


 災害を防止するためには、政治と行政の力が大きく作用します。

 他国が攻めてくるかもしれないから防衛に力を!なんて言ってる暇があったら、地震大国かつ台風の通り道であるこの日本で、災害からどう住民の命を守るかを真剣に考えてもらいたい。

 それと同時に、住民それぞれが災害に対する備え、認識を持つことが必要だと感じました。


 僕も、家具を固定したり水や食料を一定量確保したり、地震後はいろいろ考えるようになりました。

 

 今日、午前5時46分に黙祷し、職場では正午に一斉黙祷を行いました。

 1月17日、この日は犠牲者の方を弔う日であると同時に、大災害を防ぐためにはどうすべきかを再び考えさせられる日でもあります。