箴言24章23~34節、詩篇1篇、ヨハネ5章39~47節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

箴言 24:23 これらもまた、賢人の言葉である。裁判でえこひいきをするのは良くない。
 24:24 罪ある者を正しいと宣言するなら すべての民に呪われ、すべての国にののしられる。
 24:25 罪ある者を懲らしめる人は喜ばれる。恵みと祝福がその上にある。
 24:26 正しい答えをする人は、くちづけをする人。
 24:27 外ではあなたの仕事を準備し、畑を整え それから、家を築くがよい。
 24:28 いいかげんに友人の証人となってはならない。自分の唇で惑わされたいのか。
 24:29 「人がわたしにするように わたしもその人に対してしよう。それぞれの行いに応じて報いよう」とは あなたの言うべきことではない。
 24:30 怠け者の畑の傍らを 意志の弱い者のぶどう畑の傍らを、通ってみた。
 24:31 見よ、いらくさが一面に茂り あざみが覆い尽くし、石垣は崩れていた。
 24:32 わたしはそれに心を向け、観察した。それを見て、諭しを得た。
 24:33 「しばらく眠り、しばらくまどろみ 手をこまぬいて、またしばらく横になる。
 24:34 貧乏は盗賊のように 欠乏は盾を取る者のように襲う。」

詩篇 1:1 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
 1:2 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
 1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
 1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
 1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

ヨハネ 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
 5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
 5:41 わたしは、人からの誉れは受けない。
 5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
 5:43 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
 5:44 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
 5:45 わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
 5:46 あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。
 5:47 しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 

 

人が生きていくうえで、何が正しいことであるかということを知り、何を指針としていくかということは、とても重要なことである。

というより、それがなければ、生きていくことすら難しい。

子どもの頃は、親だったり、学校の先生に教えられたことが正しさの基準であったかもしれない。

あるいは、公園で他の子どもたちと一緒に遊ぶ中で、社会のルールのようなものを学んでいたのかもしれない。

そしてそれは、大人になってからも続き、社会に出て、様々なルールやマナー、仕事をする時に必要なことなど、実に様々な「正しさ」を学んでいく。

しかし、時々思う。

本当にそれでいいのか、と。

特に、大人になっていくにつれ、様々な社会のルールを学ぶたびに、それはいったいどこから出てきたものなのか、誰が言い出したことなのかと思うこともある。

いわゆる謎ルールも多い。

本当の正しさって、何だろう。

あるいは、社会の中にそれはあるだろうか。

何を指針として生きていくか、それがブレなければ、私たちの人生もしっかりと地に足をつけた揺るぎないものとなるだろう。

そういう意味では、私は聖書に生きる指針を求めていく。

憐れみ豊かな神ご自身が、こんなちっぽけな私を愛し、生かそうとして、御子イエス様の命をも惜しまず十字架に捧げてくださったから、である。

それほどまでに愛されているのだから、この愛に根差して生きていこう。