エレミヤ13章1~11節、詩編131編、ヨハネ13章1~17節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 13:1 主はわたしにこう言われる。「麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗ってはならない。」
 13:2 わたしは主の言葉に従って、帯を買い、腰に締めた。
 13:3 主の言葉が再びわたしに臨んだ。
 13:4 「あなたが買って腰に締めたあの帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい。」
 13:5 そこで、わたしは主が命じられたように、ユーフラテスに行き、帯を隠した。
 13:6 多くの月日がたった後、主はわたしに言われた。「立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように命じたあの帯を取り出しなさい。」
 13:7 わたしはユーフラテスに行き、隠しておいた帯を探し出した。見よ、帯は腐り、全く役に立たなくなっていた。
 13:8 主の言葉がわたしに臨んだ。
 13:9 主はこう言われる。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。
 13:10 この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。
 13:11 人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と主は言われる。

詩編 131:1  都に上る歌。ダビデの詩。 主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
 131:2 わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。
 131:3 イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。

ヨハネ 13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
 13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
 13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
 13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
 13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
 13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
 13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
 13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
 13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
 13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
 13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
 13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
 13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
 13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
 13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
 13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 

 

イエス様は弟子たちの足を洗われ、弟子たちにも互いの足を洗いあうようになることを勧められた。

足を洗うのは、奴隷の仕事であり、主人に仕えるしもべのようになることが求められているのであろう。

このことは、頭ではわかるけれども、実際に仕えてみようとすると、これが意外に難しいことであることがわかるだろう。

なぜなら、人は、だれかのために仕えることが苦手というか、自分自身の存在価値をさげすまれることに苦痛を感じるからである。

自分から仕えようとしているうちはまだ良いのだが、仕える相手から、あれをしろとか、これをしろと命令されると、いくら仕えたいと思っていても、自尊心を傷つけられることにより、反感や反発心を覚えていくからである。

仕えるということと、仕えさせるということは違う。

あるいは、相手がしてほしいと思っていることと、相手のために本当に必要なこともまた違うのだろう。

他者に仕えていくことは本当に難しいことだけれども、願わくは、その人が救われるために必要な仕方で仕えていきたいものである。