出エジプト記12章1~14節、1コリント11章23~26節、ヨハネ13章1~17、31~35節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト記 12:1 エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。
 12:2 「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。
 12:3 イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。
 12:4 もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。
 12:11 それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。
 12:12 その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプト のすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。
 12:13 あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。
 12:14 この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。

1コリント 11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
 11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
 11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
 11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

ヨハネ 13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
 13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
 13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
 13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
 13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
 13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
 13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
 13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
 13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
 13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
 13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
 13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
 13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
 13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
 13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
 13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
  13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
 13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
 13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
 13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 

 

 

イエス様は、もう間もなく御自分が捕らえられ、殺されるであろうという日の前に、弟子たちの足を洗われた。

それは、弟子たちの罪を洗い清めることを意味しているのであろうけれど、それは同時に、イエス様ご自身が彼らの罪を引き受けることを意味し、イエス様は人々の罪を背負い、罪に対する裁きを一身に受けられるために十字架で死なれたのである。

今の時代には、直接、イエス様に足を洗ってもらうということはできないが、それと同じこととして洗礼を受けるのである。

だから、洗礼を受けるということは、ただ単に罪を洗いきよめてもらうことだけを意味しているのではなく、私自身の罪の身代わりとなってイエス様が十字架で死んで下さった事、それによって、いっさいの私の罪が赦され、神の御前に滅びることのない者として受け入れて頂けることを約束するものである。

それこそが「神に愛されている」ということの本当の意味である。

単なるこの世的な祝福やご利益にあずかることではない。

全てが赦され、滅びることのない命の約束を頂いている事、そのために、イエス様がどれだけ尊い犠牲を支払って私を救おうとして下さったかということ、それらのことを知ること、覚えること、そして、教え、共有していくことが、互いに愛し合うということなのだろう。

イエス様に愛されていることをしっかりと受け止めて、この愛を分かち合っていくことができれば幸いである。