申命記5章22~33節、詩篇93篇、1ペテロ3章8~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

申命記 5:22 主は、山で、火と雲と密雲の中から、力強い声をもってこれらの言葉を集まったあなたたちすべてに向かって告げ、それに何も加えられなかった。更に、それを二枚の石の板の上に書いてわたしに授けられた。
 5:23 山は火に包まれて燃え上がり、あなたたちが暗闇からとどろく声を聞いたとき、あなたたちの部族の長と長老は皆、わたしのもとに来て、
 5:24 言った。「我々の神、主は大いなる栄光を示されました。我々は今日、火の中から御声を聞きました。神が人に語りかけられても、人が生き続けることもあるということを、今日我々は知りました。
 5:25 しかし今、どうしてなお死の危険に身をさらせましょうか。この大きな火が我々を焼き尽くそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。
 5:26 一体誰が火の中から語りかけられる、生ける神の御声を我々と同じように聞いて、なお生き続けているでしょうか。
 5:27 どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください。我々は、それを聞いて実行します。」
 5:28 あなたたちがわたしに語ったとき、主はその言葉を聞かれて、わたしに言われた。「この民があなたに語ったことを聞いたが、彼らの語ったことはすべてもっともである。
 5:29 どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。
 5:30 あなたは、彼らのもとに行って、それぞれの天幕に帰れと命じなさい。
 5:31 しかし、あなたはここにとどまり、わたしと共にいなさい。わたしは、あなたに戒めと掟と法をすべて語り聞かせる。あなたはそれを彼らに教え、彼らはわたしが得させる土地においてそれを行う。」
 5:32 あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。
 5:33 あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。

詩篇 93:1 主こそ王。威厳を衣とし 力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
 93:2 御座はいにしえより固く据えられ あなたはとこしえの昔からいます。
 93:3 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。
 93:4 大水のとどろく声よりも力強く 海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
 93:5 主よ、あなたの定めは確かであり あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。

1ペテロ 3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
 3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
 3:10 「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、
 3:11 悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。
 3:12 主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

 

 

主なる神様がモーセを通してイスラエルの民に律法の言葉を語られた時、イスラエルの民は、神を恐れ、自分たちが焼き滅ぼされるのではないかと考え、自分たちのためにモーセが神のもとへ行き、神の言葉を聞いてくるように頼んでいる。

このことは、神様も、もっともなことであると述べられているが、よくよく考えれば、イスラエルの民らの発言は、なんとも身勝手で自己中心的な言動であると言えるだろう。

神様からの祝福は欲しい、けれども、自分たちは滅ぼされたくはない、そういった自己中心的な思いがそのまま表れている。

そして、そんな自己中心的な思いに応えるように、モーセは独り神の御前に民の代わりに立とうとしているのである。

このようなモーセの姿は、まさにイエス様のそれに通じるものと言えよう。

イエス様もまた、神の祝福は受けたいけれど、そのままでは滅びるしかないような私たちのために、身代わりに神の御前に立ち、焼き滅ぼされるかのごとく、十字架にかけられて私たちの受ける裁きを引き受けて下さったのである。

モーセとて、一人の人間だから、当然、恐れもあっただろうし、許されるのなら、その場から逃げ出したい気持ちもあっただろう。

それでもモーセは逃げずに神の御前に進んで行ったのである。

召しとはそういうものなのかもしれない。

自分の意思とか、努力や才能によるのではなく、神が、そうお望みであり、そこに救われる人々がいるのなら、たとえ自分がどんなに苦難の道を歩もうとも、引き受けざるを得ない、そういう使命に生きるのなら、イエス様のご生涯にも習う生き方と言えるのだろう。

もちろん、ただ貧乏くじを引いて終わりではなく、その先に、誰か一人でも救われる人がいるからこそ、その召しは成り立つことを覚えたい。