出エジプト記6章28節~7章13節、詩篇100篇、マルコ7章1~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト記 6:28 主がエジプトの国でモーセに語られたとき、
 6:29 主はモーセに仰せになった。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。」
 6:30 しかし、モーセは主に言った。「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか。」
 7:1 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
 7:2 わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。
 7:3 しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、
 7:4 ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。
 7:5 わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
 7:6 モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。
 7:7 ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。
 7:8 主はモーセとアロンに言われた。
 7:9 「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる。」
 7:10 モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。
 7:11 そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。
 7:12 それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。
 7:13 しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。

詩篇 100:1  賛歌。感謝のために。 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
 100:2 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。
 100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
 100:4 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
 100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。

マルコ 7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
 7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
 7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
 7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
 7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
 7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
 7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』
 7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
 7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
 7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
 7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
 7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

 

ファリサイ派の人たちや律法学者の人たちは、一見、神の言葉を大切にし、それを守っているかのように振舞っているけれど、その実は、自分を誇るため、自分の都合よく解釈を行っていたことが問題であった。

コルバン、すなわち、自分自身を神にささげたと宣言してしまえば、たとえ自分の親であろうと、もはや何もしなくても良いと考え、あるいは、親を捨ててで神に従っていることを誇るような態度を取っていたのであろう。

しかし、神の戒めには、父と母を敬えとの言葉もあるし、そもそも、律法が本質的に求めていることがらは、神を愛し、隣人を愛することである。

自分は神を愛していると言いながら、隣人を愛することをないがしろにしているのなら、それは正しい意味で神を愛することとは言えないだろう。

神を愛するということは、神の戒めを大切にしていくことであり、それは、隣人を愛することも含まれている。

それは、たとえどんなに罪深く、神から心が離れているように見えても、であろう。

少なくとも、イエス様は「全ての人」の救いのために自らの命を捧げられたのである。

たとえ時間がかかろうとも、神のもとに立ち返り、救われることを願っておられるに違いない。

ならば、安易に、あの人たちは滅んでいるといって裁いたり、親も捨ててまでして自分従ってきたといったことを誇るようなことにはならないはずであろう。

神様の求めておられる本質的な愛の心を見失わないよう心掛けていきたいものである。