列王記上1章28~37節、詩篇119篇129~136節、1コリント4章14~20節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記上 1:28 ダビデ王は答えて、「バト・シェバをここに呼びなさい」と命じた。彼女が進み出て、王の前に立つと、
 1:29 王は誓った。「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。
 1:30 あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしに代わって王座につく、とイスラエルの神、主にかけてあなたに立てた誓いをわたしは今日実行する。」
 1:31 バト・シェバは顔を地に伏せ、王に礼をして、「わが主君、ダビデ王、あなたの命がとこしえに永らえますように」と言った。
 1:32 ダビデ王は、「祭司ツァドク、預言者ナタン、ヨヤダの子ベナヤをここに呼べ」と命じた。彼らが王の前に出ると、
 1:33 王は言った。「お前たちは主君の家臣を率いて、わが子ソロモンをわたしのらばに乗せ、ギホンに下らせよ。
 1:34 祭司ツァドクと預言者ナタンは、そこでソロモンに油を注いで、イスラエルの上に立つ王とせよ。角笛を吹いて『ソロモン王、万歳』と叫び、
 1:35 彼の後に従って上れ。ソロモンは来て、わたしの王座につく。わたしに代わって王となるのは彼であり、イスラエルとユダの上に立つ君主になるようわたしは彼に命じる。」
 1:36 ヨヤダの子ベナヤは王に答えた。「まことに王の神、主もそう仰せになりますように。
 1:37 主は王と共にいてくださいました。またソロモンと共にいてくださいますように。その王座をわが主君、ダビデ王の王座より更に大いなるものにしてくださいますように。」

詩篇 119:129 あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。
 119:130 御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。
 119:131 わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。
 119:132 御顔をわたしに向け、憐れんでください 御名を愛する者への裁きに従って。
 119:133 仰せのとおり わたしの足どりを確かなものにしてください。どのような悪もわたしを支配しませんように。
 119:134 虐げる者からわたしを解き放ってください。わたしはあなたの命令を守ります。
 119:135 御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください。
 119:136 わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。

1コリント 4:14 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。
 4:15 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。
 4:16 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。
 4:17 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。
 4:18 わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。
 4:19 しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。
 4:20 神の国は言葉ではなく力にあるのですから。

 

 

聖書には、実に様々な出来事や言葉が語られているが、それらはすべて、神の御子キリストによる救いのご計画とそれが実現したことについて語られていると言えよう。

旧約聖書に語られていることや、難解な預言の言葉も、神様が人間を救おうとされていることを、時には黙示のような形で、詳細はわからなくても、断片的だったり、時にははっきりと語られたり、キリストの十字架の贖いの出来事を踏まえつつ読んでいくときに、その全体像が見えてくると思う。

そして、キリストの弟子とされた人たちの生き方もまた同様であり、キリストの証人として、キリストの香りを放つものとして生かされている。

もちろん、罪ある人間に過ぎないため、完璧とはいかないかもしれないが、それは旧約の預言の言葉にも通じるところがあるだろう。

わからないことや、できないことはあっても、いつか、すべてが明らかにされる時が来るだろう。

詳細はその時にわかればいい。

今はただ、十字架のキリストのお姿を見上げつつ、神様が成し遂げられた救いの御業は完全であり、この約束が真実である、ということを知っていればいい。

完璧なことはできなくても仕方がないが、救いが確約されているキリストに結ばれた人生を歩める幸いを覚えたいものである。